棋聖再降臨 転生編1




「あー、暑い!」

碁会所から出てきたヒカルは迫り来る熱気に耐えられず、思わず一言そう叫んだ。

「叫ぶなよ。余計暑くなるぞ」

暑さも感じないのかと思う程きっちりとした身形で一人涼しげな顔をして隣を歩くアキラは、対照的にだらしなくシャツの襟をバタバタと扇いで暑苦しい表情を浮かべているヒカルを嗜める。が、そんな言葉で大人しくなる様な可愛い性格を持ち合わせていない彼は、止まる事無く文句を言い続けた。

「だってさ〜、もう10月半ばだってのに何で毎日こんな暑いんだよっ! 10月って言ったらもう秋だろ、フツー?」

憎憎しげに照り付く太陽を睨み上げようとして…その眩しさに思わず目を細めたヒカルは、心の中でサングラスを持ってくれば良かったと心底後悔して力無く項垂れた。

「ここで文句を言っても仕方ないだろう? そもそも19世紀以降、産業の発展に伴って大気中の二酸化炭素の量は200年前と比べて30%程増加してるんだ。世界中が暑くなって当然だ。それにこのままで行けば21世紀末には二酸化炭素濃度は現在の2倍以上になって、地球の平均気温は今より最大5.8度上昇するとの予測が本当になりかねない。その状況を考えたら天候を恨むのでは無く、それを加速化させている人間の行動をこそ責めるべきじゃないのか? それに…」
「ストップ。悪ぃ、塔矢。オマエの言ってる意味全然判んねェ」
「……」

淀みなく続く説明にウンザリとした表情を浮かべたヒカルの率直な発言に呆れ、アキラは説得するのを諦めた。彼を相手にするには諦めが肝心だと、すっかり学習したアキラだった。

「それにしても、今日は一段と暑い気がしねェ?」
「そうかな? 大体、夏は暑いものだよ、進藤」
「だから今は秋だっつーの!」

聞き分けなく子供っぽく拗ねて口を尖らせる様は、とても20代後半の青年とは思えない程幼く見える。そんな彼も、一度碁石を持てば雰囲気ががらりと変わって大人びた一流の棋士の顔になる。何しろ、今ではアキラと並び立つ最年少のタイトル保持者なのだ。

「そう言えば進藤。今年のプロ試験、今現在でほぼ合格確定の子が一人居るのを知っているかい?」
「イヤ、知らねェ。そうなの? …って、確かまだ始まったばかりじゃん? 対局だって随分残ってる筈なのに合格確定だなんて言うの気が早くねェ?」

そもそもアキラが気にする事柄だとは思えなかったので、ヒカルは内心首を傾げる。情報として新しい人間の事も知っておいた方が良いのは判るが、常に忙しい彼がまだプロ試験中にある者達に関心を寄せていると言う事自体が不思議だった。彼を知る者であれば大抵の人間が『らしく無い』と口を揃えて言うだろう。
そんなヒカルの疑問が伝わったのか、アキラは苦笑して説明をした。

「まあね。でも余程の事が無い限り、その子が落ちるとは誰も思って無いそうだよ。実際、合同予選でも圧倒的な強さで全勝した実績を持っているし、本戦でも今の時点で全戦全勝を守りきっている。全戦全勝って言うのは今まで無い事も無いからそんなに驚く事も無いと思うけど、機会があって芹澤先生に幾つかその子の棋譜を教えて貰ったんだ」
「ふうん?」

全戦全勝。かつて伊角も成し遂げ合格し、越智も門脇も一敗したのみで合格した事を思い出した。確かに難しくはあるけれど、そんなに驚くと言う程の事では無い…とヒカルも思う。それにその者がどれだけ圧倒的な強さを持っているとしても、まだ対局はかなり残っている筈で油断は禁物だった。なのに周囲の人間の評価の高さは固く、単なる一院生の残らない筈の棋譜を院生師範である芹澤が記憶していると言う事はかなり異例なのでは無いだろうか。その棋譜をアキラは教えて貰ったと言うが、一体どんなものだったのだろうかとヒカルにも少し興味が湧いてきた。

「並べて貰って、正直驚いたよ。それがプロ試験の棋譜だなんて信じられなかった」
「何で?」

この塔矢が驚く内容って何だ?

知らず、歩いていた足を止めてヒカルは真顔でアキラを見詰める。アキラも同じく足を止めて目を逸らさず、じっと見詰めながら静かに告げた。

「指導碁だったんだ」
「……は?」

一瞬、何を言われたかヒカルには理解出来なかった。指導碁って…あの指導碁?

「傍目には分からない様に打っているから、対局している受験生の誰もが気付いてないみたいだけど。ボク達プロの人間が関心を持って見ていれば流石に気付ける。…そもそも、それと分かる人間がプロ試験中の棋譜を見る事はまず無いだろうからね。芹澤先生もその才能を気に留めて覗かなかったら知らなかっただろうし、ボクもそれを見せて貰わなければ知る事も無かった訳だ」
「……」

ヒカルは唖然としていた。告げるアキラの方も、その棋譜を思い出しているのか難しい顔をしている。

「あの棋譜を見る限り、多分本気で打ったら、全て中押し勝ちの結果だったろうね」
「ちょ、ちょっと待てよ。それ、プロ試験の話だろ?」
「そうだよ」
「まだ院生の癖にプロ試験の対局で指導碁打つ奴って何だよソレ!」
「院生じゃ無いよ。外来だから」
「……」

突っ込む所は其処じゃねェだろ、とは口に出して言えず、ヒカルは只呆然と立ち尽くしたままだった。プロ試験に指導碁。しかも外来。そんなに強い人物なら、アマの時でも噂位耳に入ってきそうだったが、生憎ヒカルにもアキラにも思い当たる人物はいなかった。考え込むヒカルの姿をじっと見詰めながら、本題を慎重に告げる。

「それで、どうしてボクが興味を持ったか言おうか? …その子は師匠がいなく、囲碁経験年数も僅かでほぼ初心者だそうだ」
「……」

師匠がいなく、囲碁の初心者でいながら常識を超える強さを持っている?

そんな人間は普通いない。居るとすれば、それは自分と同じく『彼』と出逢った者か、それとも……。

「名前は『フジワラ サイ』。…これも偶然だと思うかい?」
「……っ!」
「進藤?!」

呼び止めるアキラを置き去りに、ヒカルは一目散に研修センターを目指して走った。

どこをどうやって来たのか判らない位夢中になって駆けつけ、息も切れ切れになりながら研修センターに辿り着いたヒカルは、息を整えていざ部屋に向かおうとした所で背後から呼び止められた。

「進藤君!」
「あ、古瀬村さん」

其処には顔馴染みの新聞記者が立っていて、親しげに笑ってこちらに近付いて来た。

「何、どうしたの? 何で進藤君が此処に居るんだい? 今その部屋は…」
「プロ試験やってるんだよね。ちょっと覗かせて貰うよ」

気持ちが急いていたヒカルは、言いながら部屋の方へと足を進める。が、古瀬村はヒカルの言葉に大いに驚き、慌てて服を掴んで引き止める。

「ええっ?! 駄目だよ、そんな事!」
「何で。ちょっと位イイじゃん」

止められた事に少しムッとしながらヒカルは古瀬村に振り返ると、彼は呆れた顔で説得を始めた。

「駄目だって! タイトル保持者がいきなり見学なんかしたら、大騒ぎになっちゃうよ」

タイトルを持ち続けて早数年。未だに自覚の無いヒカルの行動は、周りの人間の頭痛の種でもあった。タイトルを取得してからも変わらないヒカルの態度は好感を持つ者も多かったが、こうして無自覚なまま暴挙に出られると混乱を抑える為に周りが大慌てする事もしばしばだった。

「ちょっとだけで良いから。オレ、どうしても佐為に会いたいんだ」
「え? さい…って、ああ、藤原彩さん? だったらもう対局終わって帰っちゃったよ」
「え、ホント? …じゃ、じゃあ古瀬村さん、自宅知ってる?」

もういないと知って落胆したが、それでも諦めきれずに問い質す。そのヒカルの執拗さに、古瀬村は圧倒されつつ言った。

「知ってる訳無いでしょ。何? 知り合いなの?」
「え? いや…。でも、もしかしたら知ってる奴かも」

此処まで来たのに…とヒカルは肩を落として深く溜息を吐いた。立場を利用して適当に理由を付ければ居所を聞き出す事は容易であろうと頭の隅で思ったが、冷静になってよく考えてみれば突然押し掛けても何て聞いたら良いのか見当が付かない。まさか単刀直入に「オマエは佐為なのか」と聞く訳にいかないのだけは流石のヒカルでも理解出来た。
本音を言えば、早く今直ぐにでも事実を知りたい。けれど強引に事を進めなくても、その人物は今この世界に存在するのだ。ならば様子を見て確かめれば良いのだと自分に言い聞かせる。
そんなヒカルの心を知らず、古瀬村は納得した様に頷きながら呟いた。

「へぇ。進藤君の知り合いだったら強いのも頷けるかも。気が早いかもしれないけど、今度の新初段シリーズが今から楽しみだって専ら注目の的だよ」
「…新初段」

新人の実力を他の者が知る事の出来る良い機会でもある公式な場だ。確かにその棋譜を見れば彼が本当に噂通りの強さを持っているのかも…『彼』であるのかも判るかもしれない。
けれど、出来るなら…。

「相手は誰になるのかなぁ」
「それ! それって、オレじゃ駄目かな?」

突然立候補したヒカルを驚いた顔で見詰める。そう言った場に今まで興味を示さなかった彼が自分から名乗り出すとは、古瀬村にとって願ったり叶ったりだった。

「えっ? 進藤君、出てくれるの?」
「はい」

力強く頷いて、ぎゅっと両手を握り締める。出来るなら、自分の手で確かめたい。
――その人物が、彼、『藤原佐為』に関係する者であるのかどうかを。







「彩!」

前を歩く同期の姿を見付けた黒崎は、手を振って呼び止めて元気良く駆け寄って行く。彩と呼ばれた人物は、黒崎が辿り着くのを微笑ましげな笑顔を浮かべて待っていた。

「黒崎さん、お久し振りですね。あれから記録係の勉強は順調ですか?」
「うあ、初っ端からイヤな事聞くなぁ。うん、まぁね…そこそこ? 彩だってやった事無い癖にヤケに自信満々だよな」

拗ねたように笑えば、彩はニコリと笑って首を傾げた。

「そんな事はありませんよ。ただ、他の人がやっているのを直ぐ側で見た事があるから身近に感じているだけです」

優しく微笑みを浮かべたまま見詰められて、何故か黒崎はドキリとする。まだ12だというのに、時々酷く大人びた表情をする子だと思う。

「そうかなぁ? まぁ彩は暫く学生だから仕事もそんなに回って来ないし気持ちの余裕があるのかもね。…どうでも良いけど『さん』付けはナシにしてよ。夏梨で良いってば。皆そう呼んでるし」

苦笑いしてそう告げる黒崎に、彩は「それじゃあ夏梨さん。久し振りついでに一局打ちましょう♪」と嬉しそうに言って黒崎の苦笑を濃くさせた。そういう無邪気な所は子供である。
受験生の中で一際サバサバした性格の黒崎だったが、彩の完璧なまでの棋力の高さを目の当たりにして劣等感を抱かなかったと言ったら嘘になる。けれど、驚く程慎ましやかで常に控えめな態度と優しげな笑顔を絶やさない姿に、男女共に好感を持たない人はいなかった。

「あ、そうだ。新初段シリーズの話聞いた? 彩の相手が…」
「はい。進藤ヒカル本因坊、でしょう?」

ふわりと花開く様に綻んだ。立ち行く人が思わず見惚れて立ち止まってしまう位、それは綺麗な笑みだった。

「知ってたの?」
「先日、先生から教えて頂きました」

吃驚させようと思っていた黒崎は些か落胆したが、気を取り直してもう一つとっておきの情報を持ち出した。

「なんだよ、驚かせようと思ったのに。あ、じゃあこれは? 噂なんだけどさ、その対局ってどうやら進藤本因坊のご指名なんだって」
「……え」

今度は知らなかったらしく、彩は驚いて目をぱちくりとさせた。

「彩が強いって噂を聞いて興味が湧いたのかな? 凄いじゃん、あの進藤本因坊と対局出来るだけでなく、興味持たれるなんてさ」
「…『あの』?」

からかう様な様子の黒崎に、彩は不思議そうに首を傾げる。

「あれ、知らない? 最年少タイトル保持者の塔矢名人と進藤本因坊は、院生の憧れの的なんだよ。幾つかあたしも棋譜を見せて貰った事があるんだけど、もう強いの何のって感じ。今のあたしじゃ無理だけど、いつか対局出来たら良いなぁとは思ってる。て言うか、実物見て皆に自慢したいんだよね。二人共割りとイケてるし、塔矢名人は結婚しちゃったけど、院生の女の子達なんかファンクラブまで作ってんだよ」

まぁあたしはそういうのは興味無いんだけどね〜と面白そうに話す黒崎の内容が彩にはあまりにも意外だったので、多少引き攣りつつも笑顔を返す。

「そ…そう、ですか」

あのヒカルが……院生の憧れの人?

黒崎には見えない様に俯き、笑みを浮かべる。

もう小さい子供だった彼も立派な青年になり、一人の棋士として生きる姿は凛々しくあった。見目良く、若くしてタイトルを持ち、未だ独身で彼女の噂もとりあえず聞かないとあれば、確かに女の子達が騒ぐのも無理無い話だろう。

「どう? 流石の彩でも緊張する?」
「……そうですね」


あれから13年。タイトルまで手に入れる程成長した彼との再戦。


「望む所です」







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序章の後2年も経ってたんだ〜と今更ながら吃驚しました。幽霊編が終わってなかったからと言い訳するにしても大概ねぇ…みたいな?(疑問系で誤魔化す気かよコイツ)
とりあえずお待たせしてすみませんでした〜。
待っている人が未だ居るのかは不明ですが…。

しかし囲碁世界は知らぬ間に変化していて色々調べるのが大変…(汗)。間違ってても笑って許して下さいませ〜(爆)。


20060505