今、そこに居る奇跡


気がつくと、見知らぬ場所に一人立っていた。此処が何処なのか、辺りを見回しても何も無く、ただ延々と続く真っ白い世界が視界に広がっているだけだった。

「此処は一体何処なんだ?」

呻く様に呟くエドワードに答える者はいなく、混乱した頭を右腕で押さえる。その感触に、怪訝な顔をして恐々と己の目の前に腕を持って行く。
そこには…あの日失った筈の、紛れも無い『生身の腕』があった。

「……何でだ…?」

足元を見ると、左足も機械鎧ではない生身の足だった。
本来なら喜んで良い筈だったが、エドワードには元に戻ったと言う記憶は無かった。そして慌てて辺りを見回して、一番気がかりな事を確認しようとした。

弟の…アルフォンスの姿を。

「アル?」

姿は見えない。

「アル!」

叫んだ瞬間辺りの景色が変わり、懐かしいリゼンブールの我が家が目の前に現れる。

「…何で…。家はあの時全部燃やした筈だ…」

唖然と立ち尽くすエドワードの瞳に、捜し求めていた弟の姿が映った。だが、こちらに向かって歩いて来るその姿は鋼の鎧では無く、持っていかれた時のままの…10歳の少年の身体をしていた。

「アル!」

驚いて呼びかけるが、弟はエドワードに気がついた素振りは見せない。のんびりと家に向かって歩く姿を呆然と見詰めていると、突然家の扉が開いた。開け放たれた扉の奥からは、ありえない筈の…懐かしい姿が現れた。

「か…母さん?!」

死んだ筈の母の姿を見て、喜びよりも驚きに目を見開く。弟も母には気付いた様で、無邪気な笑顔になると一目散に慌てて駆け寄って来る。それに気が付いたエドワードは、自分も近付こうとして一歩足を踏み出そうとするが、目に見えない壁にぶつかりそれ以上前に進む事が出来ない。

「何で? アル! …母さん! オレだよ、エドワードだよ!」

母は弟を見て微笑み、弟もこちらには見向きもせずに母の方へ走り近付いて行く。弟が母に近付いて行くにつれ、段々と二人の姿が自分から遠退いていく気がした。

「待ってくれ! アル! オレは此処だ! 母さん、母さん!!!」

見えない壁を強く叩いても前に進む事は出来ず、叫ぶ声は届かない。エドワードは激しい焦燥感に恐怖を覚える。そして直感した。


あちらに行ってはいけない。


「アル、駄目だ! そっちに行ったら戻れなくなる! アル!」

自分の声が聞こえない弟はどんどんと母に近付いて行き、エドワードは青褪める。

「アル! こっちを向けよ! 行くなっ!!」

母が微笑みながら手を差し出す。弟が無邪気にその手を取ろうと両腕を上げる。

「母さん! アルを連れて行かないでくれ! 頼む、…連れて行くならオレを! 母さん!」

必死に叫んだエドワードに、初めて母が視線を向けた。その顔は冷ややかで、背筋が凍りそうになる。弟を優しく抱き寄せながら、エドワードを冷たく見詰めて口を開いた。

その声は、あの空間で聞いたあの声で……。



―――言ったろ、錬金術師? 全ては等価交換だと



「……!!!」

薄笑いを浮かべた母の姿をしたその人物は、腕に収めて抱き締めていた“それ”からゆっくりと身を引く。彼女の足元に静かに崩れ落ちた物体は…赤く血に染まり、動かない骸となった弟の身体だった。
エドワードは駆け寄る事も出来ず、愕然とその場から眺めているしか出来なかった。喉が枯れて声が出ない。体中震えが走り、その場に崩れる。

アル! アル! アルフォンス!! どうして?!

信じられない光景に、吐き気がする。息が出来ない。

嘘だ。







「うわああああああああああああ!!」

叫び声を上げながら勢い良く起き上がる。苦しげに息を吐いて流れる汗を拭う。我に返ると、其処は昨晩遅く辿り着いた宿屋のベッドの上だった。
震えを抑える為に、両腕で自分の体を抱き締める。右腕は先程見た生身などでは無く機械鎧の腕だった事に、今は酷く安堵していた。
震えも止まり、息も落ち着くと、顔を上げてそんなに広くは無い部屋を見渡す。

弟の姿が見えない。

あの時の不安が蘇る。そんな筈は無いと知りながら。

「アル?」

立ち上がろうとして、身体に力が入らない事に気付いて舌打ちする。

「アルフォンス!」

大声で呼んだその時、閉まっていた扉が開いた。

「何? 兄さん」

現れたのは鎧姿の弟。例え厳つい鋼の鎧姿とて、エドワードにとっては愛しい、誰よりも何よりも大切な弟だった。

「アル…」

弱弱しく呟いたエドワードの声に、弟は首を傾げる。

「どうしたの、兄さん」

カシャンと音を立ててベッドに近付くと、片足を床に付けて兄の顔を覗く。エドワードは静かに弟の首に両腕を巻き付けて抱き締める。

「兄さん?」

ただならない兄の様子に、気遣うように声を掛ける。その優しい声がエドワードの胸に染み入り、不覚にも涙が出そうになるのを必死で堪えていた。

「……何処行ってたんだ?」
「買い物行ってたんだよ。兄さん、昨日晩御飯食べずに寝ちゃったろ? 起きたらお腹が空いているだろうと思って、何か作っておこうかなと…ここキッチン付いてるし。開いてる店探すのに手間取っちゃって遅くなっちゃった。ごめんね、今急いで作るから…」
「……から」
「え?」
「そんなの…良いから。此処に居ろよ」
「でも…」
「良いから! 側に居ろよ」
「どうしたの? 何かあったの?」

己の必死な態度に困惑しつつも心配そうな声で優しく訊ねられ、益々涙が零れそうになる。


失えない。この存在だけは。例えそれが身勝手な願いだとしても。


ぎゅっと強く抱き締める。誰にも渡さないと決意を込めて。

「目覚めた時、おまえの姿が無いのは嫌なんだ」
「…え?」
「オレの視線の先には、アル…おまえにいつも居て欲しい」

そうじゃないと息が出来ないんだ。

そう呟いて腕を解き弟を開放するが、彼は身動きせずじっとエドワードを見詰めていた。

「アル?」

弱気な発言をしてしまった事に対してバツが悪くなったが、無視されるのも癪に障るので再度呼びかけてみる。
鎧の表情が変わる事は無いが、困った様に首を傾げてから肩を竦める動作だけで、弟が呆れながらも照れている事がエドワードには判る。溜息交じりに呟く言葉は、素っ気無かったけれども何よりも優しい声音で。

「……ホント、兄さんって我侭だよね」
「! うるさい!」

顔を真っ赤にして怒鳴るエドワードを見て弟は笑う。あまりにも楽しそうに笑うから、エドワードも怒りを収めて苦笑を漏らす。がしかし。

「良いよ。兄さんが望むなら、『もう良い』って言うまで側に居てあげるよ」

あっさりと事も無げにそんな事を言う弟に、眉を寄せて低く唸る様に問う。

「……そんな約束、簡単にして良いのかよ」
「うん」

爽やかに答える声がいっそ憎らしい。

意味、判ってんのか?

「ずっと言わないかもしれないんだぞ?」
「そう?」

本気にして貰っていない様な返事に殊更ムキになる。大体この弟は、自分が彼に対して『もう側にいなくても良い』等と言う日が来ると思っているのだろうか?

「絶っ対言わないからな!」
「別にそれでも良いけど」
「……っ。後悔すんなよ?!」

喧嘩腰に叫ぶ兄を不思議そうに見詰め、立ち上がってクルリと背を向ける。

「もう。そんなに元気だったら、ご飯作るの手伝ってよ」
「おまえな…」

完璧に相手にしてないな、こいつ。

がっくりと肩を落として溜息を吐くエドワードに、ホラホラと追い立てる様に立たせて背を押す。

「ボクもね、兄さんの姿が見えないと不安になるんだ」
「え」

ドキリとするエドワードを他所に、弟は悪戯交じりに続ける。

「喧嘩してたり危ない事とか無茶してないかなとか、お腹出して寝てたり、若しくは寝てなかったり食べてなかったりしてないかなとかね。自分に対して非常識な位無頓着な兄を持つと、常識人の弟は苦労するよ」
「……」

大きな溜息と一緒につらつらと述べられた内容に、エドワードは思い切り膨れる。そんな兄を見て、弟は笑う。

「だからね…側に居てね?」

優しく伝える言葉は変わらない程いとおしくて。

「頼まれるまでも無いぜ」

不敵に笑う兄に、弟も楽しげに笑う。





今、二人で居る事が、ただ何よりも大切な一瞬。




END


可愛らしく甘甘に。兄、メロウでごめんなさ…。



20040626