迫り、きたるもの  その1

  瀧澤 ニャー



 それは、ずっと先のことだと思っていた。
 明日や明後日のことではないと、僕たちは思っていた。

 蝉の、声が廊下にこだましていた。
「はい! シーン24、カット3、スタート!」
 8ミリビデオカメラの視界から、カットナンバーの殴り書きされた紙が退けられる。
 現れたのは夕暮れの階段。非常口のプレート。たたずむ女の子。短い制服のスカートから下着の見えないぎりぎりのラインで、カメラは少女を見上げる。照明を浴びたブラウスがやけに白く感じられる。
 女の子はゆっくりとカメラの方を見下ろす。愛玩動物じみた黒い瞳。柔らかく、丸い頬。
 カメラと少女とが見つめあったまま、時間が流れた。ファインダーの中で、時折吹く風にゆれる髪をのぞいて、全ての事物は停止した。
 また、時間が過ぎた。静謐に満ちた世界に、変化が訪れた。引き結ばれていた少女の唇が、しだいに開き始めた。
「…ごめん、セリフ何だっけ」
 決まり悪そうに少女は笑った。
「由美ちゃん、たのむよォ」
 監督にして映画研究部部長の田崎が、抜けたような声を出す。僕も、カメラを止める。
「だから、『なんで、ここにいるんだろ』だって」
 顔も体型も角張った印象の部長が、声を張り上げる。彼は脚本も手がけ、セリフは全て暗記している。
「ごめーん。さっきまでちゃんと覚えてたんだけどなー」
「その先は大丈夫かよ」
「えへへ」
 女の子は階段を駆け降りると、ライトを持っていた一年生の脚本を取り上げ、ぱらぱらめくる。
「んっとにしっかりしてくれ」
 田崎は太い腕を組む。少々寸足らずだが、柔道部だといってもみな信用するだろう。ちなみに彼の好きな映画監督は岩井俊二。ロマン派である。
「えーと、『この終わりのない、繰り返しの日常に…』うー、覚えられない」
「だーら、脚本覚えとけってゆーただろ」
「えへへ」
 笑ってごまかそうとする女の子は佐々木由美子十七歳。今回の映画の主演女優。ちなみに由美子の好きな映画監督は北野武。権威に弱くミーハーなのだ。
 笑い方が愛らしかったので、僕はカメラを回す。
 由美子の可愛いところを保存しておくのは、僕の(現時点での)ライフワークだ。だからというわけではないが、僕は、カメラを受け持っている。僕の好きな監督はエド・ウッド。
「わかった、セリフ紙に書くよ」
 あっさりと田崎は折れた。美人と愛敬と慣れは強い。
「で、目線はずっと、カメラの方に固定だから、こいつに貼っときゃいいだろ」
 田崎はセリフを書いた紙を僕に貼りつける。
「瞬、その紙落とすなよ」
「へいへい」
 僕は答えてしゃがみ、カメラを階段の方に合わせた。
 由美子のちょっと大き目のお尻がファインダーの中を昇っていった。

 その日の撮影を終えた僕たちは、器材を抱えて、部室棟へと戻ってきた。
 今時、部活なんてやろうって連中は、酔狂な奴らだ。僕だって、高校から金をもらって映画が撮れると聞かなかったら、部活になんて入らなかったろう。もっとも、今やっているのは、今後、自分たちで映画を撮るための練習でしかないと思っているのだけれど。それでも、ただで練習ができるんだから、ありがたいことだ。
 いつもは閑散としている、部室棟に、今日はいくつもの灯が点っていた。
 文化祭に向けて、どこの部活も追い込みをかけているらしい。といっても、文化部なんて、映研以外には天文部と軽音部、数学部、写真部、それと、廃部寸前の漫画部だけだ。
 汚い二階建ての建物の、その外にある階段を昇ると、数学部の連中が、どやどやと降りてくるのに行き違う。同じ型から抜いたかのように、似通った男たちで、皆が小太り、出っ歯に眼鏡だ。
「もう帰んの?」
「いや、ローソンにメシ買いに」
 最後尾にいた副部長の宇和島が、立ち止まって応える。
「そういえば、ハードディスク直ったの?」
「いや、だめ」
 ヒヒッと笑って肩をすくめると、宇和島は仲間を追いかけて駆け降りていった。数学部が実際にやっているのは「パソコンで遊ぶこと」だ。それゆえ、通称はパソ部。また、学校の回線を使ってネットに繋ぎ放題なので、エロ画像や違法コピーのゲームなども入手し放題。それゆえ、またの名をエロ画部。
 もっとも、パソ部の連中はけっこう勉強熱心で優秀らしく、悪行の一切は学校にばれないよう、細工しているらしい。
 建物の二階、その一番奥に映研の部室はある。軽音以外は明かりが点いている。  普段はさっさと帰ってしまう漫画部の部室からも光が漏れている。漫画部の連中はよく知らない。パソ部と対照的に女の子ばかりらしいけれど。今はもう三年生しかいないらしい。通称や部。「やおい」だから。
 部室の扉を空けると、そこは暗闇で、部屋の最も奥まった場所に鎮座したワイドテレビのみが、室内に淡い光を投げかけている。
 テレビの画面は扉のところからはよく見えない。その画面の前に巨大な肉の固まりが置かれているからだ。
「おう、お帰り」
 振り向きもせずに肉が声をかけてくる。
「どう?」
「まあ、ぼちぼちだな」
 田崎と肉との間に、あまり意味のない会話が交わされる。
 肉の名は寺井敦也。編集やら、映像の加工やらの作業は一手に引き受けている。
「何で、電気つけないの?」
 由美が明かりのスイッチを手探りしながらきく。敦也は一瞬低くうなり、しばし沈黙した。
「いや…そうだな、暗い中で作業したほうが、…画面が見やすいし、…」
「…そうかな?」
 敦也はその言葉に、やっと顔を向ける。灯された明かりが、彼がやや不機嫌なのを暴き出した。
「だから…」
「ミーティング始めるぞ。全員中入れ。瞬、扉閉めてくれ」
 険悪な空気を感じたのか、田崎が一年生らを追い立てて部室に追い込んだ。僕はあわてて扉を閉めた。

 各部員の短い反省と、田崎の少々長い説教の後、ミーティングはお開きになった。
 部員たちは三々五々帰路へとついた。
「天文部寄ってくから、ちょっと待っててね」
 そう言い残して、由美は部室を走り出てゆく。ぼくの返事はきかないままだ。
「パルコ閉まっちゃうじゃねーか」
 買い物の予定をキャンセルさせられた僕は、悪態を吐いてみせる。
「あー、たいへんだねー」
 田崎が僕を横目で見ながら、ごついザックを背負う。
「かぎ閉めといてくれ。じゃ、お先」
 にやにやしながら田崎は部室を後にする。
「なんだよなんだよ」
 田崎を見送った後、しばらくはテレビをつけてぼんやりとしていた。
 ニュース番組では、最近とみに増えているらしい「青少年の犯罪」とやらを特集している。社会学者の肩書きをもった男が、学校社会で追いつめられるだの、逃げ場がないだのと分かったようなことを言っている。「アホか」と思う。犯罪なんて、やるやつはやるんだし、やらないやつはやらないんだ。頭の悪いやつが捕まるだけのことだ。捕まらずにずっと逃げ切れるほど頭がいいわけじゃないから、僕は犯罪をしないだけだ。
 夕方のニュースが終わっても帰ってこない由美に、ちょっと腹が立って僕は部室を出た。
 明かりがついているのは、うちの部室と天文部だけになっていた。形ばかりのノックをして、僕は天文部の部室に入る。どうせみんな顔見知りなのだから、咎めだてはされない。天文部の部室はもぬけのからだった。荷物やノートが長机におかれたまま誰もいなかった。奥のベランダへの出口が開いているところを見ると、望遠鏡を持ち出して、屋上で観測しているらしかった。
 ベランダの端にある細い階段を昇ると、屋上に出ることができる。屋上といっても、二階建ての部室長屋の上なのだから、そんなに観測の条件がいいわけではない。が、他に場所もないので、校内では天文部はそこで活動していた。
 階段に近付くと、幾人かの興奮したような声が屋上の方から聞こえてきた。僕はきしむ階段をかけのぼった。
 屋上では、二本の望遠鏡が天に向かって立てられ、それに七、八人の部員たちがむらがるように集まっていた。
「おい、見えたかよ」
「え、よくわかんない」
「ちょっとかしてみ」
 などと、口にしながら、奪い合うように部員たちは望遠鏡の接眼部を覗き込んでいる。
「ほら、今見えたろ」
「うん、光ってた」
「だろ、ほらまただ」
 僕はそう言いながら望遠鏡に取り付いている河合の肩を叩く。
「何だよ」
 顔を上げた河合を押しのけるように、他の部員が望遠鏡を覗く。
「よう、何か見えるの?」
 河合は僕と同じクラスで、天文部の副部長をしている男だ。一言でいえば、「ひょろながい」男だ。
「ああ、謎の怪光ってとこかな」
 やや興奮気味に河合は言う。
「謎の…何だって?」
「光。オリオン座の辺りで、何度もチカチカって光が見えてさ。それも毎回微妙に違う場所で」
「…それって、何?」
「わからん!」
 河合の興奮がやや高まる。鼻の穴が開いている。
「流星じゃないし、人工衛星や航空機とも違うみたいだ」
「ふーん」
 事のすごさはちっとも分からずに、僕は天文部員たちの様を見る。岩崎という一年生の女の子が、「見えた見えた!」とこれまた大興奮している。そのうしろで代わって欲しそうな目をした由美子が立っている。
 しょうがない、もう少し待つか。どうせパルコは閉まっちゃうし、などと思っていると、階段の方から、怒声が聞こえた。
「おーい、天文部、まだ残ってるのか!? 申請の時間過ぎてるぞ!」
 見回りの若手教師が階段を昇ってくる。
「先生、ちょっと大発見かもしれないですよ!」
 いかにもお調子者の天文部長が言うが、教師はより不愉快そうになる。
「発見の続きは明日にしろ。文化祭前に活動停止食らいたくないだろ?」
 部員たちは力なく返事をして、渋々片づけをはじめた。由美は最高に不機嫌な顔をしていた。

「ほんとに大発見なの?」
 帰り道、僕は由美にきいてみた。
「さあ」
 由美はあっさりとこたえた。
「天文部だろ」
「うん。でもよくわからないんだなー」
 そう言って、いひひ、と由美は笑う。
「やる気ねー部員だよなー」
「そーでもないよ。由美、星を見てるのは好きなんだけど。あ、ampm寄っていい?」
 由美はこたえも聞かずに、コンビニの方へとかけて行く。
 このコンビニまで来てしまうと、僕の家と由美の家はもう、すぐ先だ。この言い方は好きじゃないんだけど、僕と由美は幼なじみってやつだ。小学校も中学校も一緒。家もすぐ近所だし、親同士も知り合いだ。
 由美は雑誌の陳列棚でなにか探している。女性誌の棚の前だ。僕は由美の背後を通り抜けて、奥にある飲物の陳列棚へ行き、コーラをとって戻ってくる。
「ねえ、瞬」
 こっちを向かずに由美は僕を呼び止める。
「なんだよ」
「ついでにこれも買っといて」
 由美が手渡す雑誌は「anan」で、「特集:セックスできれいになる2015」と大きな赤い文字で印刷されている。おいおい本気かよ。
「おいおい本気かよ」
 受け取ってしまった自分を馬鹿だと悔やみながら、僕はうめいた。
「よろしくー」
 由美はにやにやしながらコンビニを出てゆく。
 僕は支払いを済ませ店を出て、丸めた「anan」で由美をひっぱたいた。
「いたー」
「ったく恥ずかしいだろーが」
「だーって、わたしのほーが買ったらより恥ずかしいじゃん。瞬だったらいやらしい男が興味本位で買ってるんだな、ってかんじでいいじゃん」
「いいわけあるかっ」
 もう一度叩いて、「anan」を由美に渡す。
 そして、僕らは手を取って歩き出す。僕たちの家のある入り組んだ住宅街の方へ。
 古くから住宅の立ち並ぶこの界隈は、区画整理とは無縁で、曲がり角と小さな暗闇に満ちている。
「うーん。じゃ、お詫び」
 言って由美は立ち止まり、目を閉じる。
「んな日常的なものが詫びになるかい!」
「あーひどー」
 言いかけた由美の唇を、でも僕はふさいだ。しばし、濡れた舌先が触れ合う。そして、近付いてくる人の話し声に、僕らは身を離した。
「来週」
 急に由美が言った。
「来週もずっと撮影あるのかな」
 闇の中で、由美の瞳が妙に光をもっているように見えた。
「そろそろ、終わりじゃないか? 今週中には撮れるだろ。あとは田崎と敦也の仕事だろ」
「だよね。どっか行こうよ」
 文化祭の準備に追われて、夏休み中から由美と二人ではあまり出かけていないことを思い出す。
「久しぶりに、遊び行く?」
 由美の目がかがやく。
「うん、いくいく!」

 相変わらず、暑い日が続いていた。
 僕らの教室のある旧校舎には、クーラーは付いていない。うだるような熱気に、教壇の数学教師も、どこかやる気なさげに見える。いくら商売でも、汗を拭き拭きしゃべり続けるのは苦痛だろう。
 案の定、授業は定刻の十分前に終わりになった。僕と河合は連れ立って、購買へと向かった。
「昨日はやられたなー」
 ちっともやられてはいないような調子で、河合は言う。
「昨日? 榊原だろ」
 屋上をうろうろしながら天文部を追い立てる教師の姿を思い出す。
「あれ、結局なんだったの?」
「それが、わからないんだなー」
 河合は平たい唇を「へ」の字にまげる。
「ネットとかは?」
 僕は河合が、いくつもの天文関係のホームページやチャットに毎夜顔を出しているのを知っていた。
「見た。掲示板とか、そのことで持ち切りなんだけど」
 考えるように河合はちょっと首をひねった。
「見た人はたくさんいるんだけど…みんな、あれは何だ?ってきくばっかりで、はっきりしないんだよね。天文台とかの公式の発表もないんだよね。海外の天文台や学会のサイトも一応見てみたんだけど、全然」
「まだ、昨日の今日だし。更新されてないんじゃん」
「うーん。そうかもなあ。何人かの天文学者の掲示板も見たけど、わからんって言ってたし」
 河合はまた首をひねる。けっこう気になっているらしい。
「先輩にゃん!」
 やや高い女の子の声とともに、河合が僕の脇から突き飛ばされてつんのめった。
「わああ。なにするんだー」
 河合は何とか踏みとどまって、購買のパンの山に倒れ込む事態はさけられた。
「あああ、ごめんなさいー」
 小柄なショートの女の子が、より縮こまって、両手を顔の前で合わせた。
 岩崎咲美、天文部の一年生だ。後ろから河合に衝突するのは、いつもの彼女の挨拶みたいなものだ。ただ今日は、考えに沈んでいた河合の飛びが、いささかよすぎたようだ。
「むむ、岩崎か」
「ごめんなさいー」
 岩崎は頭を下げて、またひょいと上げた。
 僕らは購買で手早く昼飯を買い込むと、部室へと向かった。
「先輩にゃん、あの後、何か分かった?」
「いいや。どこも似たり寄ったりだねー」
 背だけは高い河合と岩崎が並んで歩くと、ちょうど頭一つ分くらいの差がある。岩崎はいつも、河合の顔をちゃんと見て話をする。よく首が疲れないものだと思う。
「ああ、昨日、岩崎と天文のサイトでチャットしてたんで」
 河合は僕のために補足説明を入れる。
「あのあとー、しばらくいたんだけど、眠かったんで寝ちゃったんだ」
「だいじょぶ。たいした発言なかったよ」
「ニュースとかは?」
「何にも言ってないですねー」
 また河合は首をひねる。
「そっか。今日も帰ったら調べてみよ」
「あとでパソ部のマシンがあいてたら、ちょこっと見させてもらおーと思って。岩崎もみる?」
「見る見る!」
 岩崎は大きな目を輝かす。この熱心さを誰かさんに分けてあげたい。
 昼飯を購入した僕らは、部室棟へ向かう。いつもの昼休みの行動パターン。
 映研の部室をちょっとのぞくと、敦也と一年生が静かに食事している。
「由美みた?」
 敦也はやや視線を上げると、黙って首を振った。
「あー、またサボりかー?」
 由美は何かというと、よく休む。由美の母親からは、よく愚痴をきかされたり、相談されたりして困るので、もうすこしちゃんとしてほしい。
 ハムカツパンをかじりながら、パソ部に行くと、河合と岩崎はパソコンの一台を占領していた。
「変わりないね」
 スクロールする画面を覗きながら、岩崎が呟く。
「そうだな…じゃ、ニフティの方に…」
「うん」
 しばらく河合はせわしなくマウスを繰って、次々ページをジャンプした。
「あれ?」
「あれ?」
 二人は一斉に声を上げる。
「削除されてない?」
「削除されてる!」
「何がさ?」
 二人の驚く声に、僕だけでなくパソ部の連中も画面の前に集まる。
「昨日の、例の光についての発言。ごっそり削除されてる」

 昼休みが終わって、僕と岩崎は部室棟を出た。河合は授業サボってもう少し調べるという。興味もあるし、文化祭の大ネタにしたいらしい。
 部室棟を出ると、入口のすぐ横に、由美がしゃがんでいた。
「あ、瞬」
 由美は、私服だった。白いTシャツ、ジーンズ地の短いスカート。サンリオの、ちょっと幼児趣味入ったヘアピンで前髪を止めてる。
「遊びいこー」
「マジかよ」
 無邪気に由美はうなずいた。
「お前、出席とか大丈夫なの?」
「うーん。まだだいじょぶなはず。行こ、行こ」
 由美は僕の手をとって、校門の方へ引っ張っていく。
「ちょっと待てって」
「どーせ、制服じゃないから授業出れないし」
「そうじゃなくって、僕の荷物…」
「いーじゃん、明日で」
「部活が…」
「放課後までに戻ればいいじゃん」
 数十分後、僕と由美は渋谷にいた。
 渋谷駅を降り、駅の方を振り返ると、巨大な、柱が見える。駅を中に繰り込む形で建設された巨大なビルディング。
 見上げるとそれは果てしなく天に伸び、やがて、乳白色の「天井」と接している。
 東京都天上区。その天井はそうした名で呼ばれている。JR山手線周内に建設されている空中の土地。地上六百メートルに形成された人工大地、それが天上区だ。
「いつできるんだろーね?」
 由美が真上を、天上区と空との切れ目を見上げる。
「さあ。前は平成二十五年とか言ってなかったっけ?」
 東京都および近県住民の大反対を押し切って、天上区の工事が着工されたのが、たしか僕が生まれた頃。だから、1990年代の終わりか2000年代の初めってことになる。未だに工事は続いている。もっとも、天上区を支える百本ばかりの「柱」はビルとして機能しているけれど、その上の「地表」にはまだ上がることはできない。
「どうする? ゲーセン行く?」
「うーん。そうじゃなくってぇ」
 由美は駅からセンター街の方へのびる、クロスした交差点を渡って、道玄坂の方へ歩いていった。
 さらに数分後、僕らはラブホテルの一室にいた。
「だあって最近してないじゃん」
 部屋に入るなり、由美はしなだれかかってくる。吐気の臭気と熱が、鼻孔に押し寄せる。
 僕の中で、スウィッチが入る。べっとりと舌を絡めながら、Tシャツをたくし上げる。
「やん」
 由美自ら、スカートのベルトを解く。僕はブラの留め金を外すのに手間取り、やや苛立つ。白い、初めて見るブラ。新しく買ったんだろう。留め金が固いのは、そのせいだろうか。
「ちょい、待って」
 由美はスカートを脱ぎ、床に放り投げる。こっちは何度も見た、サンリオのキャラクター入りパンツ。
 由美がベッドサイドのテレビをつける。由美は、何か音がしていないと落ち着かないのだ。
 画面いっぱいに現れた漫才師に向かって、由美はブラを外した。
「あ、けっこう跡ついてる」
 乳房の下側を見て、由美が呟く。
「無理に寄せて上げるから」
「ぶー」
 赤くなっている乳房の下のすじを撫でると、指先に汗の湿り気を感じた。
 ブラに詰め込まれ、押し上げられていた、小さな肉塊をもみほぐすと、また唇から呼気がもれた。
「んふっ」
 由美は強く抱きつき、それに引っ張られるように、僕らはベッドの上に倒れ込んだ。
 ズボンも下着も、引きちぎるように脱ぎ捨てた。由美が慌ただしく僕の陰茎をさする。
「ね、ね」
 意味のない音節。
 僕は太股に手のひらをのせ、ゆっくりと由美の股間へと近づける。
「やん」
 中指に暖かみとぬめりをもった窪みを感じ、つぎの瞬間に僕の手は、由美の右手に掴まれ、退けられていた。
「ねえ」
 股間に向ける僕の視線さえも、由美は遮った。
「それよりぃ」
 由美の左手が、僕の陰茎を引っ張った。やや残念な気分をいだきつつも、引かれるままに、僕は由美にのしかかっていった。
 左手が陰茎をつかみ、右手が入口を押し開く。いつものように僕が身を寄せると、挿入は行われた。
 僕が動き出すと、それに合わせて、由美は押し包むように股間にあてた右手を、性器を擦るように動かしだした。
 僕はコンドームをするのを忘れたことを思い出し、そしてすぐ忘れた。

 翌日、僕と由美は、部長の田村にさんざんに嫌味を言われた。
 結局、僕らがホテルを出たのは六時過ぎで、五時から行っているはずの撮影には全然間に合わなかったのだ。
「田村にはまいったよなー、あんなに説教されるとは思わなかった」
 僕も由美も帰りの列車の座席で、ぐったりとしていた。
「えー。でも瞬はいいじゃん。何ていうか…部長、瞬には甘いよね」
「そうか?」
 何だか「瞬のが楽じゃん」と言われたようで、少し腹立たしかった。
「部長さー、瞬には「しょうがないな」、みたいなとこあるじゃん。でもわたしには「自覚あんのか?」とか「いい加減にしろ」とか容赦ないよ」
 言われてみれば、田村は由美にきつく当たっている、ような気もする。そうでない気もするが。
「そりゃ、主演女優は替えがきかないからじゃないの?」
「でも、わたしじゃないシーンも進めてなかったよ。カメラいないからって」
 由美はちょっと責めるような口調になる。僕は一年生にも折りに触れ、カメラの扱いを教えているのだが、田村は絶対に彼らには撮らせない。
 まるで、おのれの芸術は僕の介添えによってしか完成しないとでもいうように。
「基本的に部長って、女の子にはきついよね」
「そうかー?」
「だって、加納さんとか」
 加納さんというのは、ちょっとしたミスを田村に一喝されて、退部した一年生の名だ。
「そうだなー」
 僕は生返事をする。
 加納さんの件では、僕はちょっと反省するところがあるのだった。その日、田村が加納さんを呼び付けて、部室で説教しているのは知っていた。知りながら、歯医者の予約があった僕は、さっさと帰ってしまったのだ。たいしたことないだろうと高をくくって。
 後で思えば、由美の話を田村が聞くわけないし、敦也はまあ、黙ってみてるだけだ。多少なりとも田村をとりなせるのは、多分僕だけだった。
 翌日になって、加納さんが泣いても責めたこと、由美がなんとか止めさせようとがんばったことなんかを聞いて、しまったと思ったけど、後の祭りだった。
 忘れていた後悔が、じんわりと湧き出して、意識を占めた。
「加納さんには悪いことしたよなー」
「べつに、瞬が悪いわけじゃないけど。でも、結局いつかはあーなったんじゃないかなー。田村が部長をやってる代はさ」
「そうかな」
 そうだな、と思う。でも、じゃあよかったのかというと、そうじゃない。
 手の届かない、過去のジレンマ。それを僕は、意識の底に幾つ押し隠しているのだろう。
 僕の、問いとも言えないような問いに、由美はこたえなかった。もうこの話は終わり、とばかりに首を巡らし、窓外を見やっていた。
 暗い世界に街灯が流れてゆく。
「あ、ほらあそこ」
 ふいに由美が闇の中の一点を指差した。風景の移動といっしょに動く由美の指先に、僕は闇しか見出すことができなかった。
「なに?」
「ジャングル山」
「ジャングル山?」
 ゆっくりと蘇ってくる、懐かしく、そして不快な、記憶の沈殿物。
 車内アナウンスが、僕らの降りる駅を告げた。

 あの日僕らは、その日が明日や明後日なんかじゃないと、思っていた。

to be continue


ニャーの小説部屋目次へ
ニャー国黒の広場へ