「トランス・エゾ」が出来た訳


 
北海道縦断遠足のジャーニーラン大会ができた訳+α

 96年1月4日午前4時頃、神奈川県と 東京都の県境にあたる多摩川の六郷橋の上を意識もうろうの中、足を前に進める。
僕は毎年年末年始に行われる、田中義巳 さんが呼び掛けている東海道五十三次遠足・ジャーニーラン大会(京都・三条大橋〜 東京・日本橋 535km)の最終ステージ・三島より箱根越えをして日本橋(120k)を目指している所であった。
 五日間平均80kmを走って来たダメージで両足首はもうふくらはぎと同じ位に腫れ上がり、この最終ステージもここまで 100kmに25時間もかかっている事になる。
 ゴールまであと残り20km。六郷橋の上では、今もうそこに見えている東京都の看板を目指す僕に冷たい向かい風が おもいっきり浴びせてくる。負けじと足を前に出すが、僕の体は今にもその風に吹き飛ばされそうな位、体力は失われていた。
 今でも忘れられ無いがその時の感覚を言葉で表せば、“口から入って来る風は、喉を通り抜ける瞬間、霧上の氷となりそのまま 肺に入ってきてパリパリッと砕け散って肺に刺さる感じ”(想像できないでしょうが・・・・) であった。そして気持ちは正直 言って、“東京に帰って来たんだ”と言う感動は一瞬だけで、それ以外は、“早くこの場から逃れたい”の一心で“このままここ で倒れ込んだら、死んでしまえるだろうな〜”そのほうが楽だとさえ思っていた。
 そんな状況下、全く嘘みたいな話しなのであるが感じた事は、“僕はなんで、こんなにつらい事を自らやっているんだろう。” と考えながらも、そんな自分がなんだか嬉しくなってきて、そして“生きながらえている自分が凄く幸せ”に感じ自分の回りの物 すべてに感謝の気持ちで一杯になった。そしてそれ以後、“こんな想いを誰かに伝えたい”とゴールまでの20kmは、その方法を 考えながら走った。その結果、僕が考えついたのは、言葉で人に伝えるのではなく、文章で書き表すのでもなく、一番良い方法は 、実際ジャーニーランを体験してもらうこと、“そうだ僕の想い込みで、ジャーニーラン大会を作ろう!”この事が、そもそもの 始まりであった。


◆なぜTRANS・(Y)EZOなのか?

 その場所を北海道と決めるには時間は掛からなかった。なぜならば、大学時代足掛け5年間暮らしていた場所で地理が解って いる事と、女房の実家があることで夏休みの家族孝行ができること、この二つが大きな要素であった。
 そして何より大自然の中大陸横断を一週間程度で出来る距離でしかも日本の最北端にそれぞれのロマンを運ぶと言うおまけ付きである。
 ネーミングは、僕が始めてウルトラマラソンを体験した“Trans America Footrace”と上記の 東海道五十三次遠足・ジャーニーラン大会 からもじって、 TRANS・EZO(蝦夷・北海道)北海道縦断遠足ジャーニーランとした。尚99年より伊能忠孝の古地図を観てYEZOとまねてみる。


◆TRANS・EZOスタートまで、(下見から参加者募集)

 下準備期間は1年6ケ月、下見回数3回、遠方である為これが限界であった。大会方式等はほとんどが“田中義巳 ジャーニーラン形式” が基本である。あえて違う所を上げるとするならば、 ボランティアクルーが居てくれた事とチャリチィー大会にした事であろうか。
 最初の6ケ月は地図とのにらめっこである。いろんなルートを穴が開くほど計測器を転がしてみるが、どう見ても約 600kmの計算になってしまう。
 期間は、夏休みを使っての大会となれば土日から土日までの9連休が理想で、そのうち前後2日は北海道までの移動日が必要なであり、7日間の ステージレースに仕上げなければならなかった。
 この計算だと1ステージの平均は約86kmになってしまう。また宿泊先も調度その地点にあるとは限らない。またパックを担いでのジャーニ ーラン、そして北海道、大自然を感じて楽しむには、時速 5,5km程度の設定がよいと思われ、その場合の制限時間とランナーの睡眠可能時間 (最低4時間)、それに最終日は明るいうちにゴールして全員で打ち上げパーティーをしたい等を考えるとどうしても一日平均80km設定で 考える必要があった。
 前年の夏、始めて実測及び宿泊施設の調査に現地へ行った。どうしてもチェックポイントにしたい所や景色のいい所は妥協は出来ないが、 上記の理由から、出来るだけ最短距離になるように、幾つかの候補の道を繰り返して計りながら進んで行く。取り敢えず 2,5kmごとには 目印を探して書き出して行くが、チェックポイントになる様な所などを探しながらなので、その都度車も止めなければならない。
 距離はどうやら 555kmと偶然ごろのいい数字となった。また、宿泊施設の本来の考えは、すべて寝袋持参で、学校や公民館等地方の施設 を使いたかった。(ランナーの経費負担削減と地元の方との密着、そしてアドベンチャー性を高める為)
 しかし、初めての試みである事と北海道といえども真夏である事、それに何より毎日ランナーを風呂(温泉)に入れて上げたい考えか ら、寝袋使用は3か所となった。(公民館、ライダーハウス 、大学)

 駆け足での下見を終え、東京に帰って来て大会募集要項を作成する。出来上がったものを見て冷静に見直すと、“わざわざ夏休みに こんな狂った企画に賛同する人なんかいる訳ないよな”と真剣に思った。そして11月にいよいよ要項を配布。当初の定員枠の15名は、 2週間余りで一杯になってしまった。皆さんから届く申込用紙が本当に嬉しくて、毎晩一人酒を飲みながら何回も読み直した。
 しかし余韻に浸っている場合ではない。これで本当に TRANS・EZOを実行しなければならなくなってしまったのだ。そしてこの時点で 僕自身がこのレースを走ることはあきらめることにした。その後も参加希望の問い合わせがあり、取り敢えず欠員が出た時の繰上げである事を 了承してもらえる方のみ受け付けた。その間もう一度宿泊施設の調整をし、何とか30名分は確保できた。もっともこのジャーニーランの価値観を損な わない為にも、ランナーとボランティアクルーを含めても30名以内には当初から仕上げたいとは思っていた。
(結局最後まで粘って戴いた方は全員参加出来る事となった。)


◆ボランティア・クルーについて

 この TRANS・EZOのメインコンセプトは、“自分の想いを自分の足で日本最北端に届ける”と言うことである。そしてそんな 素晴らしい想いを、走る事の出来る人(ランナ−)だけで無くいろんな人に体験して欲しいと思い、ボランティア・クルーの募集 を行った。 彼等彼女らの存在は、大会スタッフ(ランナ−のお世話係り)では無く“走らない参加者”である。一部大会スタ ッフのような顔をして、ミーティングやお世話をしている時は、彼女らのこの大会に対するボランティアの部分である。したが って、それ以外で彼女らに物事をこちらからお願いする事は(勿論、ニコニコして頼まれてくれるが)本来の主旨からは外れる事 となる。その意味を込めて TRANS・EZOでは大会スタッフとは呼ばず、ボランティア・クルーと呼んでいます。
(尚97年は5名、'98年は3名の参加であった。)
 彼等彼女らのお陰で呼び掛け人も二年連続ランナーとしての参加が出来ました。


◆特別企画について

 以前から自分の趣味や得意な事で何か人の為になる様な事をしたくて、チャリティー企画を提案した。もちろん参加者に賛否 を確認し、過半数以上の承諾と決定後も義務ではない物とした。
 結果ほぼ全員の賛成意見を戴き、チャリティー先は北海道への感謝の気持ちを込めて97年は稚内、98年は旭川の養護学校へと なった。

 希望ゼッケン番号をつのった。自分の思い込みでゼッケンNO.を選べるのも良いかなと思った。またこのナンバーは、この大会が続く限り その人の永久番号とした。

 大会運営資金を捻出する為、希望者のみ飛行機便の手配を行った。割引になった金額の半分は運営資金に回させて頂いた。
(エイドカー飲料代とチャリティーへ)実はこの飛行機便の手配が二年連続で寸前まで四苦八苦し(割引扱いの為)希望者には迷惑を掛けた。 しかし運営資金捻出の為今後もこのシステムは続ける事になると思う。


◆NHKさんの取材について

 7月に行われた奥久慈トレイル・ジャーニーランにて、毎日新聞の“いきいきレジャー”と言うコーナーのライター・宇賀神 まゆみさんが体験取材として参加した。この記事を見てNHKの報道ディレクター・江川さんから TRANS・EZOの取材要請が あった。(何と出発3日前であったので本当に来るとは思わなかった。)
 結局“おはよう日本”と言うニュース番組にて、9分間の特集として放映された。内容は“自分自身を奮い立たせる為、様々な想いを胸に 北の大地を走る人たち”である。大会終了から四日後の放送となったが、短い時間の中彼等の取材したかった面を非常に 上手くまとめられていたと思う。(さすがに“行く年来る年”を任されたディレクターである。)
 99年は、一時間番組でと今から動かれている様であるが(これは99年の秋にドキュメンタリー番組とドラマとしてともに全国 放映されました)、もし本当に一時間の番組枠が取れるのならば、TRANS・YEZOがどういう主旨で行われ ていて、そして“走る事と言うのはこんなに素晴らしい事なんだ”と言うような部分も少しで良いので織り混ぜてもらえればと呼 び掛け人として思っております。ちなみに、番組に対する参加者のアンケートの結果は、『我々のやっている事が少しでも世 の中の人に解ってもらえてうれしかった。』と言うのが、大半の意見でした。


◆ TRANS・EZOは、参加者全員が主催者なのである!

 大会方式に寝袋以外は自分で担いで走ると言うルールがある。しかし残念ながら大変重たい?寝袋が幾らかありました。 私も『自己のモラルの問題だから・・・・』と見てみぬ振りをし特に注意もしませんでしたが、参加者全員が主催者の大会だからこそ各 人がモラルを守る事が大切であると思いました。細かい事を言えば大会方式だけでなく、協賛品のウエアは一人一着にして下さ いとお願いしたにも拘わらず複数持って行った人がいた為、たりない人が出てしまったり、施設でのごみの分別を怠る人がいたり(ボ ランティアクルーがスタート後、始末をしてくれています)、ほんの一部の人の自分勝手な解釈で『これ位なら良いだろう』と言 う事が大会自体の価値を下げる事になってしまい、この手の大会では許されてはいけない事だと呼び掛け人自身、個々のモラルの 大切さを痛感しております。
 またこの TRANS・EZOは、呼び掛け人の思い込みで“それぞれの方の自分の想いを自分の足で日本最北端に届ける”と言う事 が共通のコンセプトとなっている大会です。だから勝手な解釈で『何か問題を抱えていないヒトは走ってはいけないみたい』と か『速く走るのがダメ』とか『遅く走るのが良い』とか言われてしまう事は 呼び掛け人にとっては大心外な事です。
 どうか、この TRANS・EZOの在り方について正しいご理解の程よろしくお願い致します。
 





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