笠之助随筆集 其之参  kasanosuke's essay vol.3

  歌舞伎と忍者 〜 出雲の阿国は忍者か?! 〜

 
           


  慶長三年(1603)、出雲の阿国が京の四条河原で「傾奇かぶき踊り」を始めたのが歌舞伎の起こりだと言われている。 平成十五年(2003)は、それから数えて400年目に当たり、出雲や京都では多くのイベントが催された。

  教科書に載るほど有名な阿国だが、その出自は諸説様々であり、いまひとつはっきりとしない。
出雲大社(島根県大社町)の巫女、 興福寺系の声聞師しょもんじの歩き巫女、京の出雲路(京都市上京区)の幸神社さいのかみのやしろの 時衆(時宗)の鑿打聖かぬちひじりの娘などの説である。

  おおよそ、その時代の芸能者は河原者の一類であり、賎民に区分される。事実、江戸の歌舞伎は、江戸時代半ばの宝永五年(1708)まで長吏頭 浅草弾左衛門の支配を受けていた。しかし阿国の活躍した頃は、身分制度が厳しくなる前のことで、才能次第では上層階級にのし上がれるという時代であった。しかも、戦国期を生きた女性の姿は逞しく、男性の影で活躍の場が少なかった江戸時代とは一線を画して考える必要がある。

  戦国時代末期から江戸開幕期を描いた歴史小説、時代小説には、しばしば出雲の阿国が登場する。阿国は歌舞伎の祖としての姿とともに、忍者として描かれている作品も少なくない。

  甲斐の武田信玄がくノ一(女忍者)を使ったという話しがある。川中島の戦いで戦死した望月盛時の未亡人望月千代女ちよじょは、信濃国小県郡根津村古御館に居を構え、甲斐・信濃の巫女を統率したといわれている。孤児や捨子の少女ばかりを集め巫女としての業を仕込んで、歩き巫女として各地へ放ち諜報活動をさせていたのである。 古くから信濃国は素破すっぱ(忍者)の宝庫であり、甲賀忍者のルーツも実は信濃国にあった(甲賀三郎伝説)。出雲の阿国も傾奇踊りで名を馳せるまでは、この歩き巫女のような境遇であったのかもしれない。

  山陰地方を本拠にする忍びに、イボロ(飯母呂)衆と呼ばれる一族がいる。天慶の乱では平将門に与するが、将門が敗れたため、イボロは全国各地へ散ってしまった。このとき、イボロの多くは山陰地方へ逃れたのであるが、筑波山に棲んだ一団は風魔衆になったと言われている。風魔は後北条氏の忍者として戦国期を暗躍し、その棟梁は代々、風魔小太郎を名乗った。

  その他に洛北八瀬の岩屋に隠れ棲み、夜な夜な洛中洛外に出没し集団強盗と化していたイボロの一派がいた。あるとき、空也上人が御菩提池(深泥ヶ池)を歩いていると、イボロの盗賊二、三十人が現れた。しかし、 逆に諭されて四条・五条河原辺りに苫屋(とまや:萱葺きの小屋)を立て居住するようになったという。空也上人の教え通りに念仏を唱え、托鉢や茶筌売りで生計をたてたが、 托鉢で使う鉦がなかったので、兜の鉢を叩いて歩いたという。それより、「鉢屋者」 あるいは「苫屋鉢屋」と呼ばれるようになったのである。 鉢というのも実際には瓢箪を輪切りにした粗末なものだったらしく、『洛中洛外図屏風』(国立歴史民俗博物館蔵)には瓢箪そのものを叩く鉢叩きの姿が描かれている。また、上人の推薦で盗賊捕方の役に付けてもらい、諸国の大名からも勧誘を受け諸国に散ったともいう。

  八瀬には、鬼の子孫を称し、延暦寺に仕えていた八瀬童子と呼ばれる一族がいる。「天皇の影法師」とも呼ばれ、天皇の輿丁役とともに隠密役であったともいうが、その八瀬童子と皇室との間に関わりが深まった時期は以外と浅く、信長による比叡山の焼き討ちより後のことのようだ。八瀬童子は角の無い鬼の子孫を称え、酒呑童子とは関係ないことを主張している。八瀬の瓢箪崩山には、大江山へ移り棲む以前に酒呑童子が隠れたという鬼洞と呼ばれる洞窟があるが、鉢屋の前身である飯母呂衆の隠れた岩屋は、この鬼洞であったのかもしれない。酒呑童子を平将門であるという見方もあるようで、八瀬童子は将門残党である鉢屋衆と混同されるのを嫌ったのではないだろうか?
  一方の風魔衆は、北条家滅亡後に夜盗となり江戸市中で暴れ回っていたが、皮肉な事に阿国が傾奇踊りを始めた同じ年、風魔小太郎は捕らえられ処刑されている。

  豊臣秀吉が鉢屋であるという小説(注1)も出ているが、出雲の阿国を忍者とするならば、阿国を鉢屋の一族とするのが最も説明がしやすい。
  阿国が四条河原で興行していた河原者である点、出身地とされる出雲国が鉢屋衆の本拠地(注2)である点などが挙げられる。また、空也上人が教えた念仏踊りが時宗となったので、幸神社の時衆(時宗)の鑿打聖の娘とする説にも符合する。

  いづれにせよ出雲の阿国だけに留まらず、漂泊の芸能者たちはスポンサー・パトロンを求めて各地を転々と移動し、その中で諜報活動(忍者?)をも生業にした可能性はあると思う。松尾芭蕉、観阿弥・世阿弥などに隠密・忍者説が生まれる背景はその辺りにあるのだろう。



注1)
『鉢屋秀吉』黒須紀一郎著、作品社刊。毛利家の使僧 安国寺恵瓊の書いた書状の中に、
      「藤吉郎(秀吉)さりとてハ(八)の者ニて候」というのがある。これを鉢の者という解釈をして
      作られた作品。


注2)文明三年(1485)、鉢屋衆の 鉢屋弥之三郎は、浪人の身である尼子経久の要請を受け、京極家の塩冶 掃部介の護る
        出雲国月山冨田城の奪回に乗り出した。旧領を取り戻す為に集まった 尼子旧臣50人余りと、笛師銀兵衛率いる鉢屋者
        70余名が参戦した。 毎年、正月に月山富田城へ祝賀に訪れる習慣のあった鉢屋衆は、初日の出 とともに武器を隠し
        持ち、「万歳」の舞と囃子で難なく入城を果たした。 刻を見計らって鉢屋衆が合図の狼煙を上げると、待ち構えていた
        尼子勢が 乱入し、あちこちに火をかけ一気に本丸を落とした。この功で鉢屋衆は 本丸北の「鉢屋平」に長屋を与えられて
        住み、「やぐら下組」と呼ばれた。

参考文献  『忍者の系譜』 杜山 悠著 創元社刊
       『千年の息吹き 京の歴史群像』 「出雲のおくに」小笠原恭子著 京都新聞社刊
       『近世の民衆と芸能』 京都部落史研究所編 阿吽社刊
       『漂白の民 山窩の謎』 佐治芳彦著 新国民社刊
       『鬼と天皇』 大和岩雄著 白水社刊
       『決定版 忍者のすべて』歴史読本臨時増刊 新人物往来社刊
       『忍者が描く闇の戦国誌 出雲鉢屋衆篇』 辻 直樹著 歴史読本 2004年8月号 新人物往来社刊

2002.10初稿    
2014.03加筆訂正 



 

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