■ Vol.12 | 2009年8月14日号 ■
「カフェクリムト」  その1
 今から、数年前の夏の終わりだったか、松本へ行った。松本城の近く、時計博物館という建物の一角に、そのカフェがあって、知人と待ち合わせに入った。

 中は、白い壁面で、オーストリア19世紀末の画家、グスタフ・クリムトの風景画を写真にして何枚も額に入れて飾られていた。中央に大きな黒っぽいテーブルが一つと四角いカフェテーブルが点在していて、白と黒を基調にしたモダンなカフェだった。店主は私と同年代の女性で、カウンター内にいた方も女性で切り盛りされていたが、白いシャツに黒い確かロングのウェイター前掛けで統一されて、きりっと引き締まっているが、珈琲はまろやかで、スプーンはウィーン風にカップの上に置かれている本格派であった。ケーキも手作りで、柔らかいお味の印象が残っている。

 しかしお話の方がもっと印象的であった。

 その秋の10月の終わりから、私はウィーンからスロバキアの首都ブラチスラバを再訪し、そこの弦楽カルテットに会い、演奏会を聴き、ウィーンから列車でザルツブルグの友人を訪れることにしていたので、ウィーンに話が弾んだ。

 「絵を描かれていて、ウィーンへ行かれるのでしたら、ウィーン西駅の近くにある、クリムトの最後のアトリエに、よかったら御立ち寄りくださいませんか?主人がそのアトリエの保存運動の初代会長をしておりまして、今は2代目の方にして頂いています。連絡をとりますので、予約頂きましたら、開けて案内していただけます」とにっこりと言われる。

 「え?クリムトのアトリエが保存運動?」私は一瞬、耳を疑いキョトンとしただろうが、すぐに行きたいと思った。日本では、私の学生時代は、クリムトの名前を知る人も専門家ぐらいで、本物が来ても大々的には宣伝はなく、版画を大阪北浜のギャラリーで見るくらいだったが、今や日本では、若い女性のファンが多く、本国オーストリアの国民的画家の筆頭であろう。その画家のアトリエが保存運動?どんな家なのだろう。果たして上手く連絡がとれるだろうかと半信半疑であったが、好奇心と、思ったら実行したい質の私は、行った。

 まずご主人の ドクターRさんとメールでやりとり。言語は英語。オーストリアから中国への出張が多いとかで、連絡をとるのが心もとないが、2代目会長のドクターB さんのアドレスを紹介してもらって、それから連絡をとって、日時が決まった。

 ウィーン美術史美術館の近くのホテルから、市電を乗り継いで、静かな住宅街の中に「最後のアトリエ」はあった。11月はじめの万聖節が過ぎると、ウィーンはもう冬なのに、この年はまだ黄色く色づいた木々が、アトリエの北側の庭に美しく残っていて、地面は黄色の絨毯を敷きつめたようだ。左右対称形に優雅にカーブして二階から下りている二つの大理石であろう白い階段のある館をいっそう輝かせていた。

 手つかずで、改装されないままに、高層マンションが北側アトリエ前に立つ事になり、それでは、この景観が失われてしまうという事で、マンション反対運動が成功し、その後、こちらを管理することになったとのこと。中は、住まいとしての用はなさない程、荒れ果てていたが、クリムトの大作を写真パネルで再現してイーゼル(画架)に立てかけて、その周りには画材道具が置かれていて、当時の雰囲気が想像される。暖房がないから、しばらくいると底冷えがする。家具調度は殆どなかったと思うが、クリムトが能面や能装束、浮世絵や日本の骨董をたくさん集めていて、それがあの金箔画面になったことがよくわかる。なぜなら、家具の中に収まっているかのように等身大のガラス戸付きの家具のモノクロ写真が壁に貼られていて、再現されていたからだ。 南側の庭は果樹園になっていたようで、それで林檎の木の作品たちはここでも描かれたのかと納得する。

 当時のクリムトのアトリエを訪れた京都出身の太田喜ニ郎という画家が書いた訪問記録が、当時の美術雑誌に掲載されていることなどがパンフレットになって、建設図面などと共に保存啓発の資料としておいてあったので、私の力では保存再建にはおぼつかないかもしれないが、何冊か買った。ドクターBさんに、その優雅な階段の前で写真を撮ってもらった。

 日本贔屓の画家に敬意を表して、着物地でリフォームして作ったリバーシブルのコートを着ていたから。

 この階段を利用して、保存運動を盛り上げる為に、ファッションショーも催されたとのことを後から伺った。何度かこの館は改造された形跡があるようだが、クリムトが生活していたころは、エミリエ・フレーゲという画家と親しかったデザイナーの女性や彼のモデル達が優雅にまたたくましく、この階段を往来したことだろう。

 その翌日、ウィーンの国立オペラ座でヴェルディの「フォルスタッフ」を観て、オペラ座近くのホテル「ザッハ」のカフェレストランで夕食をした。

 隣のテーブルでは、蝶ネクタイにシルバーグレイの髪の紳士と夫人とおぼしき恰幅のよいカップルとその息子さんらしい、30代半ばの男性が、話をしている。息子さんはウィーンに滞在されているようだ。

 発音からしてアメリカ人らしい。ボストニアンだった。コンサートのことなどで話しかけると、自分たちは演劇を観たのだが、今日のはどうも演出がよくなかった、あなたのオペラに行ったほうがよかったと思うなどと社交会話が弾んだ。

 ウィーンは何度も来ておられるようだし、息子さんは滞在中なので、ちょっと私はクイズを投げかけた。「ウィーンで有名な画家の隠されたスポットをごぞんじですか?」「クリムトでしょう? ゼゼッション(分離派)会館のベートーヴェンフリーズ?」と老紳士。「人物はその通りグスタフ・クリムトですが、違うんです。ゼゼッション会館は有名スポットですから」と失礼ながら、ニコニコして答えると、紳士はより笑顔で体を乗り出して、ではどこの事なのかと、好奇心を体いっぱいにして下さったので、「実は昨日行って来たところなのですが」と、「クリムト最後のアトリエ」臨時ガイドを勤めたのでした。

 松本のカフェクリムトは残念ながらなくなりましたが、私にとっては忘れられないカフェとなりました。

 女店主とそのご主人とのご縁が、クリムトのアトリエ訪問がきっかけで文通が深まったのです。

 因に、その後「クリムト最後のアトリエ」は、急転回してオーストリア政府が再生することになりました。



HOMEサロンTOPコンサートサロン通信ご利用案内アクセスお問合せリンク
COPYRIGHT NOIX ACCORDEES. ALLRIGHTS RESERVED