平成17年一月四日

本佛寺第七世

佐野前光上人

23回忌ご法事 

鎮西身延山第七世 體光院日方上人は、昭和九年三月から同五十七年まで、約五十年間住職をされ、破坊であった当山の境内を整備し、学問の拠点としての寺を創設しました。その功績は「本と弟子を集める本佛寺」と噂される程であり、信仰の聖地として今日ある鎮西身延は当先師によるものといっても過言ではありません。
 その上人も御遷化されて二十二年の時を刻みましたが、今なお、先師への参詣は後を絶ちません。私達は、このように、伝承される尊いものを守り続けているのです。  合掌   

山首 佐野前延

早朝七時

朝勤を終え、墓前にて御回向しました。

 

 

現在の山首と弟子等が読経

 

 

 

 

大本堂に設けられた祭壇

 

午前11時よりご法事の法要が始まりました。

 

導師は東公園銅像主管様にお勤め頂きました。

式衆は鎮西連合(本佛寺修行会)の僧侶等が勤める。

 

施主となられる御前様並び寺族の方々

後方は役員総代等

 

佐野家姉妹会をお招きして…

 

 

後方は鎮西連合の方門会各聖

 

 

司会も鎮西連合の会員が務めた。

 

謝辞を述べられた御前様

 

守り続ける伝統としきたりそして

掟について語られ、その出発点は

この上人にあると言われ、心から

増道損生を、お祈りされました。

 

 

献供

おときの場所を移しての直会

 

 

挨 拶

 

正干与 草野僧正  ・  弟子代表 山中僧正

 

先師を偲ぶ、厳粛な粗宴となりました。

 

 

総代と共に謝辞を述べる山首

 

記念撮影

遺妻である佐野トキエ大奥様を囲んでのスナップ

 

こうして、偲ぶ会は閉じましたが、その折り配られた冊子

の内容をここに掲載致します。           

つ き ひ       佐野トキエ

 夫前光が逝ってもう二十三年も経ったことの速さを今更振り返っております。その一生は皆様にも知りつくされて(今更何をと)書くことがためらわれましたが、知られたくない私事で、少し変わっている出発にふれますと。
 夫が私と知り合ったのは結婚より十年も前のことで、勉学に励む大学生、私は八才の小学生でした。日菅上人の末亡人である母わか女と夫は東京郊外の早稲田に住んでいました。
 私は日菅上人と縁故の深い下町の寺の娘で、母が度々土産物など持参して夫・前光の家を訪うのに従いていき、いつか兄とも思い、読書や詩の指導をうけるようになりました。
 夫が大学を出てのち、私の高女卒業が待たれ、本佛寺先々代、淺利日調上人の仲人で嫁がねばらなくなってしまったのです。
 教師のように尊敬してはおりましたが何かむずかしい、年上の人と思っていた夫のもとに嫁ぐことは、まだ遊びたく、学生気分のぬけぬ私にとってとても寂しいことでした。十八才で家にも東京にも別れることの実状は、一生を経ても思い出の中に悲しく甦ってきます。
 結婚後は、東京を去り福岡に住むこととなり“わか女”は姑となり日菅上人の隠棲の太宰府都府楼に居を定め、夫は生活の為に県立中学英語主任として豊前市に移り二人の新婚生活がそこに始まったのです。
 夫は十七才の時すでに得度をしております。両親の影響もあり強い信仰を持って在家の生活を営んでいましたが、理想はやがて東京に出てドラマ作家として立つこと、私の文学好きを育てて二人で文学生活をするという美しい夢をふくらませていたいのです。けれどもそれは一年で終わり、昭和六年本佛寺住職として移らなければならなくなりました。三十二才にして住職としての生活になったのです。私は寺生まれであまり違和感もなく夫に従いましたが、その時代、若いインテリの心を風靡していた共産主義思想が夫の気持ちにも翳を落とし、宗教とのギャップをどのようにして埋めていくか大きな心の課題となっていたようです。けれど『人生は唯物論では解決できぬ!』という結論に到達し一途に法華経の世界に深透していきました。
 僧侶としての生活は行住座臥、それはそれはきびしいの一言につき浄らかな、かたくななものでした。寺内の子弟たちにも同じ教育が課せられましたが、破坊であった本佛寺は景観一新にまで立ち直り、大戦争の時代を見事に乗り切ったことなど、弱い体と神経でよくぞと思う他ありません。
 大戦争中は、福岡東公園の銅像と本佛寺を兼務し、供出を迫られた銅像を護りぬいた事など、知る人も少なくなっております。激しい供出是非の論争は山寺に居る私は仄聞するのみでしたが・・・。
 銅像を砲弾に!船体に!と言い立てる人の論理に対し、これは『銅ではない信仰の対象であり民衆の心の依り所である』そして『日蓮大聖人の法体である』と、くり返される論争の場に夫の信仰に燃える毅然とした姿が見えるようです。ある夜は宝前に汚物が撒かれたり、大きな出征をうながす赤タスキが銅像に掛けられたりがくり返されました。その労が報われ、ついに存置が定まりましたが、ただ護り通すことは一筋縄では無かったことと思われます。昭和二十年六月十九日福岡空襲の夜に銅像の前を動かずお題目を唱えつづけたことや、飛行機二機を行脚して献納金を集め、その悲願を達成したことなど、表面に出ない孤独な祈りの時間があった苦労は、時代の移りとともに忘れられ消えていってます。銅像はそのような事実をも纒いながら今年は建立百年という歴史の中に静かに佇立して在られます。
 夫は十年余りを病んでみじろぎもせぬ静けさに遷化しました。その枕元には手摺した御書が読みつくされて置いてありました。夫に一つ告げたいことは末法の樣相露わな今日ながらソビエトがロシアの名称に戻ったこと、そして本佛寺が法嗣に守られ清浄に人々の心を支えて居ることなのです。

山首謝辞

     御 礼                   佐野前延

この度は、日方上人の二十三回忌にご出席頂き、またお焼香を賜り厚く御礼申し上げます。
皆様にはご承知の如く、私は前曉日修の弟子でありまして、祖父日方からは僧道指導を直接受けた訳ではありません。しかしながら、その存在は閃光のように寺全体に広がり、ある種威圧のようなものを感じて育ちました。恐らく最も怖いとしていた父が、私達の目の前で叩かれる姿を見せられたからではないでしょうか。それがトラウマとなって未だ厳格な面影は彷彿としてきます。この冊子を作るに当たって笑った顔を探しましたが、やはりこれだけしか(現存)見あたりませんでした。
 さて、住職として脈々たる本佛寺での歴代の思いや傾注した精神を日々考えて過ごしておりますが、祖父は書籍を最も残された先師ではないでしょうか。お陰で全て三回以上は読みましたが、そこにある結論への質問を見つけた時、「生きていて欲しい」とつい思うのは私だけではないはずです。今、寺の図書館にある本を祖父の気持ちに置き換えつつ読んでいますが、これが相当な数で、私は一生かけて読めるものかなと参っています。書庫の他にもまだ庫裡のそこかしこに祖父の読んだ本や手記を見つけることが出来ます。本佛寺を護持し拡張し、そして門弟教育や社会活動と幅広いビジョンで展開した生涯をして、どうしてこんなに本を読む暇があったのかとその神懸かり的生活に脱帽するより他ありません。
参考書的感覚で探すと見つかる本に今はただ感謝する次第です。
そんな中、蒙古襲来の絵図が文化財保護審議委員等の尽力実って平成15年暮れから修復に入り、この程漸く出来上がります。福岡県立美術館の協力もあって、祖父が求めて止まなかった天才矢田画伯を啓蒙する仕事に今従事しております。当時(昭和四十二年)各方面に対し祖父が珍しく攻撃的に書いたり語ったりした矢田画伯の生涯。この法要に捧げるお供えのひとつになればと思っています。
今二十三年の時は、お札からも消えてしまった聖徳太子。その研究に関する溢んばかりの本を読みつつ、佛教と國家観の結び目を探求し、日方上人そして東公園銅像を護持する師父の思いを胸に当山を護持して参ります。 合掌

私達もお寺の歴史に触れることが出来、本当に勉強に

なりました。これらに恥じないよう努力して参ります。

 

編集部 前岳