3・1ビキニ・デーの意義


 1954年3月1日、南太平洋のビキニ環礁でアメリカの水爆実験が行なわれました。この実験は、コードネームを「ブラボー・ショット」(15メガトン、広島原爆の1000倍の威力)というが、大量の「死の灰」(核分裂生成物)を北半球にまき散らしたので、「汚い水爆」ともよばれました。(※アメリカは1946年からビキニ環礁で核実験を行なっている)

 この実験で生じた「死の灰」が、実験場から100キロメートルも離れた公海上で操業していた静岡・焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」にふりそそぎ、乗組員23人が急性放射線障害となって、そのうちの一人、無線長の久保山愛吉さんが、手当てのかいもなく9月23日に急性白血病で死亡(直接の死因は肝臓障害)しました。また「第五福竜丸」が獲ってきたマグロから強い放射能が検出されたため、焼津、東京、三崎、大阪、高知など各地の魚市場で大量の魚が廃棄されつづけました。こうして、寿司屋や魚屋にはお客がよりつかず「放射能恐慌」が生じ、東京の中央卸売り市場では、コレラの流行以来はじめて取引が停止されるまでにおよびました。

 1954年3月18日、厚生省は、マーシャル諸島水域で操業、または同水域を航行した漁船は、焼津、清水、東京、三崎、塩釜の指定5港と大阪や高知など指定外13港に入港し、船体と魚の放射能汚染検査をうけるように通達しました。検査は同年12月末まで行なわれ、延べ856曳の船と魚が検査され、457トンのマグロが土中や海中に投棄されました。この中には長崎で被爆をし、ビキニで再び死の灰を浴びてしまった二重被爆という体験をしている人がいることもわかっています。

 その後、第五福竜丸は文部省に買い上げられ、東京水産大学の所属船になりました。11年後に廃船となり、東京・夢の島の廃船処理場近くに棄られました。1968年から市民や平和団体による守存運動が起り、73年に「財団法人・第五福竜丸保存協会」が創立されました。

 日本政府は、第五福竜丸事件は「慰謝料」の支払で決着済みという態度をとり、被災者の根本的な救援は行っていません。第五福竜丸の乗務員は「被爆者手帳」は持っていないばかりか、他の被災船乗務員の救済の道も閉ざされたままとなっています。

 一方、この実験の「死の灰」は、太平洋諸島の住民にもふりそそぎました。そして、マーシャル地区のアイリングナエ(16人)、ロンゲラップ(66人)、ウトリック環礁(157人)、ロンゲリック(アメリカの観測員28人)が放射能に被ばくしました。以降、彼らは十分な治療もなされずに、核実験の「モルモット」として、太平洋を流浪させられることになりました。そして今日でも、甲状腺ガンなどさまざまな疾病にわずらわされています。

 また、当時はアメリカとソ連の激しい核軍拡競争の最中にあってソ連はカザフ共和国のセミパラチンスク核実験場で、アメリカは太平洋のビキニやエニウエトック環礁で、猛烈な核実験競争が行なわれ、その「死の灰」も雨とともに日本全国にふりそそぎました。そのため野菜、イチゴ、ミルクなど生鮮食品も放射能で汚染されました。気象庁は、雨がふるたびに、毎日になんカウントの放射能が含まれていると発表する状況でした。国民は、海と陸との放射能汚染によって食生活を脅かされ、自然発生的に「原水爆実験反対」の声が各地に高まりました。いわばはじめての大規模な放射能に生活が脅かされたのでした。これをきっかけにして「原水爆禁止を求める署名」運動が全国的にまき起こり、この運動が母体となって原水禁運動が成立したのです。

 ビキニ・デーに際して、第五福竜丸の無線長であった久保山愛吉さんの「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という言葉をかみしめ、核実験を全面的に禁止する条約(CTBT)の成立に向けて、全国から運動を展開しましょう。

(文責・野崎)