オフィスの中で、動き出すとガーという音で存在感を示すシュレッダー。一瞬にして紙を木っ端微塵にしてしまう、ちょっと恐ろしいこの機械は、コピー機の横などに置いてあって、地味だけど今やオフィスにはなくてはならない存在である。ミスコピーやミスプリントは、コピー機から出るや否やこのマシンにて消滅する。プリントはコピー機で生まれ、シュレッダーでその生涯を終える。
若かりし頃、コピー機とシュレッダーを使った「愛の告白」を思いつき、友人に強く勧めたことがあった。それは、こういう手順である。まず、大きな字で愛の告白を紙に書く、あるいはプリントしておく。ターゲットがシュレッダーを利用しているときに、この原稿をコピー機の原稿台に置き、コピーボタンを押す。枚数は20枚ぐらいがよい。告白コピーがコピー機から排出されたら、シュレッダーを使っているターゲットの女性にちょっとすみませんと、横入りして、告白コピーをシュレッダーへ入れる(もちろん表向きにして)。そしてコピー機から出てくる愛の告白コピーを粛々とシュレッダーに入れるのだ。彼女は唖然として、シュレッダーへ消え行く愛の告白を見入る、というわけだ。
残念ながらこの楽しい企画は実現しなかった。そして、今となってはシュレッダーで思い出すのは、退職してゆく人が黙々と書類をシュレッダーにかける光景だ。皆が寡黙にPCに向かうオフィスで、シュレッダーの音が響く。顔を上げ、シュレッダーに向かう背中を見て、そういえばこの人は今日で終わりだったなあ、と思う。そういう光景を何回も見てきた。そして自分も何回もシュレッダーをかける立場となった。様々なプロジェクトに関連する資料がシュレッダーに消えてゆくのを、複雑な感情で眺めながら、背中でオフィスのなんとも言えない空気を感じる。さあシュレッダーが終ったら、皆に挨拶をして、この会社ともおさらばだ。シュレッダーは、紙だけでなく、会社員の人生にも一区切りをつけるのだ。(10/4/11)
昔の上司にとても話が好きな人がいた。その人は後藤さんというもう70を超えた現役の営業マンである。後藤さんはいい人なのだが、とても話が長いので、一緒に外出すると、電車にのっている間じゅう、ずっと話を聞くことになる。駅に到着しても話は続き、路上でも歩きながら話が止まらず、客先のロビーでも話し続け、先方が現れてやっと話は中断(!)する、というぐらいの話好きなのだ。あるときなどは、一度聞いたことのある話が始まったので、ああその話聞きましたよー、と伝えたのだけど、「ああ、そうだったね、話したね。そうなんだよ、話したけどさあ、・・・」と、最初からお話が始まり、このときばかりは、さすがに失神しそうになった。
まあ世の中には話が止まらないという人が少なからずいる。しかし、私はどうも長く話をするということが苦手なので、話が止まらないという状態がいまひとつわからない。一方、父はよくしゃべるタイプであるが、この間の正月も妹家族と集まって飲んでいたら、途中から妹の旦那をつかまえて、延々と自分の仕事の話をしていた。話すというよりも演説に近い状態である。旦那はただただ相槌を打っていた。そして長い話が終ると、あー今日は久しぶりに話したよー、と満足げ。いやー食った食ったという感じである。
伝えたいことがあるからというよりも、話すという欲求を満たすために話す、というパターンが会話のかなりの割合を占めているに違いない。機関銃のようにしゃべりまくる妻を見ていると、その思いを強く確信する。たぶん人間には、食欲ならぬ話欲というものが存在するに違いない。そして、うまくしゃべれない私は、こうして誰が読むとも知れぬ、ウェブサイトに駄文を書き連ねるのであった。。
(10/1/30)
後藤さんは、会社で私と背中合わせの席だった。あるとき私がPCに向かっていると、「しかし、わきくんは本当に仕事ができるよなあ。」と言った。私は謙遜して「いえいえ」などと言っていると、後藤さんは言った。
「1分間に何文字ぐらい打てるの?」
ははは。仕事能力=タイピング速度、という確固たる判断基準である。たしかに後藤さんは毎晩タイピングソフトで練習しているのだ。そして、そのお年にしては、タイピングは早く、なかなかのものなのである。
腕木通信を重宝したというナポレオン。情報伝達というキーワードで見ると、他にもロゼッタストーン発見という大きな足跡を残している。ナポレオンは、1799年に遠征先のエジプトで要塞の中からロゼッタストーンを発見する。ロゼッタストーンは、紀元前2世紀エジプトのファラオと神官の布告の石碑だが、この石碑に刻まれた内容がヒエログリフとギリシャ語と民衆文字の3種類で書かれていたので、その後ヒエログリフ解読に大きな役目を果たしたのだ。このロゼッタストーンは現在、大英博物館の目玉的な展示品になっている。
ナポレオンがロゼッタストーンを発掘した話は有名である。いろんな本に書いてある。ところが、「ヒエログリフ解読史」(ジョン・レイ)を読んでいると、ナポレオンはこのときにエジプトに初めて印刷機を持ち込んだとの記述があった。ちょっと興味を引き、本を探したがなかなかそのことが書いてある本が見当たらない。しかし、googleブック検索でやっと、D.ブアスティン「本はいつごろから作られたか」に記載されていることがわかり、絶版だったが、アマゾンで古本を購入。
この本によると、ナポレオンは、エジプト遠征時になんと印刷機を船に積み、艦内で印刷を行いながら遠征したという。1798年にナポレオンはエジプトに向かうのだが、このときナポレオンはヴァチカンで印刷機を接収し、イタリアから植字工と印刷工を3人ずつ、フランスから印刷工を18人(!)連れ、印刷機を旗艦に設置して、布告などを印刷しながら、エジプトへ向かった。戦艦の中で印刷機を操作して、刷り上げていく光景を想像するだけで船酔いしてしまいそうだ。
当時のイスラム圏は、アラビア語が28文字しかないので可動活字にうってつけだったにもかかわらず、手書き文字に対する畏敬の念が強く、印刷機は普及していなかった。ナポレオンが着いたときに、エジプトには印刷機や新聞というものは存在しなかった。ナポレオンは印刷機を設置し、印刷所を開設すると、布告をアラビア語で印刷したという。ナポレオンは善意を持っている、イスラムを尊重している、などという内容を印刷して配った。ナポレオンは自分で仕上がりまでを指示したのだとか。エジプト初の日刊新聞「エジプト旬報」も、かのナポレオンによって発刊された。3年後にエジプトを撤退するときに、印刷機を持って帰ってしまい、エジプトはしばらくの間、印刷機のない世界に戻った。印刷機がなくなったことは、エジプトの民衆教化に大きな妨げになったとブアスティンは書いている。
(2009/8/13)
この間、電車の中で本を取り出し読もうとしたら、前に座っていた女性が一瞬笑いをこらえたように見えた。本の題名をみて顔をゆがめたようだ。私の読みだした本の名は『伝書鳩』(黒岩比佐子/文春新書)。そんなに面白い題名とも思わないが、いわゆる壺にはまったのかもしれない。
確かに伝書鳩という言葉には、どことなくユーモラスな響きがあるが、実態はなかなか過酷な仕事だったようだ。鳩にとってはただ家に帰りたいだけの話なのだが、その習性を利用して古代から通信に利用されていた。紀元前776年の第一回オリンピックで優勝した選手が、伝書鳩を持参していて、故郷への優勝の伝えを伝書鳩に託した、という話が『伝書鳩』に載っている。伝書鳩を連れて遠方に行き、その遠方でのなんらかの結果を伝書鳩にくくりつけて飛ばす。
敵よりも早く結果を知れば得をする。これは商売でも戦争でも同じだ。紀元前から”のろし”で、戦争の勝敗は数百Kmの距離を1日で伝えられたという。勝ち負けぐらいの情報ならのろしでいいが、それ以上の情報は手紙を人、馬、鳩などの移動によって伝えることになる。しかし、移動による通信はどうしても時間がかかる。伝書鳩は通信手段としては、ある特定の場面(たとえば遠隔地で撮影したフィルムを新聞社に運ぶとか)では活躍したが、広く普及したとは言えないようだ。人々は古来いろいろな通信方法を試したに違いない。しかし、18世紀になるまで広く普及した通信装置というものはない。
昔からの遠隔通信と言えば手旗信号がある。個人的には、この手旗信号もなんだかユーモラスだと思う。まるでマシンのように旗をあやつるところがどことなく面白いのだが、じゃあマシンにしちゃえ、という発想の、手旗信号のメカニカルバーションとも言えるものが、腕木通信である。
腕木通信というのは、18世紀の末にフランスを中心に広まった通信方法で腕のような形をした木でできた装置を小屋の上に設置して、腕木の形を遠方から望遠鏡で観察して通信するという、手旗信号を大掛かりにしたような通信方法だ。フランスでは1793年から設置が始まり、60年後には5000Kmを超える腕木通信網ができあがったという。
腕木通信は、ナポレオンの時代に国内の情報通信に威力を発揮したという。10Km程度間隔に設けられた腕木通信基地間を決められた手順と符号で通信を行う。通信手は隣の通信基地を常に監視している。腕木に変化があったら、もう一方の基地に向けて同じ符号を発信する。このバケツリレーを日々行う訳である。想像するにこの時代の通信手はなかなか神経を使う業務だったのではないだろうか。領土を広げるナポレオンはこの腕木通信を重宝し、国内をコントロールしていたようだ。
しかし、この同じ時代には電信の開発が進められている。1832年にはモールスがモールス符号を発案し、一気に電信が普及し始める。フランスでも1845年から腕木通信を電信に切り替え始め、1855年に腕木通信は最後の通信を終える。腕木通信は60年足らずの短い歴史となった。
腕木通信は結構、ありふれた発想に思える。しかしこれを数千Kmに渡ってネットワークを実現するとなると、相当大変そうだ。つまりチカラワザの技術だ。そして、そのチカラワザをやることにしたんだから、逆に言うとこの時代に遠隔通信のニーズが急速に高まったということだろう。腕木通信は商用にはほとんで用いられなかったようなので、このニーズは国家にとっての通信ニーズということになる。その辺が興味深い。
(2009/5/10)
腕木通信については、『腕木通信 ナポレオンが見たインターネットの夜明け』(中野明/朝日選書)が、符号化、通信プロトコルのことや狼煙や手旗信号の歴史も書かれていて、とても面白い。
映画や本などでは、ドラゴン怒りの鉄拳(ブルース・リー!)などのように怒りをエネルギーとした行動を描写するものが多い。あるいは政治でも市民の怒りがどうのこうのというフレーズが良く使われる。怒りに対しては、感情移入しやすいので、怒りを題材にするのは当然と言えば当然だ。そもそも物語や政治では、利害の対立というのが、基本的な背景にある。利害の対立と正義の勝利という図式の中で、怒りがその原動力となって敵をやっつけるというストーリーだ。物語の中で怒りというものがある意味正当化されて使われている。
ところで、自分自身の過去を振り返ってみると、今までで一番腹を立てたのは忘れもしない東名高速カツサンド落下事件である。これは要するにものすごくうまそうなカツサンドを運転しながら食べようとして、手が滑ってまるごと車の床に落っことしてしまったという間抜けな出来事である。間抜けな話であり、敵は全く存在しないのだが、私はこのとき不覚にもひどく腹がたった。家族には申し訳ないが、私はしばらく非常に不機嫌に高速道路を運転し続けた。そして思い起こすと過去の怒りの中でもこの間抜けな事件のときの怒りがかなり上位にランクされるのであった。・・・というように私の場合、怒りという感情はこの程度のものなのである。だからそんなものを原動力に何かをするのはいかがなものかという気がしている。
人間は様々な感情を持っている。感情もヒトへと進化するときに外見の変化とともに長い時間をかけて進化してきたものだ。たとえば怒りという感情は、他の動物でも持っているが、照れとか誇りなどという感情は人間だけだろう。犬や猫が照れているのを私は見たことがないが、うちの犬やインコもちょっかい出すとすぐに怒る。そういう意味で怒りというのは、人間の感情の中でも原初の感情で、動物としての基本的な感情なのだろう。
怒りとは、やりたいことができないことに対する心と体の反応である。どんな聖人であろうと、食べようとしている手を突然押さえられたら(たぶん)怒るのだ。この反応は脚気の検査のように膝をたたかれれば足が跳ね上がるようなものなのだ。だから、怒りを他者のメッセージとして捉えることもできる。怒っている人を見て、ああこの人はやりたいことができないんだな、と冷静に対応することもできるはずだ。しかしである。なかなかそうはいかないのである。我々は他者の怒りに対しては、恐怖を感じたり、怒りで対抗したりしてしまう。社長が激怒したら、やはり手に汗を握ってしまうのだ。だからせめて自分はなるべく怒らないようにしようと思っている。カツサンドが落ちても笑っていられるように。。いやそれは無理か。
(2008/6/8)
とはいえ感情がいらないとかという話にはもちろんならない。感情がなくなった人間は何も決断できなくなるというし、そもそも人間が子孫を残すために有利に働いたからこそ我々の今持っている感情が残っているはず。やりたいことが阻害されたときに攻撃的になったり、興奮したりすることは、淘汰圧力に対して有利だったということだ。しかし、怒りというのは所詮やりたいことができないことへのプログラムされた反応という事実をせめて知っておきないな、と思うのである。
感情の進化については、『ココロを動かす技術、ココロを読み解く科学』(ひろたかなん/新風舎)が詳しい。怒らないことについては、『怒らないこと』(アルボムッレ・スマナサーラ/サンガ新書)がおすすめ。どんな聖人でも怒る、の記述はどっかで読んだのですが、わすれました。
自分もいつの間に50年間という時間を経験しようとしている。50年と言えば、なかなかの年月である。50年間を10回繰り返せば500年になる。500年前は戦国時代だった。そういうふうに考えると、たとえば大化の改新から50年間のバトンを28回渡すと我々までたどり着く。クラス対抗全員リレーぐらいの人数だ。100人のバトンリレーで5000年前までさかのぼることになるのだ。5000年前と言えば、シュメールで文字が発明されたころだ。いわゆる有史という時間は、100人のバトンリレーでたどり着いてしまう。こういうふうに考えると、人類5000年の歴史が意外に短いとさえ思えてしまう。
人間の歴史はそういうオーダーの時間だとすると、人類が生まれたのは、何走者前なのか。人類は700万年前に二足歩行を始めた。となると、人類が生まれて現在まで、50 年x14万回のバトンリレーとなる。これは長い。最初に歩いた人(猿?)を第1走者として、14万走者目でやっと我々になるわけだ。14万回のバトンリレーをうまく想像することができない。言葉もない時代にうまくバトンが渡せたのだろうか。画期的な石器を生み出した天才がいても、それを次の世代は受け継ぐことができたのだろうか。
しかし、言葉や文字が発明され、人間は他の人に、そして後世に情報を伝えることができるようになる。画期的な石器の作り方はきちんと受け継がれ、更に改良していくことができるようになった。そして、14万人のバトンリレーの最後の100人は、加速的に世の中を変えている。石器から始まり、ついにジェット機や携帯電話まで作り出すことができたのは、ひとえに情報を伝える技術があったからなのだ。
(2008/4/12)
ニュートンは業績を称えられて、「もし私が他の人よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからだ」と答えている。ニュートンの言葉は、先人の努力があって自分の成果があるという意味だけど、情報を伝える技術があってこそ「巨人」が育ったわけだ。ところで、その「巨人」も今やニュートンの想像を絶するものとなっているはずだ。なにしろニュートンの言葉は300年も前の話で、まだ電気もなかった時代なのだから。。
私たちは発語や内語とは別に、構文論的構造をもつ信念や欲求のような思考の存在を認めたりしますが、そのような思考過程は存在しない。構文論的構造をもつ思考を行おうとすれば発語や内語をもちいて展開していくしかない。 思考が構文論的構造をもたないとすれば、発語や内語が思考に他ならない。
『考える脳・考えない脳』(信原幸弘/講談社現代新書)
内語というのは、口に出さず頭の中で話していることを言う。思考とはそれ以外の何者でもないという。つまりこうやって書いている文章というのは、その人の思考そのものということである。
本当の彼自身とは浅薄な文章以上でも以下でもない。
『文学と自分』(小林秀雄/角川文庫)
文章にその人の考えが表れる、と言っているのではない。文章はその人の思考そのものを取り出したものと言っている。ウェブサイトやブログに何気なく文章を書いているが、実は頭の中を全世界に公開しているようなものなのだ。。
さて、言語は我々にとって、非常に重要なものである。言語のおかげで、ものを考えることができるようになったし、仲間とコミュニケーションがとれるようになった。そして、なにより、言語が生まれ、人間の脳の大きさは劇的に増大したという。
言語は250万年前に、姉妹関係にある属、ホモとパラントロプスがともにもっていた独特の行為で、そのことが彼らに更新世にくりかえされた不毛な氷期を、協力して柔軟に生きのびることを可能にさせ、彼らの脳を発達させることになったのだ。
身振りの言語は類人猿のあいだから発生し、この新しい技術が進化していくにつれて習慣的な、あるいは記号化されたものになっていった。つづいて、すでに霊長類のレパートリーの一部に「生まれながらに」そなわっていた音声シグナルが利用され発展して、入念に記号化された意思の伝達になった。それから進化圧力が、音声器官の発達を、そして身振りを制御するすぐ隣の部位の発達をうながした。この部位が、言語中枢、しばしばブローカ野と呼ばれているものである。
『人類の足跡10万年全史』(スティーブン・オッペンハイマー/草思社)
抽象的な言葉や複雑な文法を持つようになったのは、十数万年前以降の現生人類からだということだ。そして、未来や過去についても考えたり、伝えたりすることができるようになる。言語はどのように進化していったのだろうか。西垣通の『こころの情報学』によれば、ヒトは150人程度の集団においても、危険に満ち溢れた過酷な自然の中で、集団的不安を解消するために求心的なフィクションがどうしても必要となったという。その神話によってリーダーは正当性が得られ、この神話の繰り返しによって、言語能力も向上しヒト特有のこころが形成されていったのではないか、と書いている。
実は、我々もいまだに物語を欲していると思うのだけど、神話は都市伝説ぐらいしか残っていないのが残念。
(2008/4/27)
何かものをちゃんと考えたいときは、やはり文章に書いてみることが大事。内語というのは、それを文章にしてみるとわかるが、意外と適当なのだ。同じことを延々と繰り返していたりする。逆にものを考えたくないときは、言葉を浮かべなければ、ものを考えないで済む。
言葉を浮かべない方法、それはしかし難しい。「私が存在しないかのように生きるためには、現在の瞬間に集中し、浮かんでくるあらゆる思考を自由にさせてやる。過去と未来に向かっている考えをやり過ごして、現在起こっていることだけを注視する。心は対象に言葉を貼り付けようとするが、それもやり過ごす。何度もそれを繰り返すうち、世界は違って見える。もうひとつの方法は、あらゆるものに均等に注意を払うこと」(ミームマシンとしての私/スーザン・ブラックモア)などという技もある。あと田口ランディの「ピエロ男」には、言葉を閉じた男が出てくる。しかし、残念ながらその具体的方法については詳しく書かれていない。
人間の脳が、現在のような姿になったのが数十万年前。進化の過程でここまで発達してきた。その過程で、クロマニョン人などが現れたよね。たとえば、彼らの子どもを現代社会に連れて来たらどうなるだろう?ちゃんと育つかどうか。僕は育つと思う。(中略)現代の言葉を話し、むずかしい数学の計算もできるようになるはず。教え込めば株式の取引さえもできるようになるだろう。
『進化しすぎた脳』(池谷祐二/講談社ブルーバックス)
クロマニョン人は4万年前にヨーロッパに渡った現生人類で、我々の祖先だ。もう十分に我々を同じ脳を持っていたわけだ。そして、このころクロマニョン人はネアンデルタール人と共存していたらしい。
次の有名なたとえ話も1950年代に登場した。
「ネアンデルタール人が風呂に入り、ひげをそり、スーツを着てニューヨークの地下鉄に乗ったとしても、ちょっと風変わりな移民の一人として以上の関心をひくことはないだろう。」
『人類進化の700万年』(三井誠/講談社現代新書)
ネアンデルタール人は石器を使い、動物の皮をなめして身にまとっていたというが、我々の祖先ではない。60万から40万年前に現生人類と枝分かれして、独自の道を歩んだらしい。ネアンデルタール人はクロマニョン人と1万年近く共存し、3万年前に絶滅してしまった。
3万年前というと、えらい昔にも思えるが、250万年前から石器を使い、80万年前から火を使っていた人類の歴史からすればつい最近だ。だいたいその頃の我々の祖先はそんなに今の我々と変わらない体や脳を持っていたというのだ。つい最近まで人類は2種類いたけど片方が滅んでしまった、という言い方もできる。
(2008/3/30)
非アフリカ人は8万5千年前にアフリカを出た数人の父と母にたどり着くらしい。そして人類の遺伝子の多様性は、トラのそれよりも少ないという(『人類の足跡10万年全史』(スティーブン・オッペンハイマー/草思社))。たとえば上空から我々(のゴミ)を狙っているカラスは40種以上いるようで、多様性の面で1種の人類とは勝負にならない。そもそも人類は数万年前には数種いて1種類になってしまったのだから、絶滅寸前という表現をしてもおかしくない。
『シュメル』(小林登志子/中公新書)によれば、文字の始まりはトークンという2cmぐらいのいろいろな形をした粘土が起源である可能性があるという。トークンは単純は円錐や球型のものや、羊や犬、パンに似せた形をしていて、このどんぐりのような粘土を使って、穀物や家畜の数の管理をしていたらしい。トークンはブッラという粘土球の中に入れて保管されたが、ブッラの外側に、中に入れるトークンをスタンプのように押して、何が入っているかをわかるようにした。そのうち、スタンプするのではなく、押し付けた跡と同じように粘土に尖筆で書くようになって、これが絵文字の始まりだという。
このウルク古拙文字という最古の絵文字は、シュメルの有力都市ウルクで紀元前3200年ごろに生まれた。ウルク古拙文章は約1000文字が使用され、粘土板に書かれている文章のほとんどが、家畜や穀物や土地の会計簿だ。
人が最初に記録したかったのは、交易の記録だという。誰に何をいくつ渡した、というような記録だ。なぜ、記録が必要か。それは忘れてしまうからだ。これは切実な問題である。悲しいことに人間はある程度以上は記憶できない。人に伝える以前に、未来の自分に情報を伝えるために文字が発明されたとも言える。
(2008/5/25)
それにしても自分自身について言えば、もう少し記憶力があれば良かったのにとつくづく思う。。
このフランス士官の見聞記を読むと、幕末の日本の様子を生々しく感じることができる。このころの日本人の気質や生活が詳しく書いてあって、とても興味深い。礼儀正しく、好奇心旺盛で、陽気な愛すべき日本人というのがこの士官の印象だ。140年後の日本人を見たら驚くだろうな。ところで、この本でスエンソンが最初に日本に到着したときの様子を書いている。
錨が下ろされるや否や英仏伊の軍艦が横づけしてきた。各国の士官たちは舷門の階段を我れ先に走り上がり、船長を取り囲んで「戦争か平和か!」と口々に叫んだ。横浜では英仏が開戦したという噂が飛び交っていたため、みなニュースをいち早く知りたがっていたのだ。西欧列強英仏間の関係は非常に友好的、告げられ、士官たちは安心させられた。そんなこともあろうかと予測していたのか、船長は「海峡タイムズ」の最新号を甲板に張り出させてあった。たちまち士官たち、幹部候補生たちがそのまわりに輪を作り、最新の電報記事のメモをとりだした。
『江戸幕末滞在記 若き海軍士官の見た日本』
(エドゥアルド・スエンソン/長島要一・翻訳/
講談社学術文庫)
このころ、セイロンのプワント・ド・ガルという港が電信でヨーロッパと結ばれていて、郵便船がここで電報を受け取ってシンガポールに行き、そこで印刷されて各地を経由して日本に届けらていた。プワント・ド・ガルから横浜までは30日かかったとのこと。 (2008/3/22)
蒸気機関、紡績機、力織機、硫酸、塩素、ソーダ等々無機化学、加工のための工作機械、ねじ切り旋盤、溝切りフライス盤、蒸気機関車、、これらの技術すべて、イギリスで誕生。
電信機、モールス信号、電話、蓄音機、白熱電灯、刈取機、ミシン、エレベーター、そして20世紀に入って電気冷蔵庫、掃除機、20世紀の半ば、ナイロン、テレビジョン、コンピュータ、ペニシリン、原子力、ジェットエンジン、トランジスタ、がわずか10年(1938−48)の間に誕生。そのほとんどがアメリカ。
戦後、20年経た1960年代半ば頃から、電子式卓上計算機、電子ウォッチ、家庭用VTR、そして70年代後半から80年代にかけて、自動焦点カメラ、ビデオカメラ、CDなど家電製品、インクジェットプリンター、レーザープリンター、カラー複写機、液晶ディスプレーなどOA製品は日本がメイン。
『文明の技術史観』(森谷正規/中公新書)
この1960年代以降の製品を見ると、キヤノンで勤務していた自分としては、感慨深いものがある。私が入社した86年にこれらの製品はすでに世にでていたが、キヤノンはこれらのカメラやOA製品のほとんどを手がけている。そして、これらの製品には、人に何かを伝えるための機械という共通の側面が見える。80年代ではこれらの製品はまだまだ問題が多いもので、開発陣の苦労も並大抵ではなかった。
あれから20年たって、複写機やプリンタは本当に安定したなあとつくづく思う。そして、このような日本が得意とする製品群の創出も一息ついて、世の中は次のステップに移行しているのかもしれないとも思う。しかしそれはともかく、この20年間にこれらの製品が世界中に普及して、それらは日本のメーカーがメインプレーヤーであったということは誇れることだ。(2008/3/20)
上のリストにはないけれど、この頃ワープロも発売されている。私も89年ぐらいに、なんと14万円も出して、キヤノワードを買ってしまった。結局あまり使えず母に売りつけた。
最初のワープロは、1979年9月 TW-10 東芝が開発した。これは毎日新聞社がその7年前に東芝に依頼した企画だが、依頼された東芝の森氏が考えたワープロのコンセプトは、
・手書きより早く漢字かな変換入力できること
・持ち運びできる
・通信回線で伝達できること
ということで、印刷はそのコンセプトに入ってなかった。ちなみに87年10月セイコーエプソンがプリンターのない機種を発売したわけだが、それまでのワープロはすべてプリンターがついていた。
『ワープロが社会を変える』(田中良太/中公新書)
ワープロというと、「町内会旅行のお知らせ」みたいなチラシを作る場面を思い浮かべる。文章を作成して印刷して掲示したり、コピーして配るというのが、主な使い方だろう。誰かに何かを伝えるための道具だ。だから、PC&プリンタが普及するまでは、プリンタがついていないワープロなど考えられなかったはずだ。
森氏の3つのコンセプトに印刷が入ってなかったのは、毎日新聞からの依頼から始まったことが原因かもしれないが、今から思えば、テキストをデジタルデータ化することがワープロの本質的な目的だったわけで、印刷をコンセプトに入れないというのは先見の明があったかもしれない。そして、この3つのコンセプトであればPCで事足りるようになってしまい、ワープロ専用機は姿を消すことになる。(2008/3/20)
ワープロを買ったのは、読書メモみたいなのを作ってみようと思ったからだった。しばらくしてマッキントッシュの比較的低価格のものが発売され、ハイパーカードでやってみたくなり、これに乗り換え。そのうち、HTMLでいいじゃんということで、WebPageを作成。今はなんのことはない、ノートにまとめている。