今月のメッセージ



われらの尚(なお)ほろびざるはエホバの仁愛(いつくしみ)により

その憐憫(あわれみ)の盡(つき)ざるに因(よ)る



哀歌第3章22節
(文語訳)






日本語に翻訳されている聖書は何種類もあります。

この秋にはまた新しい翻訳が出版されるようです。

一つの聖句をいろいろな翻訳で読み比べてみると、

それまで気づかなかったその言葉の味わいに触れる経験をすることがあります。

上に掲げた哀歌の文語訳は、

他の翻訳にはない味わいをわたしたちに伝えてくれています。

「われらの尚(なお)ほろびざるは」と語り始めています。

こんなわたしたちを今なお滅ぼすことなく生かしていてくださる神の恵み、

憐れみの何と大きなことであろうか、

そう語って神の恵みが無尽蔵であることを心に刻んでいます。

 

わたしはこの言葉に触れて、こんなふうに自分は普段思うことがあるだろうか、

と自問しました。

この哀歌を歌った人は、自分たちの滅ぶべき姿をしっかりと見つめています。

滅ぶべき姿と聴いて、大仰なことを考える必要はありません。

例えばわたしたちにも、気にかかっていながら、

できれば見て見ぬフリをしておきたいと思うようなことがあります。

すぐ傍にあるこの問題と、難しいこの人と、きちんと向き合わなければならないと思いますが、

なかなかそうできない自分に気づかされます。

なぜ向き合えないのか。

向き合ったとたんに、相手を受け止め切れない自分の弱さ、

不甲斐なさを思い知らされるからです。

だからそうなることを恐れて、問題に目を向けることができない。

でも見て見ぬフリはごまかしでしかない。

それはよくわかっているが、ごまかさなければ生きていけないと思う。

 

しかしこの歌を歌った人は目を背けません。

それは滅ぶべき現実を、自分の力で乗り越える自信があったからではありません。

滅ぶべき姿の自分が、そのありのままの自分が、

神の前に裸で生かされていることを知っている。

だからこのように歌う。

こんなわたしがなお滅ぼされないのは、

神がわたしを憐れんでいてくださるからです!

あなたの憐れみは、決して尽きることはありません!

 

わたしたちも同じように歌うことができます。

確信を持って断言できます。

どんなに滅ぶべき姿であっても、神はわたしを憐れんでくださり、

生かしてくださる!

なぜ断言できるのでしょうか。

神の独り子が十字架に死なれ、

わたしたちに代わって滅びを経験してくださったからです。

十字架に死なれた主イエスを見上げる時に、

わたしたちは神の憐れみに支えられ、励まされながら、

問題と向き合う勇気が与えられるのです。








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