つ き
ひ 佐野トキエ
- 夫前光が逝ってもう二十三年も経ったことの速さを今更振り返っております。その一生は皆様にも知りつくされて(今更何をと)書くことがためらわれましたが、知られたくない私事で、少し変わっている出発にふれますと。
- 夫が私と知り合ったのは結婚より十年も前のことで、勉学に励む大学生、私は八才の小学生でした。日菅上人の末亡人である母わか女と夫は東京郊外の早稲田に住んでいました。
- 私は日菅上人と縁故の深い下町の寺の娘で、母が度々土産物など持参して夫・前光の家を訪うのに従いていき、いつか兄とも思い、読書や詩の指導をうけるようになりました。
- 夫が大学を出てのち、私の高女卒業が待たれ、本佛寺先々代、淺利日調上人の仲人で嫁がねばらなくなってしまったのです。
- 教師のように尊敬してはおりましたが何かむずかしい、年上の人と思っていた夫のもとに嫁ぐことは、まだ遊びたく、学生気分のぬけぬ私にとってとても寂しいことでした。十八才で家にも東京にも別れることの実状は、一生を経ても思い出の中に悲しく甦ってきます。
- 結婚後は、東京を去り福岡に住むこととなり“わか女”は姑となり日菅上人の隠棲の太宰府都府楼に居を定め、夫は生活の為に県立中学英語主任として豊前市に移り二人の新婚生活がそこに始まったのです。
- 夫は十七才の時すでに得度をしております。両親の影響もあり強い信仰を持って在家の生活を営んでいましたが、理想はやがて東京に出てドラマ作家として立つこと、私の文学好きを育てて二人で文学生活をするという美しい夢をふくらませていたいのです。けれどもそれは一年で終わり、昭和六年本佛寺住職として移らなければならなくなりました。三十二才にして住職としての生活になったのです。私は寺生まれであまり違和感もなく夫に従いましたが、その時代、若いインテリの心を風靡していた共産主義思想が夫の気持ちにも翳を落とし、宗教とのギャップをどのようにして埋めていくか大きな心の課題となっていたようです。けれど『人生は唯物論では解決できぬ!』という結論に到達し一途に法華経の世界に深透していきました。
- 僧侶としての生活は行住座臥、それはそれはきびしいの一言につき浄らかな、かたくななものでした。寺内の子弟たちにも同じ教育が課せられましたが、破坊であった本佛寺は景観一新にまで立ち直り、大戦争の時代を見事に乗り切ったことなど、弱い体と神経でよくぞと思う他ありません。
- 大戦争中は、福岡東公園の銅像と本佛寺を兼務し、供出を迫られた銅像を護りぬいた事など、知る人も少なくなっております。激しい供出是非の論争は山寺に居る私は仄聞するのみでしたが・・・。
- 銅像を砲弾に!船体に!と言い立てる人の論理に対し、これは『銅ではない信仰の対象であり民衆の心の依り所である』そして『日蓮大聖人の法体である』と、くり返される論争の場に夫の信仰に燃える毅然とした姿が見えるようです。ある夜は宝前に汚物が撒かれたり、大きな出征をうながす赤タスキが銅像に掛けられたりがくり返されました。その労が報われ、ついに存置が定まりましたが、ただ護り通すことは一筋縄では無かったことと思われます。昭和二十年六月十九日福岡空襲の夜に銅像の前を動かずお題目を唱えつづけたことや、飛行機二機を行脚して献納金を集め、その悲願を達成したことなど、表面に出ない孤独な祈りの時間があった苦労は、時代の移りとともに忘れられ消えていってます。銅像はそのような事実をも纒いながら今年は建立百年という歴史の中に静かに佇立して在られます。
- 夫は十年余りを病んでみじろぎもせぬ静けさに遷化しました。その枕元には手摺した御書が読みつくされて置いてありました。夫に一つ告げたいことは末法の樣相露わな今日ながらソビエトがロシアの名称に戻ったこと、そして本佛寺が法嗣に守られ清浄に人々の心を支えて居ることなのです。
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