「はまおき」解題
奥村三雄『九州方言の史的研究』(桜楓社1989.2)所載の岡島稿を改訂
一
ここに影印を掲載する『はまおき』 所謂「久留米浜荻」あるいは「筑紫浜荻」は既に先学の論も多く、ここにあらためて解題するまでもないかとは思うが、最低限必要と思われる事項と、解題者なりに気付いた点をいくつか述べることとする。
『はまおき』の著者は久留米藩の儒者、野崎教景(嘉永5年、35歳で没)という。自序の「破苦楽庵主人」なる人物が、この野崎教景の戯名なのだろうが、文献の徴証を知らない(注1)。教景のご子孫保管の『野崎書冊目録』に「はまおき」の名が見えるというが、この目録が教景の著書を収めたものであれば、『はまおき』著者は野崎教景なり、という徴証になろうが、解題者としては今のところは口伝によるとしか言えない。
野崎平八郎教景はかなり有名な人物で、たとえば近年刊の『久留米人物誌』(注2)では、本文で立項される他、後半の「人物誌余録」でも「藩主頼永を補佐した野崎教景」として、約三頁をさいてふれられている。松田正義氏の『古方言書の追跡研究』でも四頁弱の著者略伝がある(注3)。有名なのは有馬頼永のそばについたり、村上守太郎量弘の刄傷事件に連座したこと等であるが、若い頃は聖堂、そして松崎慊堂に学んだという。『慊堂日歴』(注4)を見ると、日歴第十七の巻末に、当時(天保八年)慊堂の許に寄寓していた人々と思われる名が見えるが、そこに「野崎平八」とある。それを皮切りにかなりの個所にその名が見える。鈴木瑞枝氏の「慊堂日歴主要人物索引並びに解説」(安田学園研究紀要20)によって見てゆくと、天保10年3月13日、「野崎平八、退塾西遊、以十七日発」とあり、同16日には慊堂と教景は昼食をともにし、慊堂は教景を送る五律を記している。初句に「不覚遂三歳」とあり、三年ほどの塾生活であったと知れる。松田氏著書によれば、教景は同年5月22日に久留米入りしているが、慊堂日歴7月5日の条によれば、教景は6月6日に久留米より書を寄せている。下って天保11年5月29日、「野崎平八自筑後帰謁」。5月26日に江戸に戻ったという松田氏著書の記事とあう。教景が国元久留米へ行ったのはこの時だけということで、『はまおき』の取材もこの時のものであろう。更に下って現存慊堂日暦の最後から2日目にあたる弘化元年3月18日(この頃慊堂病気のため、日記は門生代筆で4月21日には慊堂没)、「木村軍太 野崎平八 杉本要蔵来」とある。尚村上守太郎の名は、鈴木氏の索引では天保12年が初出となっているが、天保8年7月22日に「村上守太郎 久留米侍臣 年十八以書牘代謁 才学之士也名忠厚」と見える。
野崎教景の編著書は『はまおき』活字本(後述)所載の原著者小伝等に多数見えるが、『国書総目録』で検する所、『感旧涙余』『庚子遊草』『思艱斎遺稿』(有馬頼永著・教景編)、そして補遺で『はまおき』が収められるのみである。なお、『国書総目録』で『感旧涙余』が嘉永四年刊で版本が存するように記すがこれは怪しい。九州大学付属図書館蔵の活字本は、刊記がないが明治18年1月5日、佐田白茅(注5)の跋を有する。「慮其書散逸、欲付之印刷」とのことで、嘉永四年は教景の自序が書かれた年である。『思艱斎遺稿』の版本存在もあやしい。明治19年と明治29年の二回、活字化されているのみのようである。
二
ここに影印する九州大学文学部国語学国文学研究室蔵の写本『はまおき』(以下「九大本」と記す)は、知られるように原本から二度の転写を経ている(注6)。まず明治33年7月、久留米の郷士史家で『福岡県内方言集』の執筆者(の一人)でもある黒岩萬次郎氏が教景の遺族から原本を借りて筆写したものがある。昭和8年1月刊の『久留米市誌』方言の項を執筆した黒岩氏は参考文献として『はまおき』をあげた。それを見た大田栄太郎氏は吉町義雄氏に問い合わせ、吉町氏は久留米市役所を介して黒岩氏に問い合わせる。そして昭和9年春、吉町氏は黒岩氏より写本を借り受け、同年4月27日、学士会館での第9回東京方言研究会で「九州方言資料に就いて」と題した講演で、嘉永頃の久留米方言集として本書について詳しく紹介した。更に吉町氏は黒岩氏に本書の覆刻をすすめ、昭和10年9月、黒岩氏は写本をもとに吉町氏の序を添えて活字化した(注7)(以下「活字本」と記す)。その時点で既に原本は行方知れずになっていたため、黒岩氏の写本によらざるを得なかったのである。刊行と同時に黒岩氏は写本を福岡県立図書館に寄贈した(注8)。このへんの経緯は活字本の吉町氏序・黒岩氏「はしがき」、「国語と国文学」昭和9年6月号の学界消息欄、「方言」昭和9年6号の学界彙報に見える。
さてここに掲載する九大本は、奥書に記すとおり、黒岩氏寄贈の福岡県立図書館蔵本(以下「県図本」と記す)を昭和11年1月に転写したものである。その後福岡県立図書館は戦災で多くの蔵書を焼失し、県図本『はまおき』も失われてしまったらしい。活字本の巻頭に掲載された写真、本文の一丁表が県図本の体裁を知る手がかりとなる(この写真は『久留米市史』第五巻(昭和61年、久留米市)第12章方言にも掲載されている)が、これを九大本と対比するに、九大本は県図本の行替え等まで忠実に写していることがうかがえる。活字本は九大本と兄弟の関係に当るが、その活字本に記された県図本の丁付けと九大本の丁移りは一致し(活字本は67頁「あらしこ」の前に「(三七ウ)」を脱する)、この点も県図本のままであることが知れる。活字本の吉町氏序で「白紙一丁、序一丁、自序二丁、凡例一丁、本文二段書所々朱筆対照四十二丁、白紙二丁、計半紙袋綴四十九丁分丁付無」と記されるのと比較して、本文の後の白紙二丁が無く、大きさが24cm×17cmというだけの違いである。
さて、「本文二段書」に関して活字本の凡例に、
詞の配置 原本は大抵一行二段詰であつたのを、検索の便を図つて一行一語詰に改め、とある。活字本に写真のある「い」の部を活字本の本文と比較すれば、半丁ごとにまず上の段を記し、それを済ませた後に下の段に行く、という順になっている。全体の体裁もそうかと思わせるが、九大本と比較するとそうはなっていないことがわかる。「い」「ろ」のみ、上段を済ませて下段という言わば二段組で、「は」以下は、上下上下と、一行ずつ進んで行く形式を取っている。しかも「か」の項のように、上段から三項目取って下段に行き、下段を三項目済ませた後、上下上下の形式になるものもあり、活字本はいわば気まぐれな配列なのである。その気まぐれさがたたって「た」の項「たんがくひき」は該当個所の前後に見えず、「た」の最後に記されているという例もある。はなはだしきは「あたゞ」の項の欠落である(注9)。『はまおき』項目数603、と諸書に記されるが、これは九大本によらねば602になってしまうのである。