第4回 第1章・第5節 欲望する諸機械
世話人は今回欠席しましたが、発表者石村さんによると、「7月6日の読書会に参加された方は、柳橋さん、太田Tさん、太田Kさん、里村さん、伊藤さん、そしてわたくし、石村」だったとのことです。伊藤さんが新たに参加してくださることになりました。ドイツ文学専攻の方です。


  第1章・第5節 欲望する諸機械                      文責:石村洋介


  まず、読んで見て思ったのは、あたりまえかも知れませんが、ソシュールの理論にすごく
  似ているな、ということです。そのため、ずっとソシュールの理論を念頭にして読んでし
  まいました。ただ、第一様式と第二様式はそれぞれパロールとラングっぽいなとおもった
  のですが第三様式がいまいちよくイメージできませんでした。ソシュールの理論を大雑把
  にまとめてみます。人間の言語にはラングとパロールがあり、ラングは人類共通の言語体
  系で、さらにランが―ジュという“ことばをしゃべる能力”についての概念もあります。
  パロールはラングが発現されたもののことです。パロールは具体的な言語、日本語とか英
  語とかと考えていいとおもいます。ラングに関しては,パロールを根っこのところで支え
  る規則ということでどうでしょう。ランが―ジュは、チンパンジーはランが―ジュをもっ
  ていないから、いくら言葉をおしえてもしゃべれないという風な感じのものです。この考
  えの欠点は、パロールが何故、変化するのかがとらえられない点です。
  ―切断の第一様式   私が勝手にパロール的だとおもった、このドゥルーズ=ガタリのシステムはソシュールの   それと違ってすごく動態的なモデルにみえます。動態的にパロールをとらえようとしたと   きに登場するのが、切断と連続という関係のように思われます。「つまり、機械が流れの   切断を生産するのは、この機械が第二の他の機械に接続されている限りにおいてのみであ   る。」(一部略 p.51 下段)、「したがって、横断的接続あるいは超限的接続の極限に   おいて、部分対象と連続的流れ、切断といったものが一体となっているのである。」   (p.52 上段)という文をみる限りでは、一対一という関係のときのみ切断という現象が   とらえられるのにたいし、一対多となったときは<流れ―切断>としてのみとらえられる   ということなのでしょう。さらにこの<流れ―切断>から欲望が生起し、この機械は再生   産活動を繰り返していくみたいです。かなり間違っているかもしれませんが、諸機械の関   係というのは、ミクロ的にみれば切断されているんだけれどもマクロ的にみると連続して   いるということなのでしょうか。何故、このような生産活動がおこなわれるのかは、“器   官なき身体”と関連があるみたいですが、よくわかりませんでした。   ―切断の第二様式   私が勝手にラング的だとおもった、このシステムもすごく動態的なものにみえます。わた   しはコードをラングとほぼ同じものと考えて読んでみました(コード≒ラング)。ただ、   ソシュールのラングとドゥルーズ=ガタリのコードの違いは、ラングはパロールから影響   をうけないのに対し(いろいろ説があるみたいですが、わたしはソシュールはそこまで考   えなかったとみなしています)、コードは諸機械によっておもいっきり影響をうけていま   す。   「流れの構造を規定するコードの中に断片的な離脱が生起しない限り、いかにして流れに   対する部分的な採取が存在しえようか。」(p.55 上段)、「社会のコードのなかにおい   ては《専制君主シニフィアン》が種々の連鎖をすべて打ち砕き、これらを非多岐的な線形   状に整理して、記号と意味とを一対一に対応させ、それぞれの煉瓦をそれだけの数の不動   の要素として用いて、秦帝国の長城を築きあげている。ところが、分裂者は、常に、これ   らの煉瓦を離脱させ、抜き取り、あらゆる方向に運び去って、欲望のコードという新しい   多義性を取り戻すのである。」(p.55 下段)、「煉瓦は、欲望する諸機械の本質的な部   分である。つまり、<構成部分>であるとともに、同時に<分解の産物>でもある。」   (p55 下段)という種々の文面にその点をすごく感じます。また、このコードのなかにお   ける記号(機械≒記号?)は、ソシュールにおける記号とは違い、非常に無秩序な、つま   り偶然性の強い動きをするようです。また、この記号は、他の連鎖の断片から剰余価値を   引き出すともいってます。つまり、他の連鎖によって使われた残りの部分を搾取するとい   うことでしょうか(剰余価値については最後にマルクス経済学としてまとめてみました)。   となると、完全にまるごと相互依存する関係というのではなく、部分々々、依存しあう不   安定な関係が築き上げられることになります。「それは、奇妙にも多義的で、決して記号   と意味とが一対一の対応関係をもたず、線形的でない多岐的なエクリチュ―ルである。」   (p54 下段)。エクリチュ―ルというものは(エクリチュ―ルの意味がよくわかりません、   どなたか教えてください)、どうも非線形的ですごく恣意的な関係をもっているようです。   非線形的で恣意的ということは、偶然性が非常に高い関係ということでしょう。この確率   の世界にすむエクリチュ―ルによって、コードは常に生成流転している、そんな印象を私   はうけたのですがどうでしょうか。   *今日の発表でしったところでは、エクリチュ―ルとはシニフィアンのうちの書かれたも   ののみをさされたものらしいです(違ってたらごめんなさい)。エクリチュ―ル ⊂ シニ   フィアンということでしょうか。   ―切断の第三様式   「他の二つの切断〔<採取・切断>と<離脱・切断>〕と同じく、主体を生ずる切断があら   わにしているものは欠如ではない。そうではなくて逆に、取り分として主体に帰属する部   分であり、残余として主体に帰属する収入である。」(p.56 下段)。ここもソシュール   が記号の存在を負の要素、つまり他の記号との差異としてとらえていたのとは逆に、生の   要素として、つまり他の記号との総合的生産としてとらえています。   以下、ドゥルーズ=ガタリにそって三様式をまとめると…(p.57 上段)   第一様式:接続的綜合にかかわり、リビドーを採取のエネルギーとして動員する。   第二様式:離接的綜合にかかわり、《ヌーメン》を離脱のエネルギーとして動員する。   第三様式:連接的綜合にかかわり、《ヴォルプタス》を残余のエネルギーとして動員する。   こうして三様式にのっとることで、欲望する生産の進行が同時に生産の手段であり、登録   の生産であり、また消費の生産でありうるみたいです。ここで勝手に私流に解釈してみる   と、諸機械というのは接続と離脱を繰り返しながら剰余エネルギーを生み出し、その剰余   エネルギーを次の生産活動に振り向けるということでしょうか。   ―マルクスの経済学   マルクスの経済学の特徴は、次の二点。まず経済を歴史的過程としてとらえたこと。次に   剰余価値と搾取と言う概念をもちいて資本主義経済に内在する生産様式に関する矛盾を明   らかにしようとした点です。本節でも何度か使用されていた剰余価値とは、商品としての   労働力のうち賃金部分を差し引いた残りの部分のことを指します。この剰余価値の部分を   資本家が搾取して再生産活動に使うために資本主義にはさまざまな機能不全が起こるの   だ、とマルクスは述べています。細かく分けると単純再生産(資本家の個人的消費)と拡   大再生産(次の生産活動のための消費)というふうにわけられ、拡大再生産のほうに問題   があるんだというふうになっていきますが、よくわからないので省きます。ともかく、商   品の価値が投下された労働量に比例するという前提(労働価値説)のもとで、その投下さ   れた労働量の賃金部分を支払った残り(剰余価値)を資本家が搾取するということです。   さらに、資本の目的が蓄積することにあるとした場合、資本は最大限、剰余価値(≒利潤)   をおおくしようとしますから、労働者の賃金は可能な限り押し下げられることになります。   この考えにリカードの利潤率低減の法則を適用したとき、マルクス独特の革命理論が生ま   れます。リカードによれば長期的にみて利潤率は低下する傾向にあります。なぜなら、資   本の蓄積が続くと、土地の値段が相対的に希少となり、地代が上昇するからです。地代が   上昇するとそれに反して利潤率は低下します。そうすると利潤を増大させようとする資本   はなんとかして利潤の低下に対処しようとします。労働管理の強化・賃金の引き下げなど   を通しなんとか利潤の低下を防ごうとしますが、それでも利潤率は下がりつづけます。そ   の状態が続くと階級間の対立が激しくなり、ついには革命がおこるというのがマルクスの   考えでした。マルクス経済学をささえている前提は次の三つです。資本の目的は蓄積する   ことである。労働の投下量によって商品の価値が決まる。利潤率は長期的にみて低減する   傾向にある。よく分かりませんが、労働の投下量によって商品の価値が決まるという前提     は現在の経済学では否定的に見られています。

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