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1 哲学は全ての存在を規定してきた。≪cogito≫によって醸し出された意味――それはル ーマンが述べているように「体験加工の形式」だと捉えることが妥当であるかもしれない、 なぜならそこでいう意味は否定されたものを維持しつづける同一性であると考えられるか らである―――は、それ自体において様々な命題を提出し、多様な解釈を与え、あらゆる 状況に対する解決を模索する糸口を吐き出してきたのである。プラトン、アリストテレス からデカルト、ライプニッツ、ヘーゲルへと至る西欧哲学史においてこうした命題におけ る同一的なものと否定的なもの、同一性と矛盾は自明であるように考えられていた。とり わけ、そうしたもの全ての根源である存在そのものに関しては疑う余地もなく、ただそこ に「在る」と夢想されてきたのである。≪理念(idée)≫にしても、≪cogito≫にしても、 ≪同一性≫にしても、≪矛盾≫にしても、≪自然≫にしても、≪魂≫にしても、全てはた だそこに「在る」という形式によって命題化されてきたのだ。そしてそれらの諸観念は表 象=再現前化作用(représentation)によって哲学の命題となり多様な解釈を放出してき たのである。 だが、今やその同一性の基盤そのものを疑うべき時がやってきた。それは『差異と反復』 によれば、以下のような時代の雰囲気のなかで形成されてきた。すなわち、ハイデガーが 存在論的≪差異≫の哲学にますます強く定位しようとしていること、つぎに構造主義の活 動が或る共存の空間における差異的=微分的(différentiel)な諸特徴の配分に基づいて いること、さらに現代小説という芸術がそのもっとも抽象的な省察ばかりでなくその実際 的な技法においても差異と反復をめぐって動いていること、最後に無意識の、言語の、そ して芸術の力でもあろうような反復本来の力(puissance)があらゆる種類の分野におい て発見されていること。同一的なものと否定的なもの、同一性と矛盾は今や、反ヘーゲル 主義的な意味で、≪差異≫と≪反復≫に取って代わったのである。存在はもはやたんなる 「存在」でもなく「否―存在」でもなく、「(非)―存在」であり、「?−存在」へと代わ っていったのである。『精神現象学』における「傍観者たる私たち」の存在そのものを疑 うこと、デカルトの≪我在り≫に疑問を付きつけること、スピノザの≪実体≫という概念 をその根源から破壊すること、カントの理性的神学批判自体を批判の対象におくこと。ド ゥルーズは言う。「ライプニッツに劣らずヘーゲルも、消去そのものの無限な運動を、す なわち、差異が消去されもすればまた生産されもする契機を重要視しているのだが、それ がどの点で重要視されるのかは、以上のように考えてみれば明らかになるだろう。まさに 限界(極限)という基礎概念そのものが、まったく意味を変えるのである」(79頁)、と。 ≪理念(idée)≫がそれ自身の秩序を保つ為には、それ自身が普遍的な自己同一性を保 たなければならない。『差異と反復』においてドゥルーズはそうした西欧哲学史の根本原 理を、生物学、普遍数学、永遠回帰、精神分析などのあらゆる概念を用いて根底から覆し 伝統思考からの解放を主張する。≪cogito≫において表明されていること、無意識の段階 でそこに表れていること、そこにおける根源的な≪同一性≫、それこそが≪我在り≫とい う主体の存在そのものであるが、われわれはその≪我在り≫という事象そのものを疑いう る時代の雰囲気に内在しているのである。それは例えば文学理論の成果―――いうまでも なくそれもまた構造主義のひとつの帰結に他ならぬが―――に比することもできよう。些 か話は縮小化してしまうが、文学理論においては作品内にもはや統一的あるいは普遍的な 作者の思想、思考は残存しておらず、読者がテクストの精読を通じてそれぞれの意味を抽 出していくしかないと考えられている。そう、作者の思想・思考(同一性)の基盤は解体 され破壊れ失われ、各々の読者がテクストに意味を見出していく行為(差異と反復)へと 取って代わられたのである。 2 難解で、困難で、複雑で、奇怪で、強靭で、しばしば非常に過大な苦痛さえ感じるこの 書物は1968年にフランスにおいて出版された。訳者の財津理は「解説にかえて」でこう述 べている。「『差異と反復』はカントにおける『純粋理性批判』に対応するように思えて ならない、そして、たいへんゆるい関係においてではあるが、『アンチ・オイディプス』と 『ミル・プラトー』が『実践理性批判』に、『シネマ』と『感覚の論理』が『判断力批判』 に対応するようにも思われる」(523頁)。『アンチ・オイディプス』が『実践理性批判』 の前半に対応するならば、ドゥルーズを理解する上でこの『差異と反復』は避けては通れ ぬ書物で あろう。だが「難解」という言葉では到底表現しきれないほどのこの書物を 「理解」することなどドゥルーズ自身求めていなかったのかもしれない。財津は別の箇所 でこうも述べている。「ドゥルーズの著作を読むことは、西欧的な伝統の外部にある私た ちにとっても、ディズニーランドで遊ぶ以上の意味を持っているわけである。……『差異 と反復』を読むことはまるでディズニーランドで遊ぶことだといってよいだろう。いやむ しろ、『差異と反復』の中で自分自身の玩具を作り、独創的な遊びを実践することが要求 されているのである」(同頁)。困惑において問いを立てることが知の出発点であるなら、 これほど謎に満ちた知のファンタジーランドは他に類を見ないのである。先の文学理論の 例において、われわれは今、差異と反復によって各々読者がテクストに意味を見出してい くような時代の雰囲気に生きていると述べたが、この書物そのものがそうした行為を読者 に求めているのかもしれない。 訳者によるとジラールはこの書物の本質をこう述べているらしい。「今日、差異の思想 が存在しており、その典型的な論旨はドゥルーズの『差異と反復』によって与えられてい る。……同一性を含まない純粋差異の思想は、いくつかの神話的な同一性から、すなわち、 主体、神、ヘーゲル的精神の自己同一性から抜け出そうと強く望み、また実際に抜け出し ている。……ドゥルーズは、あらゆる同一性を、また同一性という原理そのものを投げ捨 てることによって、<西欧形而上学>からの開放を主張する」(516頁)。これがこの巨大 な書物の大まかな全貌であるが、では≪差異≫と≪反復≫は如何にして≪同一性≫から抜 け出していったのか? あるいはドゥルーズはどのような方法を用いて≪理念(idée)≫ や≪cogito≫や≪同一性≫などといった伝統的概念を破壊していったのか? こうした問いに答えるのは容易ではないし、それ以上にむしろこの書物自身がその解答 を拒んでいるようにさえも思えるのでここでは触れないことにする。まさに各々読者がそ の解答と戯れて遊んでいくしかないのであろうが、ひとつだけ私個人の主観的な見解を述 べたい。 大澤真幸の『行為の代数学』がこうした問題を解くためのヒントとなるように思える。 スペンサー・ブラウンの算法を用いて、存在者の自己言及パラドックスを、全ての認識・行 為の条件として捉えなおすことに成功したこの書物は、限りなくポスト構造主義に近い社 会システム論を展開したと言えるであろう。『行為の代数学』において基本的だが重大な 論点は以下のような思想である。すなわち、存在者の存在はある観測者による指し示しに よって確定する、これである。宇宙(もっとも広い空間という意味での)は、その始まり においてカオスであり、全てが同一であった。そこに存在者が存在する為には、われわれ は指し示しをしなければならない。そして指し示しはただ空間に区別=差異(distinction) を設定することによってのみ、その対象を同定することが出来るのである。 この方法を用いれば存在者の自己言及のパラドックスを回避出来るのであるが、ここで あの≪cogito≫を想定してみたい。一見すると≪cogito≫にパラドックスは存在しない。 だがドゥルーズが『差異と反復』で論じたことは、その「パラドックスは存在しない」と 言い得る基盤そのもの、つまり存在者の存在が疑いえないことそれ自体であった。そこに は西欧の忌々しき哲学的伝統を誇る≪同一性≫という基盤があるのだ。ところで大澤の議 論はこうであった。存在者はそれ自体では存在できない、存在者が存在する為には空間を 指し示しによって区別=差異化する必要がある。この考え方こそ≪我在り≫の存在そのも のを≪差異≫によって規定する方法ではないだろうか。実際大澤はその参考文献で『差異 と反復』を挙げているが、ジラールの言うようにこうした「差異の思想」の源流にはやは りドゥルーズの『差異と反復』が存在していると考えられるであろう。 興味深いことは、『行為の代数学』の終結、さらにはスペンサー・ブラウンの著作の結 論においても「以下同様(and so on)」という記述が見られることである。大澤はこう述 べている。「実践は、どこを目指すというのでもなく、ただ継続するのである。個々の部 分的な実践に終止符を打つ任意の営みも、また、このような実践の本質的な継続性を追認 する一方法でしかない。つまり、それは、終結という名前の継続の仕方なのである。任意 の終結の宣言は、だから、実践の本質的な継続生徒の間に一種の軋轢を残しながら、遂行 される。そして、終結は、それが招きよせる新たな継続への準備でもある」(228頁)。 もちろん適当な推論による断定は避けねばならないが、もし、ここでいう「実践」が哲学 的な意味に使われたとしたら、ドゥルーズのいう≪反復≫ということになるのではないだ ろうか。つまり実践は指し示し(区別=差異)を通じて、以下同様(反復)に行わなけれ ばいけない、と。 3 以上のように『差異と反復』の、ほんの表面的な浅い浅い内容に触れたが、その真の意 味を紡ぎ出そうとすれば―――もしそのようなものがあるならば―――到底このようなス ペースでは語りえぬし、それよりもむしろ私自身の能力がそれを不可能なものにしている ので、以下では補足的な説明をするに留めたい。まずは参考までに『差異と反復』の構成 (目次)を掲載しておく。 はじめに 序論:反復と差異 第1章:それ自身における差異 第2章:それ自身へ向かう反復 第3章:思考のイマージュ 第4章:差異の理念的総合 第5章:感覚されうるものの非対称的総合 結論:差異と反復 この美しい構成はそれ自体がまさにディズニーランドのようにわれわれを惹きつけて止 まない。書き記すべきことは無限に近いほどあるため、いちいち書くことは出来ないが、 結論の「差異と反復」について少しだけ述べてみよう。 ドゥルーズは結論のほぼ全体に渡ってニーチェの唱えた「永遠回帰」について述べてい る。おそらく、常に差異を含んだ反復、それこそ永遠回帰に他ならないであろう。ドゥル ーズはこう述べる。「<全てが等しい>と<全てが環帰する>は、差異の極限的な尖端に 達するときにしか言われえない。幾千もの声を持つ多様なものの全体の為のただ一つの同 じ声、全ての水滴の為のただ一つの同じ≪大洋≫、すべての存在者のための≪存在≫のた だ一つのどよめき」(450頁)。こうして『差異と反復』は幕を閉じるのであるが、それは 同時に幕開けでもある。「はじめに」で描かれていたようにこの書物自体が「差異の極限 的な尖端に達」しているのであり、そうであるならば<全ては環帰する>のだ。そして、 そこには、そう、≪差異≫と≪反復≫が内在されているのである。 最後にフロイトとの関係を少しだけ触れておく。『アンチ・オイディプス』においては フロイトの無意識の理論が徹底的に批判されるのであるが、この書物ではむしろ肯定的に 扱われている。以下、先の財津の「解説にかえて」からの引用である。「フロイトによれ ば、人間の行動は、一般に、覚醒時の理性や意志によって導かれるように思われているが、 実は、自覚されていない心の動き、すなわち無意識によって影響されている。無意識の底 には、リビドーが存在しており、これが、同一性や類似の法則に従わないで、まるで幼虫 から蝶に変態するように発達していく。…外的な拒否にあって満足させられないと、リビ ドーは、退化し、以前固着していた段階に戻り、そこで快感を得ようとする。ところが、 強大な自我が既に形成されてしまっていると、リビドーの快感追及とその自我による道徳 的拒否がぶつかり合って葛藤を起す。その葛藤の暫定的な解決策が、他ならぬノイローゼ であり、葛藤を起さないものは性的倒錯者になる」(518頁)。この引用の前半部分、つ まり無意識における反復といった現象は、西欧哲学史の存在規定(同一性や類似の法則) を覆すものとしてドゥルーズによって肯定的に扱われているのであるが、後半部分、つま りフロイトが葛藤の解決策をノイローゼにおいている点は、『アンチ・オイディプス』に おいて徹底的に批判されることになる。その批判内容の詳細は次作を見なければ解らない が、少なくともここで言えることは、ドゥルーズとガタリの立場がノイローゼよりも精神 分裂病的現象を重要視しているということである。 哲学は全ての存在を規定してきた。だが、それは、たった一つの現象だけ規定しなかっ た。それこそ哲学の存在そのものであったのである。われわれは今や、≪差異≫と≪反復 ≫という概念によって、そうした「〜そのもの」などといった一見すると言葉遊びのよう にも思える存在基盤を、疑い、時には敵視さえしうる時代の雰囲気の中に在るのである。 |
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