どこ見てるの



月見酒に付き合えと誘われて、幸村は今信玄と共に杯を交わしていた。主が然程酒に強くない幸村をこのような場に誘う事は滅多に無く、だからこそ余計に嬉しかった。しかも今夜はいつも側に居る佐助は珍しく遠出しており、同席者もいない完全なる二人きりだ。否応無く高揚する己を諌めながら彼の部屋を訪れたのだが……。

信玄は、無表情のまま静かに杯を傾けていた。夜空を照らす見事な満月を見上げ、僅かに目を細めている。その精悍な横顔に見惚れてはいたものの、同時に寂しさが幸村の心に湧き出でる。

一人の世界を作り出しているかのような雰囲気を纏うその姿は、まるで自分の存在を忘れ去ってしまっているのでは無いのだろうかと、不安と切なさが胸を刺す。近くにいても遠くに感じる事が、幸村には辛く悲しい。

「…お館さま」
「ん?」

呼び掛ければ直ぐに視線を向けてくれる。その澄んだ黒い瞳に映るのは目の前にいる自分の姿だけれども、それは本当に彼が見ているモノであろうか。
言葉が続かず黙り込んでしまった幸村の様子に、信玄は不思議そうに首を傾げる。

「どうした、幸村? 酒が進んでおらぬようじゃな」

そう言って笑みを浮かべ、残った酒をグイと煽る。慌てて酒を注ぎ足そうとした幸村の手を止め、思慮深い面差しでその瞳を覗き込まれた。

心が、揺らぐ。

「儂と酒を飲むのはつまらぬか?」
「そっ…! そのような事、在ろう筈がござりませぬ!」
「しかしおぬし、先程から全く口に付けておらぬぞ?」
「……あ」

確かに信玄が気になって、杯を持つ手は下げたままだった。少しもこちらを見ている様子が無かったのに、気付かれていた事に幸村は驚きつつも気にしてくれていた事に喜びを感じていた。素直に言葉が零れ落ちる。

「お館さまが何を見ておられるのか気になって、手につかずにおりました」
「何、とは此れ如何に。今宵は月見酒と言うた筈じゃがのぅ?」

可笑しそうに笑う主君に幸村は拗ねた表情を浮かべる。それを見て、信玄は益々面白そうな顔になった。幸村はからかわれているのだろうか、と益々ムキになって上目遣いに睨む。

「その月を目にして、お館さまのお心に映し出されたのは何処のお方で在らせられまするか?」

酒の所為か、明け透け無い幸村の質問に、信玄は目を丸くした。いつもはどんなに悋気を起こしていたとしても、主君である本人に面と向かって言葉にする事は無かったから、その姿は信玄の目に新鮮に映った。愛しさが胸に溢れる。

「さて、どうであろう? 我が宿敵か、妻か側室らか。懐かしきおぬしの父かもしれぬな」
「お館さまっ…!」

悲鳴のように泣きそうな顔で批難する幸村の頭を、信玄の大きな掌がクシャリと撫でる。そして冷たくなっていた頬に突然優しく口付けられ、幸村は目を丸くした。

「お…おおおおお、お館さまっ?!」

真っ赤になって飛び退った幸村の態度に呆れ、そして苦笑した。

「心配せずとも、今の儂の心はおぬしに向いておる。不安であれば、儂から目を離さずにおる事じゃな」
「無論!」

からかうように言ったつもりの信玄の台詞に大真面目に幸村は頷いた。信玄は一瞬キョトンとした表情を浮かべ、そして今度こそ思い切り噴出して笑った。
何故笑われているのか判らない幸村は、首を傾げながらも放って置かれていた杯を手にして舐めるように口にする。それは酷く甘い味がした。

この主君を独占する事など不可能に等しいと自覚は在る。…けれど。

彼の人の目に映るものが例えどんな相手でも、その心を占拠するのは己で在りたいと、夜空に輝く月を仰ぎ願う幸村だった。



END




お題には沿った気がしますが、猫からは遠のいた気がします…。
一体どうしたら…!(どうもこうも/爆)


20080302