本佛寺縁起

 

沿 革

 「鎮西身延山本佛寺」これがこの寺の正式名称である。

 動乱の幕末から維新した明治当初、旧来の国政が根本的に変更されたことは周知の如くである。当然仏教界にも激震は走った。明治三年一月三日に出された詔書「大教宣布」での神道国教、祭政一致の政策により、仏教施設の破壊いわゆる廃仏毀釈(廃仏運動)と呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。これは神仏習合の廃止、神体に仏像の使用を禁止、神社から仏教的要素の払拭、更には仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制などを急激に実施した為の大混乱であった。多くの寺院が焼失し仏像が消えた。この混乱を防ぐべく立ち上がったのが、諸宗同徳会盟(現在の日本仏教会)という宗派を越えた組織である。法華宗系を代表して参画し、頭角を表したのが新居日薩和上という傑僧であった。和上は次第に指導力を発揮し、明治七年三月 身延山久遠寺住職、翌月には日蓮系一致派初代管長となる。明治八年、法華系の派を綜合し「日蓮宗」と改名、明治政府より宗名が定められた。

 同時に九州に檀林(僧侶育成学校)を創設する計画を企て、ここ浮羽の地に「鎮西栴檀林」を開基した。これが当山の発祥である。すなわち当地は、明治政府への提出の一端を担った九州の日蓮宗学校設立の地なのである。これにならい他教団も政府へ申請。いわゆる現在の宗派が確立していった。

 明治十二年、日薩和上から任を承けた中洲日振上人(中教院教師)が当地に入る。上人は日蓮系皆無なこの地で、講義と法華経布教を始動、現在の大本堂建築に挑む。もとより目的は「衆生救済」であり、混乱した時勢での苦しみ病む人々への依拠の開発である。されど使命は、「九州に於ける法華信仰の中心的霊場創設」であるため常に追われる日常であったと推察出来る。しかしながら人格・教養・信心何れにも秀でた上人への帰依者は後を絶たず、次第に信徒は増し、僅か一年で五十軒を越える檀徒が結していく。そんな中、宗祖入滅六百年を期し、御真骨(日蓮聖人のお骨)は身延山(山梨)を大行列で出発し九州へ上陸。上人はいよいよ心中と課せられた重大な任務を信徒に明かし、本殿(大本堂)建設に入る。今にしても本殿は大伽藍。信徒等をしての苦心惨憺の末が偲ばれる。四年の歳月を得ての明治十七年三月当山は開堂した。これが本佛寺の開山日といえる。

 日蓮聖人の御真骨分安聖地、中教院鎮西栴檀林(学校)と輝かしい肩書きを携え、産声を上げた本佛寺ではあるが、決して未来は約束されてはいなかった。日振上人は任を終え親友であった佐野前励上人に当山を継承。明治二十三年、英傑と謳われた前励上人が東京から入山するやいなや活動力を持しての山林開拓に着手、境内の整備に尽力し、教学に長けた能力を存分に発揮した布教を展開。守護神を勧請(永遠大明王)し、一万坪にまで拡張した境内には人が溢れるようになっていった。また師弟教育にも尽瘁する上人には門を叩く修行僧も多く、本佛寺弟子一門を形成していく。現在の鎮西門修行僧の連合化や後継第六世住職があった史実が功としてあがる。一方、外にあっても門下を持ち、その証が博多に聳える日蓮聖人銅像と亀山上皇銅像建立といえる。日蓮教学信仰による友人知人、これらを先導しての銅像建立は内務省までをも動かし、福岡県知事と共に進めた宗教的戦略は、明治の偉業として今も知る人ぞ知る所である。その後、国が世襲制を認めた為、当寺は前励上人以来佐野家により継承、三万二千坪に拡張された境内に十一の堂宇を構え、多くの檀信徒によって支えられ今を生きている。                    合掌 第九世 日遠

 

 

 本仏寺第九世御前様の弟子達

(給仕第一の精神で日夜読経三昧)

 

 

本佛寺の門弟

 

この他、方門会という第七世のお弟子さも達も多数おられます。

 

参拝者専用駐車場

 

   

 

 

 

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