笠之助随筆集 其之壱  kasanosuke's essay vol.1

 能と忍者 秘すれば花 観阿弥と世阿弥

                  


 忍者の秘伝書『正忍記』の中に、変装術「七方出」として、七つの職業が紹介されているが、そのひとつに「猿楽師」(能役者)がある。

  能の大成者である観阿弥・世阿弥の出生地を伊賀とする『上嶋家文書』をめぐっては、頑なに大和出生説を唱える能楽研究学者からの痛烈な反論を食らうところとなり、その真相は未だに闇のベールに包まれている。

  昭和三十七年に上野市(現伊賀市)の旧家から発見された『上嶋家文書』によると、伊賀服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の兄弟であるのだという。そもそも、この『上嶋家文書』なるものが江戸末期に書かれた写本であり、正成の甥が観阿弥だとする事自体が余りにも出来過ぎた話しなので、偽系図ではないかというのが大半の学者たちの主張である。

 確かに、江戸期には系図作りが商売になるほど偽系図が横行していたというのだが、わざわざ世阿弥の家系を引っ張って来る必然性が見当たらない。なぜなら世阿弥が風姿花伝を著した能の大成者として一躍脚光を浴び出したのは明治後期以降の事であって、江戸期においては無名に等しい存在でしかなかったからである。(注1)

 出生地の論議は別としても、世阿弥の先祖が服部氏である (あるいは自称していた) 事は、自らの著作物においても明らかである。

 
伊賀の上嶋家の祖先は、源頼政の子孫より出て源氏を称したといい、有宗の父有綱が源義経との縁を以って頼朝方から追われる事となり、有宗自身も大和国宇多郡深山吉冨より、伊賀予野谷のスチ族を頼って逃れた。その後、上嶋家は浅宇田村へ移り、吉冨三郎を名乗ってスチ族と結合したのだという。よって、上嶋家は通称「須知吉冨上嶋」の三姓を名乗ったとする。
 スチ族とは『古事記』に「須知の稲置」として登場する名張郡周智から発生した伊賀の古代氏族である。観阿弥伊賀出身説の謎を解明するキーポイントは、ここに隠されていると筆者は確信している。

 後に江戸幕府によって統制された大和四座(観世・宝生・金剛・金春)は、古くから互いに養子縁組を繰り返して、血縁関係を深める事で結束していたという事実がある。それぞれの流派の主張をしながらも、四座の結束をも忘れなかったのである。それは、戦国乱世を生き残る為の一流の処世術であったとも言えよう。
 全国の大名に抱えられた各地の能役者たちが、独自のネットワークを形成していたとなると、かなりの情報収集が可能であったのではないか?忍者と能役者の繋がりがあったとするならば、諜報活動を生業とする忍者にとって、これほど都合のよい事はないのである。


注1)2009年、京都在住の哲学者である梅原 猛氏が『うつぼ舟U 観阿弥と正成』を発表して、徹底的に「観阿弥伊賀出身説」を
   支持された。これに対し、能楽研究の第一人者表 章氏が梅原氏に応戦する形で、翌年に『昭和の創作「伊賀観世系譜」梅原 猛
   の挑発に応えて』を発表され、論争が激化した。「伊賀観世系譜」が江戸期の写本である事すら否定、昭和の創作と断定した
   内容である。残念ながら、この二人の論争は表氏の急遽により幕を閉じることとなった。

参考文献 『伊賀史叢考』 久保 文武著
       『忍者の教科書 新萬川集海』 伊賀忍者研究会編 笠間書店刊
       『うつぼ舟U 観阿弥と正成』 梅原 武著 角川学芸出版刊
       『昭和の創作 「伊賀観世系図」梅原 猛の挑発に応えて』 表章 ぺりかん社刊
       『伊賀暮らしの文化探検隊レポート Vol.12 伊賀と丹波の須知氏』 辻 直樹著 伊賀暮らしの文化探検隊編

初稿日 不明(2001?) 
2014.03加筆訂正 



 

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