第三章 大爲爾歌
此の歌は、口遊に見えたるものなるがこの口遊といふは、前章にいへるか如く、源爲憲が、天祿元年の作なり。此の書、将門記と同じさまに、影寫印行せしかば、今も之を藏せる家、少からず。されども同じさまに、眞假名にてかける歌どもに交りたれば、大爲爾歌などいひて、其の時代に於ける普通の假名を教ふべき爲に、特に作れるものゝ有ることに心付けるもの甚た稀なりしなり。編者も曾て、大槻氏にて、一見せしこともありつれど、更に目に觸れざりき。さるに先つ年、故谷森善臣翁に示され、初めて斯るものゝ有りけるを知れることの鈍ましさよ。後に、内務省にて、眞福寺所蔵の古書どもを國寶とせられんとて一時それらの豫定のものを、同省なる寶物取調所に取り寄せ置かれし時、志あるものには、閲覧を許さるゝと聞き、往きて觀るに、そが中に此の書も加はりければ、主務官の許可を得て、此の歌、并びに附言をも、細心に映寫し置きたれば、今そをここに掲ぐ【原本一行尺餘、今之を縮摸したるものなり。】。
但し、此の歌の載せられたる口遊は、天祿の作なれど、そを遙か後の鎌倉時代なる弘長に寫せるものなるが故に、全編誤脱多く、此の歌の如きも、安佐利於比由久とあるべきを、於の一字を脱し、又注なる借字を供字と誤寫せるなどにても知るべし。

今甞みに、此の歌の眞假名の字體を正して、傍假名を附し、附言に訓點を施し見るときは、
大爲爾伊天奈徒武和禮遠曾。支美女須止。安佐利□比由久。也末之呂乃。宇知惠倍留古良。毛波保世與。衣不禰加計奴。【謂之借名文字。】
 今案、世俗誦阿女都千保之曾里女之訛説也。此誦爲勝。

となり、尚其の意を議するときは、
田居ニ出デ。菜摘ム我ヲゾ、君召スト。求食リ追ヒ往ク、山城ノ、打酔ヘル兒ラ、藻干セヨ。得船繋ケヌ。
かくの如くなるべし。抑も、前段いふが如く、此の大爲爾歌は、如何なる點に於いて、假名遣沿革、又は阿女都千詞等に對して、有益なる徴證を供するにかといふに、第一、自ら阿女都千詞の一字づゝを上下に置き、四十八首を詠みなから、其の詞中に分別せるアヤ二行のエ音を分別せざる順の弟子なる、爲憲の書に、同じくエ音を分別せさる四十七字の、此の歌を載せて、エ音二つありて四十八音なる阿女都千詞を斥けたるか如きは、和名抄のアヤ二行のエ音混用と併せて、明確に、順時代は、既にエ音を分別せざる四十七音となれるを確證すること、第二、此の時代、既に四十七音時代なり。然らば四十七音にして巧妙なる、伊呂波歌、果して空海の作にして、存在したらんには、之をこそ擧ぐべきに、かゝる拙き五七調の歌を取りて、之を誦するを勝れりと爲すといへるか如きは、自ら、此の時代に於いては、未曾て伊呂波歌の存在せざりしを碓證するに足ること。第三、此の歌に對し直接の事にはあらざるも、其の附言中、阿女都千保之曾とあるにより前章にいへるが如く、阿女都千詞の文字のさまを追想し得らるゝこと、是なり。とにかく、阿女都千詞、既に舊式として捨てられ、巧抄なる伊呂波歌、未だ出でず其の間に於いて一時の間に合せとなり、遂ひに巧妙なる伊呂波歌發生の導子ともなれるものならん。されば、單語篇のさまなる阿女都千詞、一たび變じて、大爲爾歌となり、遂ひに人口に慣れ易き今様體なる伊呂波歌となりて、遠く今日に傳れるは、自然の進化といふべきなり。大爲爾歌、世に行はるゝ甚だ弘からざりしといへども、國字普及上は、いふまでも無く、假名遣を始め、他の手習詞歌考證に封して、徴證となるべき點少からず、豈徒、口遊雑歌中に、没了して可ならんや。