原爆被害と被ばく対策の現状


1、 原爆被害の特徴

他のあらゆる兵器と異なる

 原爆被爆後半世紀以上を経て、 被爆者の高齢化とともに被爆体験の風化が進んでいます。 これはある意味では仕方のないことではありますが、 いまだ2万発近くの核兵器が配備されている現実を考えれば、たった1発の原爆がどれほどの悲惨な地獄絵を描き出すのか、世界に訴え続けることが被爆国の責任ではないでしょうか。原爆被害の徹底した訴えにこだわり続けて核抑止論のまやかしをうち砕いていく…そのためにも被爆の実相と被爆者の現状を風化させるわけにはいきません。
 原子爆弾の被害の全体像はいまだ完全には分っておらず不可能です。しかし、確実にいえることは、原爆の被害には他のあらゆる兵器と異なる次のような特徴を持っているということです。

 第一点は、 戦闘員・非戦闘員の区別なく殺傷する、 無差別・大量の殺戮兵器であったこと。
 これは紛争解決の手段とする兵器として人類が使用してはならないことはもちろん、 本来作ってはならない絶滅兵器なのです。
 その後の調査では、 原爆投下当日の死者のうち65%は子ども・老人・女性であり、 その60%は破壊炎上した家屋の下敷で生殺されており、 遺骨のない者も42%となっています。

 第二点は、 過剰殺戮ということ。
 原子爆弾の爆心点の温度は摂氏数百万度ですが、 地上でも爆心地周辺は3〜4000度でした。 鉄の溶解温度が摂氏1536度ですから、 人間も炭化しました。 爆風圧によって内臓は破壊され眼球は飛び出ました。 1〜3カ月あるいは一年も意識不明ののち奇跡的に甦生した人もいます。

 第三点の最も特徴的なのは放射線による殺傷、 およびその後障害の問題。
 人間は放射線を七グレイ浴びれば全員死に、 4グレイ浴びれば半数死ぬといわれています。 広島原爆の場合、 4グレイは爆心地から1000メートル、 投下の2週間後まで残留放射能が残って後障害をもたらしたのは半径2000メートルでした。 この地域に投下後入った人は無傷なのに死亡する人が出ました。
 放射線の影響は永く様々な障害を起こしいまも続いています。 例えば眼の障害は三年後になって現れます。 白血病は五年後から一五年後に最も多く現れ、 15年後からは悪性腫瘍が増えて今日に至っています。 原爆投下時、 近距離にいた母親の胎内にいた子に障害を持った子どもがみられるのも、 放射線の影響です。 後障害の影響はいまも解明できない点が多く、 被害者の次の世代その次の世代への影響も懸念されます。 原爆被害は、 熱線・爆風・放射線の複合被害を受けているのです。
 今日世界に配備されている2万発といわれる核兵器にはヒロシマ・ナガサキに投下されたような小さいものはなく、 一発で広島型の数十倍の威力を持っています。 数千倍の威力のある核実験さえ行なわれています。
 それにつけてもいまなお原爆被害の全体像は解明されていません。 それは被害があまりにも大きく深刻なうえに、 日本政府がいまだかつて原爆死没者の正確な調査すら行なっていないからです。


2、 いまも解明されない原爆被害の実態

死んだ人の数も分からない

 広島、 長崎に投下された原子爆弾で何人の人が亡くなったのかは、 いまだにはっきりとしていません。 広島平和公園内の原爆供養塔の地下室には、 いまも七万柱の身元不明の遺骨があり、 氏名が分かりながら遺骨の引き取り手がなく全国の自治体を通じて遺族探しをしている人も、 広島八六一柱、 長崎一二七柱あります。 死者の数については広島・長崎の両市長が一九七六年に国連に提出した資料では、 四五年末までに広島一四万プラスマイナス一万人、 長崎七万プラスマイナス一万人となっておりますが、 のちに八五年に政府が生存被爆者を対象に行なった死没者調査ではその時期までに広島二〇万二〇〇〇人、 長崎九万四〇〇〇人の死亡となっています。 原爆投下の四五年以降の、 放射線障害によるいわゆる 「おくれた死」 による死没者を加えれば、 その数は大きく増えることは間違いありません。

いまも増え続ける被爆者

 生き抜いた被爆者も高齢化がすすみ年々亡くなっており、 一方で被爆五三年を経過しながら新たに 「被爆者」 となる人も跡を絶ちません。
 ここで 「被爆者」 というのは国が定めた条件に該当する人で、 本人の申請で 「被爆者健康手帳」 の交付を受けた人をさします。 直接被爆者、 入市被爆者、 救護・看護被爆者、 胎内被爆者の四つのケースをさし、 手帖所持者は九七年度末で三一万一七〇四人 (厚生省発表) となっています。
 いまなお被爆した人の約一割ほどと外国人被爆者の多くはなお手帳を取得していないと思われます。 手帳申請をしなかった理由としては、 親が子を被爆者として公認したがらず届けなかった (社会的差別への配慮) 自分が被爆者であることを知らなかった。 とくに入市の場合。 証人探しができなかった。 などの理由があり、 いまも、 年間に一〇〇〇人近い人が新たに被爆者手帳を取得し被爆者となっています。

放置される外国人・外国在住被爆者

 被爆者の中には戦時中に日本に強制連行されたり、 あるいは朝鮮・台湾人のように 「日本人」 にさせられて被爆させられた人たち、 戦後日本以外に移住した外国在住被爆者などもいます。 これらの人で日本に居住または現住する人は、 申請により手帳交付を受けることができますが、 日本を離れると無効になってしまいます。
 現在判明している外国人あるいは外国在住被爆者は、 「韓国原爆被害者協会」 所属が二三四八人、 朝鮮民主主義人民共和国の 「反戦平和のための朝鮮被爆者協会」 が把握している人が四七五人、 台湾を除く中国本土に一五人、 在外被爆者は北米に一〇〇〇人以上、 南米に約二〇〇人などとなっています。 こうした人を含めて、 手帳交付を受けていない外国人・外国在住被爆者は、 推定で二万人から三万人といわれています。
 これらの被爆者調査や渡日治療は、 民間ボランティアグループのねばり強く困難な活動によって少しずつ行なわれてきました。 例えば、 韓国からの渡日治療を手がけている広島のグループはすでに四〇二人を渡日治療させていますが、 本来は国の責任でこれら外国人被爆者の調査・支援をすべきものです。 そのことが被爆者援護法に国籍条項がない (日本人も外国人も区別なく対象とする) ことの趣旨であるといえましょう。 援護法に定められているのは被爆者の要件のみで、 居住・現住地の知事を通じて申請・交付する手続きを述べているにすぎません。 日本国内に在住することは 「被爆者」 の要件や各種給付の受給給要件とはいえません。 現に身体障害者手帳や運転免許証は外国へ出国移住しても手帳はそのままであり、 各種年金・恩給も外国にいても受給できます。
 在外被爆者に対する援護法全面適用の要求も、 一段と強まっています。
 当面、 国の責任で外国人・在外被爆者の調査と支援施策を示させ、 日本国外にあっても被爆者健康手帳の取得と有効性を求める運動が必要です。


3、 原爆被爆者援護法の成立と矛盾

運動の成果としての援護法

 1994年12月9日、 「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」 が成立し、 95年7月1日より施行されました。 74年に日本社会党 (当時) によって初めて国会に提出され、 参議院で2回可決されながら、 衆議院では16回も審議未了・廃案 (継続) を繰り返し、 実現を阻まれていました。 要求から20年の歳月を経て村山内閣のときに 「援護法」 という名の法律が成立したことは、 長い運動を通して国民的要求となった成果です。
 この 「援護法」 は、 前文で核兵器の廃絶と恒久平和実現の決意を示し 「国の責任において、 (被害者に対する) 総合的な援護策を講じ、 あわせて、 国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記する」 と述べ、 手当を支給する際の所得制限の廃止 (対象者は1%弱) と、 原爆死没者の遺族のうち被爆者手帳をもっている人に限定して、 生存被爆者の苦労に報いる 「特別葬祭給付金 (1人10万円の国債)」 が請求期限3年間の時限立法措置として決められました。 そして私たちの請求期限延長の要求にもかかわらず97年6月末で打ち切られ、 多くの未請求書を残しました。 この制度は原爆で孤児になっても被爆者でないと支給されないなど、 遺族間の新たな差別を生みだしました。

国家補償ぬきの 「援護法」 の矛盾

 援護法が成立しながらきわめて残念なことは、 自民党の強い反対によって、 要求の骨格である 「国家補償」 が明記されなかったことです。 原爆の最大の犠牲者である死者への弔いと償いは拒否され、 被爆者に対する諸制度は旧原爆二法と変わらないものとなるなど、 援護法の名に値しない内容となってしまいました。
 原爆被爆者援護法は、 国家補償を否定しながら、 旧原爆二法の根底にある 「国家補償的配慮」 という最高裁判決 (孫原爆訴訟、 78年) までは否定することができなかったため、 矛盾に満ちた内容になっており、 旧原爆二法の欠陥をそのまま引き継いでいます。
 死没者への弔意と補償を否定しながら、 生存被爆者対策として手帳保持者に限定した特別葬祭給付金制度をつくったり、 個別弔意・個別補償の弔意金に代わり 「原爆死没者追悼平和祈念館」 の建設を広島と長崎にもちかけて、 現地の被爆者から強い反発を受けたりと、 その限界は明白です。
 原爆は無差別大量殺戮行為で、 しかも幾世代にも後障害をもたらす明らかに国際法に違反する残虐な兵器です。 このような原爆被害に対し、 被爆者や遺族は早くから放射線障害の根本治療と国家による償いを求め 「国家補償の精神に基づく被爆者援護法」 を要求してきました。 この要求はまた、 二度と再びヒバクシャをつくらない核兵器廃絶の要求でもあり、 多くの支援をえた国民的要求ともなっていました。
 当初、 核兵器の独占を狙っていたアメリカは、 原爆投下の影響を極秘として被爆の実相を隠し、 日本政府も被爆者を長く放置していました。 それでも長く厳しい運動の結果、 五七年になってようやく 「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」、 また六八年に 「原子爆弾被害者に対する特別措置に関する法律」 が制定されますが、 十分なものではありませんでした。 とくに国家補償法でなかったこと、 最大の犠牲者である原爆死没者への弔意と償いがないことは決定的でした。
 旧原爆二法は被爆者対策の対象を 「いまなお置かれている健康上の特別の状態」 (原爆医療法一条)、 「原子爆弾の傷害作用の影響を受け、 いまなお特別の状態にある」 (原爆特別措置法一条) と規定し、 その行政解釈を放射能による健康上の傷害に限定して、 放射能以外の原爆の傷害作用による健康上の傷害や、 原爆によって破壊された生活上の障害などは無視してきたのです。
 また、 二、 三世対策は法文化されてすらおらず (二世の健康診断は行なうが、 一年毎の単年度実施で、 名目は調査研究となっている)、 厳しい認定制度も存在しています。 各種手当は三〜五年毎に更新手続きが必要ですが、 これが老齢被爆者の大きな負担となっています。
 国家補償でなく社会福祉として運用されたために、 本来国家が証明し、 国の責任で実施すべきことであるのに、 すべて被害者側が申請し証明することを求められます。 例えば新たに被爆者健康手帳を取得する、 つまり公的に被爆者として認められるためには、 被爆者であることの厳しい証明や、 そのための証人などが本人に要求されるのです。 国の命令によって作業に従事し被爆した人も、 その事実を被害者側が立証しなくてはならないという不合理さによって、 いまだに新たな手帳の申請者が絶えません。
 原爆投下にいたる国の戦争責任と、 国家による償いを認めなかったこの 「援護法」 は、 新たに遺族間 (特別葬祭給付金の対象者になる遺族とならない遺族との) の差別も生んでいます。 私たちは、 援護法が施行されてからの現実を総括し、 引き続き 「援護法」 を国家補償法へ改正することを求める運動を継続強化していかなくてはなりません。 具体的には、 国家報償の明記、 死没者への弔意と遺族全員への差別のない償い (弔意金・遺族年金)、 現行諸手当の年金化などが必要です。


4、 「援護法」 を国家補償法に

貫かれた軍の論理、 否定された民の倫理

 原爆被爆者援護法の結果は、 その他の戦後補償の要求 (一般戦災者、 外国人被爆者、 従軍慰安婦、 強制連行者など) と同様の厚い壁の存在を思い知らせます。 国が起こした行為による民衆被害の求償を拒否するという、 一貫した国家観・歴史観です。
 国は、 原爆被害者や一般戦災被害者には、 「国をあげての戦争による 『一般の犠牲』 としてすべての国民が等しく受認しなければならない (原爆被害者対策基本問題懇談会の答申・1980年)」 といいながら、 職業軍人、 軍属、 徴用工や学徒動員者などの準軍属に対しては、 国家補償を明記した法律をつくり、 手厚い支援施策を続けています。
 軍人、 軍属・準軍属への国家補償は、 現在でも年間約2兆円が戦争犠牲者援護費として計上されており、 とくに重要なことはこれらがすべて個人補償であるということです。 旧軍人軍属等に対する戦後補償は15の法律によって累計40兆円に達し、 これからも継続していきます。
  「原爆被爆者援護法」 で死者への弔意が否定された年にも、 右の各項に該当しない欠格者に対して一律40万円の弔意金が支給されています。 ちなみに原爆被害者対策費は1628億円 (98年度予算)、 一般戦災者対策はゼロ額です。

原爆被害者と一般戦災者

 国家補償に反対した人たちの最大の論拠は 「アジアなどへの戦後補償につながる」、 「一般戦災者との間に均衡を欠く」 の二点でした。
 では 「一般戦災者」 とは一体誰を指すのでしょうか。 「援護法」 の国会論議のなかでも全く議論されませんでした。 何人いるのかすら明らかではありません。 自民党などがいう 「一般戦災者」 は、 表のA以外のすべての人たちをさしていると考えられますが、 その中にはすでに国家補償されている人が数多く存在します。 国家補償を受けている軍人・軍属・準軍属と、 国家補償を受けることのできない戦災者の間で、 すでに均衡を欠いているのです。
 国家補償から切り捨てられている人は、 表のD、 いわゆる 「非戦闘員」 の子ども・老人・家庭にいた女性などです。 本来、 こうしたいわば弱者こそ、 最大の戦争被害者として最初に国家補償をすべきではないでしょうか。 国の戦争責任を認めず、 国家への忠誠度 (身分関係) によって補償し、 国家が最初に守り、 真っ先に償うべきだった人たちには 「戦争被害は等しく受忍すべき」 というのです。
 したがって、 被爆者援護法の要求は、 こうした一般戦災者への国家補償を求める運動と一体となってすすめられてきました。 74年の最初の被爆者援護法案の国会提出と前後して、 73年からは、 一般戦災者を対象にした戦時災害援護法案が、 社会党 (当時) によって国会に提出されています。
 まず実態が明確となっている原爆被害者を補償し、 それを足がかりとして一般戦災者の調査を行なって、 その国家補償へと広げさせるべきでしょう。 国家補償を拒否する壁を破っていくためには、 一般戦災者と原爆被害者との連携を強めることが必要であり、 すでに被爆者団体もその努力をはじめています。


5、 急がれる被爆者対策

高齢化する被爆者

 被爆者の高齢化は一層すすみ、 もう時間がありません。 援護施策の改善を急がなくてはなりません。 全被爆者の77%が受給している健康管理手当などは更新手続きを簡素化 (本年七月から更新時の医師の診断書のみ簡素化) するか年金化して老齢被爆者の負担をなくすべきです。 介護・看護も深刻な問題となっています。 現行の介護手当制度の活用が望まれるとともに、 2000年に始まった介護保険制度との関連も重要な問題となります。 一般の老人医療制度の改悪がすすむなかで、 国家の償いとして行なわせている原爆被爆者対策の位置づけを明確にしておかない限り、 非被爆者との対立を生みかねません。
 被爆者行政の中で、 最も不透明・不明確で被爆者が最も不信を抱いているのが 「医療認定制度」 です。 援護法第一〇条は、 「厚生大臣、 原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し、 又は疾病に対し、 必要な医療の給付を行う」 と決めながら、 この認定被爆者は被爆者総数の1%に過ぎず、 認定基準も審議内容も一切公開されていません。

認定制度の廃止を

 97年11月7日、 福岡高等裁判所は、 松谷訴訟 (2歳の時、 長崎・爆心地より2・45キロメートルで被爆、 爆風による頭部のけがで、 右半身麻痺となった松谷英子さんが認定申請を行なった) について、93年の長崎地裁の勝訴に続いて勝訴判決を下しましたが、 国は最高裁に上告しました。
 この判決では、 最大の争点であった障害と放射線との因果関係を 「相当程度のがい然性の証明で足りる」 と立証責任を揺るやかにとらえ、 判断基準を 「被爆時の諸状況かその後の健康状態などを総合的に判断する必要がある」 とし、 認定申請を却下した原爆被害者医療審議会の判断には、 「見過ごせない誤りと欠落があり、 却下処分は違法」 と判決を下しました。
 医学の進歩により原爆傷害の解明がすすみ、 社会的にも医療の公開性・透明性や患者本人への医療内容の告知がすすみ、 また国の各種審議会の議事録がほとんど公開されているなかで、 この認定審査は 「可能性は否定できる」 とか 「認められない」 との一片の通知で済まされており、 被爆者を傷つけています。 認定基準や審議内容の公開、 ひいては認定制度の廃止を要求する必要があります。


6、 被爆二世の時代

二、 三世の組織化が急務

 被爆者の高齢化とともに、 被爆二、 三世の問題が重要になっています。 一世には共通の被爆体験がありますが、 二世は親を通しての間接的体験でしかなく、 二世の顕在化と一世からの継承はメンタルで困難な点があります。
 原子爆弾の二、 三世への影響については 「あるとはいえない、 ないともいえない。 今後も研究する」 というのが公式見解となっていますが、 健康不安を訴える二、 三世は多く、 不安は消えません。 「ある」 ことを前提に対策を立てなくてはならないのではないでしょうか。
 最近、 放射線影響研究所が一般公開用のパンフレットの中に、 残留放射線について 「生命がおびやかされるほどのものではなかったと考えられています」、 「市内はとても非衛生的な環境で、 その後体調を崩した人が少なくない」 などと記述して配布するということがありました。 これを放射線の影響を過小評価するもので、 原爆の複合的影響を無視するものとして、 被爆二世が中心になって強い抗議を行ない、 全面改訂させました。
 被爆二、 三世問題は 「援護法」 に明文化することは出来ませんでしたが、 付帯決議の項目には残りました。 被爆二世団体とも連携して現行施策の改善と法文化を要求し、 次世代へ向けた被爆者運動の強化のためにも二、 三世の組織化を急ぐ必要があります。
 また、 世界には多くのヒバクシャが、 今日一日を必死に生きていることも忘れてはなりません。 国際的なヒバクシャ援護制度が急がれます。 核の時代の二〇世紀が終わるまでに、 核の軍事・商業利用で生み出されたヒバクシャの存在を国際的に認知させるため、 国連で 「世界ヒバクシャ人権宣言」 を採択させることも重要ではないでしょうか。


7、 世界に広がる核被害

核開発の歴史はヒバクの歴史

 核兵器を製造し、 原子力発電を動かすということは、 大量の核物質を扱うということです。 そこには必ず放射能汚染がりあり、 ヒバクが存在します。 ウラン採掘から、 核兵器の研究・製造、 核実験の過程で、 そして原子力発電では、 発電と使用済み燃料の再処理の過程で、 大量の放射能汚染がありヒバクが存在します。 この放射能汚染・ヒバクはさまざまな形で世界中に広がっています。
 環境に漏れ出た放射性物質は、 食物連鎖という形をとっても広がっていきます。 たとえば池や川に漏れ出た放射性物質は藻などに取り込まれ、 次いでプランクトンに取り込まれ、 小魚からより大きな魚に、 あるいは水鳥へ取り込まれていきます。 その過程で放射能は何万倍にも濃縮され、 生物を傷つけます。 汚染された水が人間の体内に入りこんだり、 汚染された魚や水鳥を人間が食べることもあります。
 放射能汚染の連鎖は人間が最終ではありません。 人間に取り込まれた放射性物質は、 また体外に排出され、 再び連鎖の輪に加わります。 厄介なことに放射性物質 (放射性同位元素) は、 鉛などの安定した物質に変わるまで長期 (※) にわたって放射線を出し続けるのです。
 こうしてこれまでの核実験や、 原子力発電によって、 大量の放射性物質が作られてきたのです。 そしてそれらの一部は環境にばらまかれ、 あるいは直接、 人間や生物にふりそそぎ、 体内に入りこんでいるのです。
 いまや地球上のすべての生物がヒバクしているといっても過言ではないでしょう。 しかしそれでも、 ここに紹介する人々は核開発のなかで、 特別にたくさんの放射能をあびた人々であり、 それだけに影響も強く受けてきました。 私たちはこのような悲劇を繰り返してはならないし、 一日も早く止めなければなりません。

※ すべての放射性物質 (放射性同位元素) は鉛などの安定的な物質になるために放射線を出しながら崩壊し続ける。 この放射能の力が半分になる期間を半減期という。 半減期は物質によって異なる。 セシウム137は半減期30年である。 ストロンチウムは28年。 プルトニウム239は2万4000年、 ウラン238は45億年である。 普通、 半減期10倍の期間がすぎれば放射能は約1000分の1になり、 ほぼ無害になるといわれている。

ウラン採掘によるヒバク

 ウラン採掘による被害が、 致命的な肺の疾患として現われることは、 ヨーロッパでは早くから知られていました。 ドイツのシュネーベルクのウラン鉱山では1875から1913年の間の鉱夫の死亡者665人の内、 肺ガンの死者は41%の276人と報告されています。 さらに1932年にはチェコスロバキアのウラン鉱山での死者に対する調査によって、 肺ガンが放射能によるものであること、 それも長期の潜在期間があることが明らかにされていました。
 米ソによる核軍拡競争、 さらには原子力発電の開発によって、 ウラン採掘はブームのように世界に広がっていきますが、 このヨーロッパの被害はまったく考慮されませんでした。
 アメリカで 「フォーコーナー」 と呼ばれるニューメキシコ、 アリゾナ、 コロラド、 ユタの四つの州の交わる周辺は、 アメリカインディアンの居留地が多いことと、 ウランが大量に埋蔵されている地域として知られています。
 アメリカのカー・マギー社など多くの石油会社は、 ナバホ族やホピ族などの土地でウラン採掘を始め、 ここで働く多くのアメリカ・インディアン労働者が肺ガンに罹かかりました。 会社は労働者にウラン採掘による危険性をほとんど説明しなかったのです。 労働者は出来高払いのため、 発破をかけて粉塵の立ちこめるなかでウラン採掘に従事しました。
 ウランの半減期は45億年ですが、 これは非常にわずかのウランだけが恒常的に崩壊し続けていることを意味します。 ウランは崩壊してラジウムに変わりますが、 その過程で大量のラドンガスを発生させます。 こうして多くの労働者 (ほとんどがアメリカ・インディアン) が肺ガンに罹って亡くなりました。
 掘り出したウラン鉱石は近くに建てられた精錬工場に運ばれ、 細かく砕いて粉末状にした後、 濃硫酸に溶かされ、 濾過されます。 こうして商品の酸化ウランとなるのですが、 酸化ウランは鉱石1トンにつき僅か2・3キログラムしかできませんから、 残りは全て鉱滓となります。 この大量の放射能を含んだ鉱滓の山が、 アメリカ先住民の居住地近くに放置されているのです。
 この放置された放射性廃棄物は地下水に入りこみ、 風に吹き飛ばされています。 ウラン鉱山の周辺の町では、 いまもさまざまな障害を持った子どもたちが生まれていると報告されています。 先住民がその土地に住み続けるかぎり、 被害は続くでしょう。
 このような悲劇は、 ウランの最大の輸出国・ナミビアでも起こっています。 この他、 中国、 ソ連、 インド、 パキスタンなど核開発を進めている国や、 オーストラリア、 ニジェールなどウランを採掘し、 輸出している国の状況はほとんど同じといえます。 しかしその多くはまだまだ秘密のヴェールに包まれているのが実状です。

核兵器開発・研究過程でのヒバク

 オークリッジ、 ロスアラモス、 ハンフォードは、 アメリカの原爆開発三大拠点です。 オークリッジには広島に投下された原爆・リトルボーイが製造されたY工場があり、 ハンフォードには長崎に投下された原爆・ファットマンに使われたプルトニウム製造原子炉があります。
 人里離れた場所であることを条件に、 これらの研究所は設置されました。 しかし原子炉の運転には冷却水が必要です。 オークリッジではホワイトオーク川が、 ハンフォードではコロンビア川が使われました。 これらの川では、 冷却と同時に低いレベルの放射能廃棄物も捨てられました。
 すでに1960年代の調査で、 コロンビア川のプランクトンの放射能レベルは、 川の水の放射能の2000倍に達していました。 トビゲラの幼虫の放射能は、 水の放射能の35万倍に濃縮されています。 水棲昆虫を餌とする鳥、 カモの卵の卵黄は水の放射能の4万倍でした。 またこれら放射能を含んだ水は、 下流域の飲料水として人々に飲まれ続けています。
 放射能は汚染水だけではなく、 気体としても大量に放出されています。 このため風下住民の間で甲状腺ガンやその他のガンが多発しています。 プルトニウムを材料として水爆の引き金を1日に3個作っていたコロラド州・ロッキーフラッツ工場の風下では、 脳腫瘍が異常に高い率で発症していることが報告されています。
 これらの被害は、 近くに核施設があるための被害です。 核施設の中で働く労働者の被害も厳重な秘密管理の中ですが、 断片的に明らかになってきています。

ウラルの核惨事

 ソ連のウラル山脈の東、 カスリ市キシュチムの核兵器工場には、 兵器用プルトニウムの生産過程でできる核廃棄物が大量に貯蔵されていました。 57年9月29日の夕、 この貯蔵タンクの一つが爆発し、 タンク内にあった約2000万キュリーの核廃棄物のうち、200万キュリーが大気中に噴き出しました。 放射性物質は1キロ上空まで噴き上げられ、 南西の風に乗って流れ、 半日近く降り続いたといわれています。
 この事故は、 発生から19年たった76年に、 ソ連の反体制派の生物学者ジョレス・A・メドベージェフ博士によってイギリスの科学雑誌に発表され、 明らかになりましたが、 実はアメリカCIAは、 事故直後にこの惨事を知っていたのです。
 しかし57年10月にはイギリスではウインズケール (現セラフィールド) 核工場で火災事故が発生し、 広範囲にわたって牧草地が汚染され、 そのためにこの地域の牛乳は1ヵ月にわたって出荷停止になるという大事故が発生しており、 一方アメリカでは、 原子炉事故の場合、 保険会社はどこまで保障するか、 政府は五億ドル以上は責任を持たなくてよいという 「プライス・アンダーソン法」 の審議中だったのです。 つまりアメリカは自国の原子力政策の必要からソ連の事故を隠したのです。
 この事故が 「ウラルの核惨事」 として世界に知られるようになった後も、 ソ連政府は人体になんら影響はなかったと強調しました。 しかし一部の地域は現在も 「禁猟区」 として住民の立ち入りが禁止され、 キシュチムの町を流れるチチャ川の水は飲むことが禁じられているのです。

核実験のヒバク

 水爆の小型化を進めていたアメリカは、 1954年の3月から5月にかけて太平洋のマーシャル群島のビキニ・エニウエトク環礁で、 6回にわたる水爆実験を行ないました。 最初の実験は 「ブラボー実験」 と呼ばれ、 3月1日にビキニ環礁で行なわれましたが、 広島原爆の1000倍の爆発力をもったこの水爆によって、 マーシャル諸島の住民243人が被爆しました。 ロンゲラップ島では死の灰 (爆発によって環礁の珊瑚が白い粉塵となって噴き上がったため、 以後放射性降下物を死の灰と呼ぶようになった) が、 雪のように3センチも積もりました。
 ロンゲラップ、 ウトリック、 ビキニ、 エニウエトクの住民は、 島外に避難した後、 アメリカ政府の 「放射能はなくなったからもう安全」 との説明を受けて、 次々に島に帰りました。 しかし実際はほとんど放射能は減少しておらず、 再び島民は島を離れることになります。 こうして実験による被爆と残留放射能、 さらには汚染された食物の摂取などによって、 住民の多くが甲状腺ガンなどさまざまな放射線障害に罹って亡くなっていきました。
 この実験のとき、 日本の漁船・第五福龍丸をはじめ日本の多くのマグロ漁船が被爆し、 これを機に日本の原水禁運動が広がっていったことは私たちの知るところです。
 しかしマーシャル諸島での核実験は、 50年から始まっているのです。 太平洋ではイギリスが56年からクリスマス島で核実験を行なっていますし、 フランスは仏領ポリネシアで66年から核実験を行なってきました。
 ただ、 仏領ポリネシアでの核実験は、 地下核実験であり、 つまり周辺の島民に直接死の灰が降りそそいだのではないため、 仏政府はいっさい被害は出ていないと主張しています。 地下核実験場に亀裂が出来て、 放射能が漏れ出ていることは明らかになっていますが、 どのような影響が出ているのかは、 住民に対する調査が行なわれていないため、 実態は明らかになっていません。
 旧ソ連では最も核実験の回数の多いのは、 カザフ共和国のセミパラチンスク実験場です。 そしてこの実験場周辺の被害もまた深刻なものです。 実験の当初は大気圏内実験でしたが、 ソ連政府は周辺住民に放射性降下物の恐ろしさを全く教えませんでした。 初期の頃はそれでも周辺住民は避難させられましたが、 実験が終われば住民はまたそこに帰ってきて生活していたのです。 また全く避難からはずされた住民もいました。 ソ連政府は住民をモルモット代わりにしたと思われます。
 中国が核実験を行なっていたロプノールの核実験場は、 1963年に作られました。 実験場周辺の状況は長年秘密のヴェールに包まれていましたが、 93年にベルリンで開催された第2回核被害者世界大会に参加したカザフ在住のウイグル人、 アザト・アキムベック氏によって、 実験場周辺の被害状況の一部が明らかになりました。 それによるとウイグル、 カザフ、 キルギス、 東トルキスタンと国境を越えて被害が広がっており、 住民の間では肝臓ガンや肺ガンが多発しているということです。
 このほかイギリスはオーストラリアでも核実験をしていましたし、 フランスはポリネシアで実験をするまでは、 サハラ砂漠で核実験を行なっていました。 これらの地域での被害も深刻ですが、 あまり問題にされていません。
 アメリカ国内でも、 ネバダで核実験が行なわれ、 風下住民に多く被害が出ていることは、 広く知られています。

深刻な原子炉事故のヒバク

 原子炉の事故としては先にのべたイギリスのウインズケール (現セラフィールド、 57年) 原子炉事故、 79年3月28日のアメリカ・ペンシルバニア州スリーマイル島の原発事故、 そして86年4月26日に起ったウクライナとベラルーシ国境近くにあるチェルノブイリ原発事故がよく知られています。
 スリーマイル島原発事故に関しては、 TMI公衆基金 (周辺住民がTMI電力会社を訴えた裁判の和解で設置) の要請で行なわれた、 周辺住民に対する81年〜85年の疫学調査で、 被曝によるガン発生の増加は認められないとの報告 (ハッチら、 90年、91年) がありました。 しかし、 同じデータをもとに再検討した結果、 肺ガンや白血病などが増加していることが明らかになったという報告が97年に発表 (ウイング、 原子力資料情報室通信275・今中哲二) されています。
 原発事故被害で最も深刻なのはチェルノブイリ原発事故で、 放出された放射能も桁違いに大量でした。 事故後3年たってソ連政府は長期にわたって影響の大きいセシウム137の汚染地図を発表しましたが、95年になって1平方キロ当たり15キュリー以上の汚染地域の住民の移住を決定しました。 この面積は、 1万平方キロにも及び、 日本で考えると福井県、 京都府、 大阪府をあわせた面積に相当し、 ここに住む住民は約27万人で、 事故直後に強制的に移住させられた13・5万人とあわせて約40万人が移住させられたことになります。 さらに1平方キロ当り1キュリーから15キュリーまでの汚染地域には、 約600万人近い人たちが生活しているのです。
 移住させられた人たちの生活環境は、 急であったためもあり、 きわめて不十分なものでした。 ウクライナでは新しい住宅は、 「質が悪く、 寒く湿っており、 またチェルノブイリでは森に囲まれていたのに、 移住先は森のない草原地帯だった」 (ボロディーミル・ティーヒー、 技術と人間98年4月号) ため、 多くの人々が放射能汚染の強い村に舞い戻りました。

リクビダートルの被害

 チェルノブイリ原発事故の対策のため、 現場で働いた人たちは 「リクビダートル」 と呼ばれています。 ロシア語で後始末をする人という意味です。
 チェルノブイリ原発事故で最初に被害を受けたのはチェルノブイリ原発の運転員と消防隊員で、 この人たちの多くが死に、 あるいは病気にかかりました。 さらに大災害を拡大しないために、 ドネツク地方の炭坑労働者がトンネルを掘り、 また火を消し、 放射能を閉じこめるために5000トンにおよぶ鉛や砂がヘリコプターから投下されました。 当然パイロットたちも被曝しました。
 原子炉をコンクリートで閉じこめるために (それは石棺と呼ばれる)、5月から12月にかけて40万立方メートルを超えるコンクリート、7000トンの鉄鋼が用いられ、 建設労働者、 技術者、 運転手が派遣され、 強い放射線に曝されました。 この他、 放射能で汚染された建物、 道路などの除染作業、 放射能で枯れてしまった数百ヘクタールの 「赤い森」 を切り倒す作業などにも多くの労働者が従事しました。
 これらリクビダートルはソ連軍の軍人や、 当時15の共和国全体から集められた労働者、 志願者からなり、 推定で60万人とも80万人以上ともいわれています。
 チェルノブイリ原発によって放出された放射能によって、 大きな影響を受けたのは子どもたちです。 いま子どもたちには甲状腺ガンが多発しており、 また他のさまざまなガンの発病も見られます。
 さらに深刻な問題となっているのが、 リクビダートルに対する影響です。 これら事故処理にあたった人たちの間で、 事故後十数年たった現在、 甲状腺ガンや白血病、 さらに直腸、 肺、 泌尿器などのガンが増加しています。
 ロシアのリャザン州リハビリテーションセンターの調査 (リャザン州に居住し、 事故処理後リャザン州に戻ってきた男性リクビダートル対象) では、 86年4月〜6月の作業従事者の93・8%がガンを含めた疾病障害に罹かかっており、 また死亡率も多いと報告されています。
 96年4月にIAEA (国際原子力委員会) などが主催した 「チェルノブイリ一〇年総括会議」 は、 「リクビダートルには白血病を含め被曝の影響は認められない」 と結論づけていますが、 現実は全く異なるのです。

原子力発電施設周辺でのヒバク

 原発が事故もなく運転されているときでも、 少しずつ放射能は環境に漏れ出ています。 とくに再処理工場では原発が1年間に放出する放射能を、 たった1日で環境に放出するといわれています。 周辺住民のヒバクの危険ははるかに大きいといえます。
 フランスのラ・アーグ周辺では小児ガンが多発しているという報告もあります。 日本ではどうなのか、 周辺住民への疫学調査が行なわれていませんから、 実態は明らかでありません。 またこの問題は地域差別を生み出す恐れがあり、 慎重に取り扱わなければなりません。 それでもエネルギーのためだ、 国策のためだとして、 危険な実態を隠すようなことは許されません。 私たちは未来の世代に対して、 大量の放射性物質を残すようなことをしてよいのでしょうか?

十分に分かっていない放射能ヒバクの危険

 ヒバクの危険性は、 集団全体としてどれくらいヒバクすれば、 何人のガン患者が発生するかという集団被曝線量とリスクの関係で考えます。 それは広島・長崎の被爆者に対する調査によって徐々に分かってきたものです。 これまでは被曝線量の多さに比例してガンや白血病の発病が多くなると考えられていました。
 しかしチェルノブイリのヒバクシャの調査によって、 低線量ヒバクのほうが白血病の発病率が高いという研究も発表されたりしています。 ヒバクの危険性は実はほとんど分かっていないのです。
 私たちの運動は、 まず放射能で汚染された地域を明らかにし、 その地域の人びとに、 放射能被害の恐ろしさについて知らせること。 その原因をつくった相手に対してきちんと補償することを要求すること。 ヒバクはどれほど少なくても、 一定の割合で被害が出ることを多くの人たちに知らせなければなりません。

韓国人被爆者との連帯

 現在韓国には約2万人近い被爆者がいると考えられています。 ほとんどの人が植民地下の朝鮮から強制的に、 あるいは半強制的に日本に連れてこられた人たちです。
 三菱重工は、 広島と長崎で兵器生産を行なっていて、 そこには朝鮮人徴用者が多数働かされていました。 これらの人々は賃金の半分は郷里に送金するといわれ、 残りもほとんども強制的に貯金させられていたのです。
 原爆が投下され、 混乱のなかで強制貯金された金なども支払われないまま、 帰国する費用も働きながら自分で都合をつけ、 ようやく故郷に帰ってみたら、 送金されていたはずの賃金の半分は、 まったく送金されていなかったのです。
 被爆者たちは 「韓国原爆被害者協会」 を設立して、 日本政府に補償の要求をする一方、 「韓国原爆被害者三菱徴用者同志会」 を結成し、 三菱重工に未払い賃金の支払いと補償を求めてきました。
 日本政府は在韓被爆者に総額40億円 (約248億ウォン) の支払いを決め、91年と93年に実行しました。 しかし94年9月の大韓赤十字の発表によると、 韓国政府、赤十字社からの補助、銀行の利子などをを含めて291億ウォンの収入に対し、 被爆者の診療費、 健康診断費、 診療補助費、 葬祭料、 経常費などの支出が約70億ウォン、 さらに建設中の「陜川原爆被害者福祉会館」の建設に30億ウォンとなっています。 このため韓国被爆者協会はあと数年後にはなくなるといっています。
 一方、 三菱重工は 「未払い賃金は1948年に供託済み」、 「徴用は国のやったことで企業には責任がない」 と要求を拒否しています。 しかし供託を受けたとされる長崎法務局や、 広島法務局ではなかなか資料の閲覧に応じなかったり、 閲覧に応じても資料がなかったりという状況です。 政府も衆議院法務委員会で 「日韓条約・請求権協定で請求権は消滅」 と答弁し、 被爆者の要求を拒否しています。 このため長崎と広島でそれぞれ韓国人被爆者が裁判を起こしています。
 97年12月3日、 三菱重工長崎造船所で働かされて被爆した韓国人被爆者・金順吉さんが、 三菱重工と国に未払い賃金の支払いと、 約1000万円の損害賠償を求めていた裁判で、 長崎地裁はいずれも請求を棄却しました。 そして無念の思いを抱きながら、 金さんは98年2月、 釜山で亡くなりました。 金さん支援のカンパが被爆52周年原水禁世界大会・長崎大会で行なわれましたから、 覚えている人もいるでしょう。 金さんは亡くなりましたが、 息子さんがその意志を継いで控訴しました。 私たちも支援を続ける必要があります。


本稿は、97年版および98年版の原水禁国民会議討議資料パンフの原稿をもとに、野崎(社会民主党政策審議会事務局/元原水禁国民会議事務局次長)が再構成してまとめたものです。原稿の原型は宮崎安男氏(原水禁国民会議副議長)と和田長久氏(原水禁国民会議国際部会長)の文章で、それを参考に野崎があらためて整理したものです。