Deleuze & Guattari "Mille Plateaux":ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』

強度について

以前読書会でとりまとめをさせていただいた牲川です。メールで 「よろしければ「強度」という概念はどんな意味を持つのか教えていただけないでしょうか。」 と質問が来ました。

私の中では,強度とは,グラフ化できるような数値変化ではなく(言い換えると,あるX値に対して特定のY値があるというような,階段状の数値変化ではなく),もっとなだらかで連続的に変化する,極小のつぶつぶ状の粒子の濃度といった感じなのですが,いかがでしょうか。映像が浮かぶので,私の中では納得いっているのですが,うまくことばで表現できません。

できればどなかた,説明していただけないでしょうか。

牲川

大久保より返信

さて,「強度とは何か?」という問いは,ドゥルーズやD&Gを読む上で避けて通れない問いですね。これまでもいろいろな方から質問を受けてきましたが,今回はできるだけ端的に答えてみたいと思います。

強度に関するドゥルーズの重要なテクストのひとつとして,『差異と反復』の第5章「感覚されうるものの非対称的綜合」が挙げられます。そこでドゥルーズは「『強度の差異』という表現は同語反復だ」と述べたうえで,「強度とは,感覚されうるものの理由としての,差異の形式である」と述べています。つまり,まず,強度とは差異である,と考えることができます。

具体的に考えてみましょう。

たとえば,われわれが一枚の白い紙の上に一本の黒い線を認めるとき,それを可能にしているのは,白と黒の色の差異です。つまり,白と黒のあいだの差異=強度が,「一本の黒い線」というわれわれの知覚を可能にしているわけです。したがって,差異=強度によって,われわれに経験的データが最初に「与えられ」るのであり,差異=強度は知覚を可能にするものだといえます。

ここで注意すべきことがあります。

われわれの知覚は,「質」と「量」によって,すなわち「内包量」と「外延量」によって成立しています。先ほどの「一本の黒い線」の例でいえば,黒色が「内包量」に,線の長さが「外延量」にあたります。多くの場合,この「内包量」を「強度」と取り違えがちです。たとえば,黒色が濃ければ濃いほど,「強度が強い」と言うように。

しかし,先ほどのテクストでドゥルーズが明らかにしようとしているのは,われわれが「知覚だ」と思っているものが,実は,すでに知性によって強度が「内包量」と「外延量」へと展開されたものであって,強度そのものではないということです。つまり,先ほど述べたように,強度は「知覚を可能にするもの」であって,知覚そのものではないのです。

「一本の黒い線」を知覚するとき,すでにわれわれは,長さや太さといった外延量と,黒さという内包量とを,知性によって計算し,構成しているのです。

ドゥルーズは差異のことを,「フェノメノンに最も近いヌーメノン」だとも言っています。これはおそらくカントを意識した言葉遣いで,フェノメノン=現象に最も肉薄したヌーメノン=知性的なものとして差異=強度を提示しています。つまり,われわれの感覚に何ものかが現れるときに,その「理由」として存在するものと想定される何らかの知性的なもの,したがって知覚できず想定することしかできないもの,それが差異=強度です。他の場所で強度のことが「深み」と呼ばれているのもおそらくそのためです。

強度についてのより詳しい説明は,先ほどの「感覚されうるものの非対称的綜合」に記されているのでそちらを参照してください。

このように強度を想定することによって,どのような帰結がわれわれの思考にもたらされるのかは,『差異と反復』や『アンチ・オイディプス』,『千のプラトー』などを読んでいただくしかありませんね。

こんなところでしょうか。実は,この夏の『純理』読書会や,そのあと一人でザロモン・マイモンの著作を読んだことによって,ドゥルーズの「強度」がずいぶん明確につかめるようになりました。マイモンに関してはまた機会があれば簡単に紹介したいと思います。 ――大久保

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