第47回b 補遺・第3節 機械と充実身体。機械の種々の備給

出席者は、大田、片倉、牲川、谷岡、柳橋、四十宮、そして私、大久保の計7人でした。
議論されたのは、補遺の「欲望する諸機械における作動プログラムの総括」の後半部分でした。そのうちわたしの担当箇所は、最後の節である第三節の 「機械と充実身体:機械の諸々の備給」でした。
補遺は、全般にわたって、実際にわれわれが普段接している機械や20世紀初頭の芸術の中に見られる機械を手がかりに、『アンチ・オイディプス』の主要概念の一つである「機械」について新たに論じ直した箇所と言えると思いますが、わたしの担当箇所は、主に資本主義下における機械、ありていにいえば工場で稼動する機械をモデルにして、個人レベルではなく社会レベルにおける「機械」について再度論じた箇所でした。(by大久保)


 補遺・第3節 機械と充実身体。機械の種々の備給(pp.477-483)2002/10/17  大久保歩

 当日の配布レジュメ〔PDF〕

  ───────────────────────────

ここで当日の議論を振り返っておきます。

わたしの箇所は一番最後だったため、わたしの番が回ってきたときには
すでに疲労の空気が蔓延していて、
あまり議論は活発には行われませんでした
(早く飲み会に移行したかった私が、進行を速めたせいもありますが)。

しかし、いくつか指摘も出ましたので、備忘録程度に書き留めておきます。


まず、最初の段落で(とりわけレジュメの注1で)批判的にとりあげられていた、
マルクス的な生産力と生産関係が進化論と結び付けられる傾向について、
四十宮さんから、日本の戦前における、国家を有機体とみなす風潮との
関連が指摘されました。

これはもちろんダーウィンの進化論の影響なのですが、
わたしもこの問題に関連して、
ドゥルーズ=ガタリの社会を身体 corps として捉える考え方が、
「器官なき身体」という概念を導入することによって、
いかにそうした国家有機体説と差異を作っているか、
読み取ることが重要だろうと指摘しておきました。
ただ、国家有機体説とドゥルーズ=ガタリの社会身体論とには
共振する部分があることは否めない、とも言いましたが。


次に、プログラムの1にある「対応する correspondre 」という言葉について、
まず、柳橋さんからベンヤミンの思考と似ているところがある、
という指摘があり、
また、牲川さん(?)から、この言葉はどう意味で使われているのか、
という疑問が出されました。

牲川さんの疑問は、非常に核心を突いていたと今からすると思うのですが、
そのときはうまく答えられず、なんとなくお茶を濁すかたちに
なってしまいました。

おそらくこの「対応する」という言葉は、スピノザの平行論、心身二元論を
念頭において語られていると考えられます。
では、スピノザの平行論って何?、と問われると、
ここで展開するには重過ぎる話題で、ちょっと回避したいのですが
(修論の妨げにもなりますし)、
簡単にいえば、「精神」と「延長(とりあえず物質世界と思ってもらえれば
よいです)」が平行して活動している、という議論です。

最近このMLで話題になった『意味の論理学』に結び付けていえば、
シニフィアンとシニフィエのセリーが、あるいは言語野と視覚野・聴覚野が
「対応」しながら機能する問題だ、とも言い換えることができます。

スピノザの場合は、この平行を保証するのは、神=世界なのですが、
ドゥルーズ=ガタリはこの理論構造をそのまま自分たちの問題に当てはめ、
欲望する機械と技術社会機械が「対応」し平行するのは、
彼らの議論において神=世界の位置を占める、器官なき身体や充実身体が
存在するからだ、と考えているのでしょう。
これはわたしが注をつけた「実在的区別」に関連する問題でもあります。
今回レジュメを送るにあたって、その注をさらにパワーアップしましたので、
興味のある方はご覧になってください。

ドゥルーズの解釈によるスピノザの平行論について詳しく知りたい方は、
ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』を参照してください。
お手軽に知りたい方は、彼の『スピノザ 実践の哲学』がお薦めです
(ただ、こちらでは平行論についてあまり詳しく展開されてはいません)。


次に、『アンチ・オイディプス』本文から離れますが、
わたしが「実在的区別」に関して付けた注について、
四十宮さんからヘーゲル的な事物の捉え方(Aと非Aといったような)と
スピノザの考え方はどう異なるのか、疑問が出されました。

ただ、その場では四十宮さんの質問の主旨をとらえそこない、
内在と超越の問題や、他者問題へ話をずらしてしまいました。
そのためにそのあと、四十宮さんと二人で、他の方々をそっちのけで
他者問題について熱く語り合うことになってしまいました
(すいませんでした)。

今ここで四十宮さんの質問の趣旨に沿ってお応えしたいところですが、
なにぶん時間がないもので、これまた議論を展開するのは避けておきます。
簡単にいえば、ドゥルーズがヘーゲルを批判する時の論点は、
まず、ヘーゲルは差異を絶対的なものとして捉えるため、
「主人と奴隷の弁証法」に見られるように、差異が「対立」に変質しまう、
という点と、
次に、Aと非A、あるいは「止揚」に見られるように、
すでに同一性を前提として差異を考えている、という点のふたつが
主なものです。
詳しくはドゥルーズの『差異と反復』第一章を見てください。
今言ったような観点で、正面からヘーゲルを批判しています。


最後に、プログラムの4において、20世紀初頭の機械をめぐる芸術運動が
四つ挙げられていることについて、
四十宮さんから、アメリカがまったく触れられていない、
との指摘がありました。
またそこから展開して、同時代の日本においても
アメリカを対象とする言説が欠落していた、との話がありました。

ただ、これについては、この当時のアメリカには、
確かに、(四十宮さんの言うような)ルーズベルトによる
ニューディール政策や、(柳橋さんの言うような)フォードの工場が
あったとはいえ、未来派やダダイストに対応するような芸術運動が
単になかったから、ドゥルーズ=ガタリは取り上げなかったのではないか、
という意見をわたしから述べておきました
(それともバスター・キートンひとりがアメリカを担っているのでしょうか?)。


当日の議論については以上です。


DGDトップページへ

塩田研究室・自主ゼミのページへ

Copyright (c) 2001-2002 Ohkubo Ayumu.
All Rights Reserved.