冷戦の終結と核軍縮の現状


1、 核軍縮の流れ

冷戦終結とSTARTプロセス

 米ソ間の核軍縮交渉が、冷戦下の閉塞状況を破って新しい展開を見せたのは、1987年12月に成立した中距離核戦力 (INF) 全廃条約が最初でした。レーガン大統領とゴルバチョフ書記長がワシントンで調印したINF全廃条約は、歴史上初めての核兵器の削減条約であるだけでなく、一分野の核兵器を全廃するという、軍縮史上特筆すべき条約です。 (ただし海洋発射巡航ミサイルはINFに含まないこととされました。)
 この流れは、1982年に開始されていた戦略兵器削減交渉 (START)にも現れました。INF全廃条約の合意がなされた歴史的なレーガン・ゴルバチョフ首脳会談 (1985年11月)で、両者は次のゴールとして 「戦略核50%削減」 を打ち出し、共同声明には 「核戦争に勝者はいない。 したがって始めてはならない」 という有名な言葉が盛りこまれました。1991年7月31日、レーガン大統領に代わったブッシュ大統領とゴルバチョフ大統領は、モスクワで第一次戦略核兵器削減条約 (START1)に調印しました。この署名にはINFで解体されたSS20、パーシングの金属を溶かして作ったペンが使われました条約の内容は、ICBMの弾頭はほぼ半減されたものの、 全体としては3割程度の削減にとどまりました。とはいえ、戦略核兵器の削減に合意した歴史上初めての条約として、 きわめて大きな意味をもっています。 条約は、 発効後7年間で削減を実行するよう定めています。ところが調印後数ヵ月にしてソ連邦は解体し、旧ソ連邦の核兵器は4共和国に分散することになりました。 そこでアメリカとロシア、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシの5ヵ国はSTART1の批准・発効の条件を定めるためリスボンに集まり、「リスボン議定書」 に合意しました (92年5月24日)。1994年12月5日、ウクライナが核不拡散条約 (NPT)に正式に加盟した時点で、リスボン議定書の条件がすべて満たされたことになり、 START1は正式に発効しました。したがって、START1の履行期限は2001年末となります。

START2とSTART3

 START1に続くSTART2は、 冷戦時代には考えられなかったような速さで合意に達し、 提案から1年足らずの1993年1月にモスクワで調印されました。 その内容は、 2003年までに米ロとも戦略核兵器の弾頭数を3000〜3500発まで削減すること、 その際に陸上配備の多弾頭 (MIRV) ミサイルを廃止し、 潜水艦発射弾道ミサイルの弾頭数は1700〜1750発に削減するなど、 核兵器の削減をさらに進めるものでした。しかし、 START2の批准に対する両国の議会の抵抗は強く、 調印してから3年たった96年1月になってやっと、 米国上院がこれを承認しました。 ロシア議会では2000年4月のNPT再検討会議直前に批准されました。ロシアの議会では、 米ロ間の弾道弾迎撃ミサイル制限条約 (ABM条約) に違反する恐れのある米国のミサイル防衛構想 (国土ミサイル防衛=NMDや地域ミサイル防衛=TMDなど) に対する反発が強く、START2が条約通りに履行されるか目が離せません。(START2の批准が困難に直面っするなかで、クリントン大統領とエリツィン大統領は、1997年3月、 ヘルシンキで首脳会談を行ない、 打開のための新しい合意に達しました。ABM条約尊重の立場に変化はないこと、 新規NATO加盟国への核兵器の配備はしないこと、 START2で廃棄する運搬手段の廃棄実行期限を遅らせること、START2がロシア議会で承認されるとただちにSTART3に向けた交渉を開始することなどが合意されました。これによってSTART2での運搬手段廃棄期限は2003年から2007年に延期されました。)


2、 核兵器の現状

なお約2万発が作戦配備

 核兵器削減を求める世論のなかで、 核弾頭の数が減少していることは事実です。 しかし、その進展のスピードは必ずしも満足のいくものではありません。
 5つの公然たる核保有国 (米、 ロ、 英、 仏、 中) の核弾頭保有数は1998年末で19,290発と推測されています。これはいつでも使用できる状態で作戦配備兵器として部隊が管理しているものの数で、必要時に作戦配備するための予備や廃棄を待って貯蔵されているものの数を含めるとさらに多くなります。
 アメリカでは、 オハイオ級の最後の18隻目となる戦略原潜 (SSBN) が97年9月に就役しました。 全体としての核弾頭数はやや減っていますが現在もアメリカの戦略原潜は、 冷戦時代と同じ密度のパトロール態勢をとっており、 どの瞬間をとっても約10隻が海底に潜んで発射態勢を整えています。 また、 戦略核爆弾の一部が地中貫通型爆弾に改造されて (B61-11)、一昨年末に配備されました。
 旧ソ連の核兵器はロシア、 ウクライナ、 カザフスタン、 ベラルーシの四共和国に分散していましたが、 これらはなくなりロシア以外には核弾頭はゼロになりました。 ロシアの戦術核兵器の数はフォローすることが難しくなっています。
 イギリスは、 1998年3月末に核爆弾を全廃しました。 これでイギリス空軍は非核部隊となり、 イギリスの核戦力は、 アメリカのトライデント・ミサイルを発射するバンガード級戦略原潜一本に単純化されました。 しかし、 3隻目の戦略原潜が就役の予定ですので、 核弾頭数は20個減少しただけです。
 フランスは、 地上配備の核兵器を全廃しました。 一方で戦略原潜と空対地中距離ミサイルの近代化を進めています。
 中国は、 冷戦後の核兵器削減をまったく発表していない国です。 初めての多弾頭ミサイルや射程の飛躍的に長い潜水艦発射弾道ミサイルの開発が続けられていると伝えられています。
 この他にも、 イスラエルは中距離・短距離の運搬手段を含めて、 推定100〜300発の核弾頭を持っていると信じられています。
 1998年5月に核実験を相次いで行なったインドとパキスタンも核兵器を保有を宣言しています。
 このように、 地球上に作戦配備されている核弾頭の数は、 現在も約2万発に達します。 それだけではなく、 作戦配備されている核弾頭のほかに、 予備として貯蔵されていたり、 廃棄を待って貯蔵されている核弾頭は1万5000発をこえると推定されています。 核兵器の爆発力が地球上の人口を何回も殺すことのできるという、 いわゆるオーバーキルの異常状態が続いているのです。

インド・パキスタンの核実験

 1998年5月11日と13日、 インドは5発の核実験を強行しました。 いずれもインド北西部のポクラン実験場の地下トンネルで行なわれたものです。 最大15〜20キロトン (広島規模) の爆発が、 地震波で確認されました。 続いてパキスタンが5月28日と30日、 6発の核実験を行ないました。 場所はチャガイ丘陵実験場の地下です。
 1974年にもインドは地下核実験を行ないましたが、 そのときにはダム建設などに核爆発力を利用するための 「平和的核爆発実験」 だという主張を通しました。 しかし、 今回ははっきりと 「国家安全保障のための核兵器実験」 であることを明らかにしています。今回の核実験は、 インドとパキスタンがNPT体制下で5つの国に限定されていた核保有国の一角をにくいこみ、 6番目、7番目の核保有国になったことを示すものであり、 重大な意味をもちます。

核兵器の解体

 核兵器の削減が進んでいる国、 とくにアメリカやロシアでは、 核兵器の解体にともなうさまざまな問題も明らかになってきています。 退役核兵器の管理や解体核兵器から取り出される核分裂物質の処理などの問題です。
 大陸間弾道弾 (ICBM) を例にとると、 核兵器の退役は、 通常次の四段階の過程を経て行なわれます。 第一段階では核兵器が電気的、 あるいは機械的な操作で現役からはずされます。 第二段階では運搬手段 (この場合ICBM) から核弾頭が取り外されます。 第三段階では運搬手段がサイロから除去されます。 そして最後にSTARTプロセスにしたがってサイロは爆破され埋めもどされます。
 この第二段階で取り除かれた核弾頭は、 アメリカの場合一般的には次のような過程で処理されます。 運搬手段から分離された核弾頭は、 テキサス州のパンテックス工場へ移送され、 パンテックスで核弾頭のプルトニウム・ピット部分 (一次爆発の部分) がはずされ保管されます。 核弾頭の二次爆発部分と高濃縮ウランはテネシー州のオークリッジY-12工場で、 トリチウム・ガス容器はサウスカロライナ州のサバンナ・リバー工場で貯蔵ないし処理されます。
 ロシアでも同様な過程を経て核弾頭の解体が行なわれていると考えられますが、 アメリカのものほど明らかにされていません。
 このような、 核兵器の退役・解体の過程は費用と時間を要するものであり、 アメリカにおいてもロシアにおいても、 一年間に1500〜2000個の核弾頭の処理能力しかないのが現状です。 アメリカは、 ナン―ルーガー法という法律によって、 ロシアの核兵器解体を経済的に支援しています。


3、 CTBTから核廃絶へ

核兵器廃絶へ向けた歴史的勢いとその停滞

 1996年には、国際司法裁判所による歴史的な 「勧告的意見」、 キャンベラ委員会による核兵器廃絶への道筋を示す報告書、 包括的核実験禁止条約 (CTBT) の成立、 ジュネーブ軍縮会議における非同盟28ヵ国による 「核兵器廃絶に向けての行動計画」 の提案、 将軍や提督たちによる核兵器のない世界を求める声明、 核兵器禁止条約の交渉開始を求める国連決議の採択、 そして東南アジア非核兵器地帯条約とアフリカ非核兵器地帯条約の成立など、核軍縮に向かう多くのできごとが続きました。
 それに比較して1997年は核軍縮への歩みが停滞しました。 とくに、 「備蓄兵器管理計画 (SSMP)」、 新しい 「大統領決定命令 (PDD)」 など、 核兵力の絶対的優位を保とうとする米核戦略の保守的な側面が次々と明らかになり、 核軍縮を困難なものにしているのが特徴的です。 しかし一方で、 1998年2月に 「核兵器に関する文民声明」 が出されたり、 南アフリカが核軍縮にかつてない積極的な姿勢をしめしたり、 国際司法裁判所の勧告的意見の影響の拡大など、 96年の進歩を継承する動きも続いています。

NPT再検討会議とジュネーブCD

 核軍縮のための多国間交渉の場として、 現在主に2つの会議が行なわれています。 以前からあるジュネーブ軍縮会議 (CD) とNPT再検討会議(とその準備委員会)です。 前者は7〜9週間の会議を1年に3会期開き、 後者は10日間の会議を1回開きます。
 1995年5月、 核不拡散条約 (NPT) の有効期間が無期限に延長されました。 核軍縮の観点から考えたとき、 NPTの最大の問題点は、 「核兵器国」 (米、 ロ、 英、 仏、 中) の軍縮義務について厳しい規定が定められていないことです。 緩やかな精神的規定 (第6条) しか存在していません。 したがって、 もし条約が無期限に延長されたならば 「核兵器国」 の特権的な地位が永遠に許容されてしてしまう危険性があります。 そこで条約の無期限延長の際に、 実質的な条件がつけられることになりました。 つまり、 「条約の再検討過程の強化」、 「核不拡散と軍縮のための原則と目的」 という2つの決定が行なわれたのです。
  「原則と目的」 文書は、 核兵器国に 「究極的な核兵器の除去を目的として、 系統的、 前進的に核兵器を削減する努力」 を求めています。 まだ不十分ですが、 NPT第6条にくらべると一歩前進した表現で核軍縮義務を求めたものといえます。 そのほか、 「原則と目的」 には、 すべての国のNPT加盟の追求 (不偏性)、 1996年内の包括的核実験禁止条約 (CTBT) の締結、 兵器用核分裂物質の生産禁止 (カットオフまたはフィッスバン) 条約の即時交渉開始と早期締結、 非核地帯条約の推進、 核兵器国による非核兵器国に対する核攻撃や攻撃の威嚇を禁止する法的拘束力のある方法の検討 (消極的安全保障)、 などの内容が含まれています。
 一方、 「再検討過程の強化」 は、 条約に定められた5年ごとの再検討会議 (次は2000年) に準備委員会を設置し、 3年前から毎年実働10日間の会議を開くことを定めたのです。 しかも、 準備委員会は単に手続き的な準備をするのではなく、 「原則と目的」 に沿う実質的な内容に関して再検討会議に提案する機能を持つ、 とされました。
 NPT準備委員会とCDを通して、 多くの国がカットオフ条約の交渉開始と早期締結を主張しました。 しかし、 カットオフを核不拡散の道具にしようとする核兵器国やその同盟国と、 核軍縮の一段階にしようとする途上国との攻防が続いていて具体的な進展がありませんでした。 具体的には現存する兵器用核分裂物質を条約のなかでどう扱うかが問題となります。

先制使用禁止と偶発核戦争の防止

 1998年2月2日、 カーター元米大統領、 ゴルバチョフ元ロシア大統領など46ヵ国117人の文民リーダーたちが 「核兵器に関する世界の文民指導者の声明」 を発表しました。 日本からは竹下、 宮沢、 細川、 羽田、 村山の5人の元首相ほか12人が参加しています。 声明は 「緊急にとるべき現実的措置」 として次の6項目を掲げました。 核兵器の警戒態勢の解除、 カットオフ、 CTBT発効までの核実験の停止、 START?交渉の即時開始、 米ロ核軍縮が進んだとき、 他の核保有国・疑惑国が核軍縮交渉に参加するという約束、 最終的な核兵器廃絶に向けた計画の作成。  ここで冒頭に掲げられている 「核兵器の警戒態勢の解除」 の要求は、 最近のNPT準備委員会やCDにおいてもしばしば登場する現実的課題です。 キャンベラ委員会の勧告 (96年8月) にももられていたものですが、95年1月に発生した偶発核戦争の危険性を示す事件(田窪論文参照)によって その緊急性があらためて認識されました。 その事件とは、 ノルウェーが発射した気象観測ロケットをロシアが米国の核兵器ミサイルと誤認をして核のボタンを押す寸前までいっていたというものです。 冷戦が終わって7年経ったときにも、 このような偶発核戦争の危機があったのです。
 キャンベラ委員会が緊急の課題とした 「核兵器の先制使用の禁止。 非核保有国への核兵器の使用禁止」 もまた、 核戦争の危険を防止し、 核拡散を防止することによって、 核軍縮を進める環境を改善する課題として重視されています。 1997年9月に来日したグレアム前米大統領特別代表は、秋葉忠利衆議院議員(当時・現広島市長)や田英夫参議院議員、村山富市元首相らと懇談し、米国がまず先制不使用の宣言をすべきであるとしたうえで、 米国政府部内には、 「もし米国が先制不使用の宣言をすると、 日本やドイツのように米国の核の傘に頼っている国に核武装の動きがでる」 という意見があり、 それが障害となっていることを指摘しました。 このように日本の 「核の傘政策」 は、 核保有国を正当化する役割を果たしています。

CTBTと未臨界核実験

 CTBTは、1996年9月10日、 第50国連総会の特別会議で成立し、9月24日の調印式によって各国の調印と批准が開始されました。 日本は国会で承認し、 関連法案を成立させた後、1997年7月8日に批准しました。 条約の発効に必要な国としては最初の批准国でした。
 CTBTの発効には、 原子力技術をもっている44ヵ国の批准が必要です。 そのなかにはCTBTに反対し調印を拒否しているインド、 パキスタンなどが含まれています。 インドは今回の核実験強行ののちに、 CTBT承認をにおわせていますが、 パキスタンや非同盟諸国との関係を考えるとCTBT発効への道のりはいっそう困難で複雑なものになったと言わざるをえません。
 CTBTのもう一つの問題点は、 「核爆発をともなわない核実験」 である未臨界 (臨界前) 核実験の問題です。 米国はすでに 「リバウンド」 (97年7月2日)、 「ホログ」 (同9月18日)、 「ステージコーチ」 (98年3月25日) と、相次いで未臨界核実験を行なっています。 ロシアも 同様の実験を行なっていることが明らかになっています。 未臨界 (臨界前) 核実験はCTBTの禁止条項には違反しないと考えられますが、 その精神を踏みにじるものです。
 さらに重要なことは、 米国の未臨界実験は、 大きな「備蓄兵器管理計画」 (SSMP)の一部であるということです。 この計画は現存する核兵器の信頼性と安全性を核爆発実験なしに維持することを目的とするとともに、 将来のために、 核技術先端分野の科学者の人材確保、 核実験場の確保をめざすものです。 98年になって、 SSMPの詳細を明らかにするいくつかの米国内部文書が明らかにされました。 これらによって、 米政府は核兵器廃絶どころか、 核兵器を長期にわたって保存する意図であることが明白になりました。 単に現状を維持するのみならず、 質的な向上と新兵器設計に役立つさまざまな研究が行なわれていることも暴露されました。 これを契機に、 米国内でもSSMP反対の世論が拡大しつつあります。
 これと関連して、 米国が冷戦後の核兵器使用指針を拡大したことが明らかになって批判がおきています。 97年11月、 クリントン大統領が新しい大統領決定命令 (PDD) に署名したことが明らかになりました。 これは、 トップ・シークレットの文書で全貌は明らかになっていません。 『ワシントン・ポスト』 紙を初めとする報道によると、 新PDDは 「長期にわたる核の撃ち合いに勝利する」 というレーガン政権に作られた冷戦時代の核戦争の教義を16年ぶりに変更しました。 この意味では量的な核軍縮の可能性を拡大した側面があります。 しかし同時に、 核兵器による抑止の役割を、 相手国の核兵器のみならず他の大量破壊兵器 (化学、 生物兵器) にも拡大したと考えられています。 これは新たな核兵器競争や核拡散につながる危険な動向です。 SSMPにおける核兵器の改良・開発が、 このような核兵器の新任務に関連しているという分析があります。

国際司法裁判所の勧告的意見

 96年7月8日に出された国際司法裁判所 (ICJ) の勧告的意見は、「 核兵器は国際人道法に原則として違反していること」、「すべての国が核軍縮のための交渉を締結させる法的な義務を負っていること」の2つの見解を明確に示しました。 例えば後者の部分は次のように記されています。>  「このような状況のもとで、 核不拡散条約第六条の 『誠実に核軍縮交渉を行なう義務』 という認識がきわめて重要であると、 本法廷は考える。 この義務の法的重要性は、 単なる行為の義務という重要性をこえたものである。 すなわちここで問題となる義務とは、 あらゆる分野における核軍縮という正確な結果を、 誠実な交渉の追求という特定の行為をとることによって達成する義務である。 交渉を追求しかつ公式に達成するというこの二重の義務は、 核不拡散条約に参加する一八二ヵ国、 いい換えれば国際社会の圧倒的多数にかかわるものである。 実際、 全面的かつ完全な軍縮、 とくに核軍縮の現実的な追求には、 すべての国家の協力が必要である。」

 ICJの勧告的意見は、 その後の国際社会に重要な影響を与え続けています。 マレーシア決議として知られる 「核兵器禁止条約 (NWC) についての交渉を求める」 国連総会決議は97年の総会においても圧倒的多数 (日本は棄権) で採択されました。 カナダのアクスワージー外務大臣はICJ勧告を重く受けとめ、 議会に核兵器政策の見直しを求めました。 イギリスの労働党政権もまた、 核兵器政策の見直しを行なっています。 北大西洋条約機構 (NATO) の核警戒体制の中止を提案することなどが、 検討されていると伝えられています。
 ICJの判断にしたがえば、 アメリカの核の傘に依存するという日本の安保政策もまた国際法違反となり、 日本も核兵器政策の見直しが迫られているはずです。
 イギリスでは、 抗議のために核兵器の製造工場に侵入した二人の非暴力行動を裁くための裁判において、 この種の裁判としては初めてICJの勧告的意見が証拠として採用され、無罪の評決を受けました。

北東アジア非核地帯

 核兵器廃絶への勢いを拡大するために、 被爆国日本は大きな役割を果たすことが期待されています。 東北アジア非核地帯化を実現することもその一つです。
 97年の3月末に、 東南アジア非核地帯条約 (バンコク条約) が発効しました。 アジアで初めてできた非核地帯です。 97年4月にアフリカ非核地帯条約 (ペリンダバ条約) が成立。すでに発効しているラテン・アメリカおよびカリブ非核地帯条約 (トラテロルコ条約)、 南太平洋非核地帯条約 (ラロトンガ条約) と南極条約を結ぶことによって、 地球の南半球がほぼ非核地帯となりました。 東北アジア非核地帯の実現は、 非核地帯を北半球に広げるのに大きな役割を果たすことになります。
 すでに南北朝鮮の間には 「朝鮮半島非核化共同宣言」 (1992年) が存在していますし、 日本には非核三原則があります。 したがって南北朝鮮と日本を国際的非核地帯としてつなぐ基礎が存在しています。 その上でアメリカ、 ロシア、 中国にこの非核地帯を尊重し、 核攻撃も核配備もしない約束をさせることについても、 これらの国の従来の政策から考えて不可能ではありません。
 日米安保条約にもとづく防衛協力の新ガイドラインによって、 平和憲法をいっそう空文化する日米軍事協力の強化が行なわれようとしていますが、 非核地帯設置の努力を強めることの方が、 はるかにこの地域の平和に貢献するにちがいありません。
 日本が 「非核法」 を制定することも、 世界に対する強いメッセージを送ることになります。 日本政府の非核三原則は実際には守られてこなかったと、 国際的に考えられています。 そのうえ、 大量のプルトニウムを備蓄する日本のエネルギー政策があり、 日本は核武装を計画しているのではないかと、 アジアのみならず欧米の人々からも疑惑を招いています。 日本がはっきりと核抑止論を否定し、 非核三原則を守り、 核拡散防止と核兵器廃絶のために国際社会のなかで独自外交を展開することを目指すような内容をもった 「非核法」 を制定することがあできれば、日本の非核政策が揺るぎないものであることを示すことが出来ます。


※本稿は、97年版および98年版の原水禁国民会議討議資料パンフの原稿をもとに、野崎哲(社会民主党政策審議会事務局/元原水禁国民会議事務局次長)が再構成してまとめたものです。原稿の原型は坂本国明氏(元原水禁国民会議事務局次長)、田窪雅文(現原水禁国際スタッフ)、梅林宏道氏(ピース・デポ)の文章で、それを参考に野崎があらためて整理したものです。