収録現場


誰もいないスタジオの脇に並べられた椅子にそっと座る。正確には『声優陣がいない』であって、この部屋の一部…通称『金魚鉢』の向こうには機械を操作する人でごった返している。そしてそのスタッフ達に挨拶した後は、邪魔にならないように椅子に座って台本を読むのが彼女のいつもの日課になっていた。その日も同じように台本を広げようとしたその時、ドアの開く音に気付いて顔を上げる。このアニメの収録には常連となった、早朝メンバーの一人である。

「おはようございます、大川さん」
「おはよう。今日も理恵ちゃんが一番のりだったね」

にこやかに笑顔で挨拶をした釘宮に、入室して来た大川も同じく笑って挨拶を返す。そしてそのままスタッフにも挨拶を交わしてから釘宮の隣に座った。

「最近なかなか理恵ちゃんより先に来られないな」

笑いながら、でもちょっと悔しそうにそんな事を言う大川の子供っぽい台詞に、釘宮も自然笑みが零れる。

「ふふふふ~。でも実は理恵もついさっき着いたばかりなんですよ」
「そうなの? じゃあ後5分早ければボクの方が先に着けるのかな」

何となく頭の中で次の通勤時間を計算し始めているような大川の様子に笑いが込み上げる。
気持ちは判る。一番というのはやはり気持ちが良いものだから。そしてその楽しさを共有出来る人がいるのは嬉しい。釘宮は、茶化すように牽制してみる。

「そんな~、良いんですよ? どうせ早く来たってする事無いんですから」
「それはそうだけどね。そうだ。次に誰が来るか当てっこしないかい?」
「あ、それ良いですね」

今日は六人の一斉収録と珍しく多い人数だったので、自分達二人を除いて早速予想を始める。一人、又一人と現れる仲間の姿に喜んだり悔しがったりする二人を不思議に思い、訊ねて「自分も」と加わる人もいつの間にか増えていた。そんな風に気兼ね無い雰囲気が当たり前のように流れるこの場所がとても心地好いと感じる。仕事としては重く難しい作品ではあるものの、そういった人材に恵まれた中、自分がその一員で在る事に誇りを感じる釘宮だった。

そろそろ集合の時間になろうとしたその時。雑談が増えて賑やかになった室内に、バタンと音を立てて扉を勢い良く開ける人物に皆の視線が集中する。

「おはようございます!」

元気良く挨拶をしてスタジオに入ってきたその人は、この場に無くてはならない人だった。

「朴さん」
「ほら、やっぱり最後だった」

予想通りの展開に、二人視線を合わせて笑った。
周りの人々に囲まれて笑う朴の姿を、自然と釘宮の視線が向かう。

やっぱり、朴さんが居ると空気が変わる。不思議な存在感は彼女の努力もあるけれど、きっとその人の資質なんだろうな。

憧憬を籠めた瞳でじっと見詰めていた釘宮の視線に気付いた朴は、嬉しそうに顔を綻ばせて満面の笑顔を向けた。途端、釘宮の顔が引き攣る。

どうして朴さんは、自分を見る度あんな笑顔を向けるのだろう?

何故か落ち着かない。心拍数が上がった気がする。あんな風にあからさまな愛情を向けられる事なんて、普通早々そんなに無い。心なしか頬が赤くなった気がして、つい慌てて俯いてしまった。

「どうしたの、理恵ちゃん?」
「…いえ、何でも」

突然俯いてしまった釘宮に驚いて、大川は心配そうに声を掛ける。それに少し顔を上げて大丈夫だと首を振る。気遣う大川に微笑んで安心させていると、背後からガシッと肩に手を置かれた。

「理ぃ~恵ぇえ~~? 何朝から人を無視してんだよっ!」

低い恨めしそうな声で(引き攣った笑顔付き)しかも耳元で囁かれるようにそう言われ、釘宮は内心動揺している気持ちを押し隠していつもの営業用(?)お惚けスマイルを返す。

「あはははは。おはようございます、朴さん。今日も良い天気ですね」
「あーうん良い天気だね…ってそうじゃねぇだろ! 何、人の笑顔を無視してんのかって聞いて…」
「ああ、おはよう朴さん」
「あ、大川さん、おはようございます」

さり気無く挨拶で間を割り込み釘宮に助け舟を出した大川の存在に漸く気付いた朴は、我に返って慌てて挨拶を返す。人の良い大川の雰囲気に気が削がれて、まだ不満には思っていたものの、ちょっと拗ねた様な表情をしただけで黙り込む。それでも大川とは反対の釘宮の隣に座るのは譲らない。いつの間にか、暗黙の了解として“釘宮理恵の隣は片方は必ず開けておく”と決まりが出来ていた。勿論主役の朴璐美の為に、だ。

不機嫌になってしまった朴に、釘宮は上目遣いに視線を注ぐと控え目に声を掛ける。

「えっとぉ~、朴さん?」
「なんでしょう?」

不貞腐れつつも返事は返してくれる。そういう所が可愛い人だな、と釘宮は思う。

「別に無視した訳じゃないんですよ?」
「へぇ~。それじゃ、どんな理由があるんですかね?」

完全に拗ねてしまっている朴に、何と言おうか悩む。照れ臭くて目を逸らしました、何て本当の事は言える筈も無い。自分からは恥ずかしげも無く愛情を注ぐ癖に、案外照れ屋な彼女は怒り出すかもしれないし、反対に調子に乗られてもその場合は自分が困る。これ以上の愛情表現は、釘宮には持て余してしまうから。

「それは…」
「朴さん。理恵ちゃんはちょっと具合が悪いみたいで」

言い淀んでいる釘宮の様子に、勘違いしたままの大川が微妙なフォローをする。途端、朴の表情が驚いて心配げな顔になる。

「え! それホント?」
「え。えっとー、それは」

話題を逸らせたとはいえ、そんな誤解をさせたままな訳にはいかないので否定しようとするが、心配するあまり勢い付いている朴に口を挟むチャンスが掴めない。

「風邪?! 薬飲んだの? ちょっと待って、あたし確か…」

鞄を開けて何やら手持ちの薬を探し始めた朴は、見付からないと判るとマネージャーに買って来て貰おうと立ち上がり掛けたので、釘宮は驚いて慌てて引き止める。

「あああ~、待って朴さん! 大丈夫だから」
「大丈夫って、だってあんた」
「だ・い・じょ・う・ぶ、です! ほら、ブースから監督が呼んでますよ~」

監督の方を指してそう言うと、朴も現状に気付いて我に返る。

「あ、ああそうか。…ホントに無理してない?」
「うん。ありがとう、朴さん」

にっこり微笑むと、朴もほっとした顔で笑う。それでも「熱は無いよね」と額に手を当ててしっかり確認してから監督の所へと向かう。名残惜しそうに立ち去るその姿を手を振って見送ると、周りの人達に「相変わらずだね」と笑われて苦笑しつつ自分も持ち場の別室へと向かう。鎧の声を出す為には皆と別の部屋で収録しなくてはならないからだ。その部屋のモニターから監督と話している朴の姿をぼんやりと見詰めた。

どうして朴さんは、そんなに自分を大事にしてくれるのだろう?

最初は共演者だから、パートナーとして大事に思ってくれているんだとそう思っていた。でも、出会ってから今まで、本当に周りが驚く程のスピードで物凄く親密になっていた。
気付けば番組の所為(ウケ狙い)とか主役だからとかそんなレベルは当に超していて。それは言うなれば、姉妹とか…恋人に近い位置にまで達していた。

そういう趣味は釘宮には全く無いし、朴も無いと思われる(周囲調べ)。ノリ的に女子高レベルかなーと釘宮は思う。姉御気質な先輩と、妹気質な後輩。

まぁ、良いか。朴さん好きだし、居心地良いし嬉しいし。…でも、誤解とかしないように、されないように気をつけようっと。

『何を誤解するのか』と言う事は深く考えていない釘宮は、やはり天然ボケなのだった。




END


二人の仲良し振りに振り回され、とうとうこんなのを書いてしまいました…。ああ、でも楽しいのは何故~?(爆)
声優事情が判りません。その辺突っ込み満載ですが(てか、それを言うなら全部じゃろーて)寛大な心で一つ宜しくしてやって下さいませ…。



20051009