D&G研究会D&G研究会

D&G(ドゥルーズ&ガタリ)研究会は,早稲田近辺で開催する読書会を活動の中心とした,てんでんばらばらの参加者による,自由気ままな集まりです。

Googlin' inside

S. フロイト『精神分析入門』読書会

△ 総目次

ご案内

さて、この会の継続はともかく決まったわけですが、問題は次に扱う本です。前回また新たにさまざまな意見が出て(D&G『カフカ』、同じく『哲学とは何か』等々)、収拾がつかない状況になってきました。ここは世話人たるわたくしが、「男らしく 」決断したいと思います(もちろん冗談です)。

ここしばらくD&Gを読んできたので、しばらく彼らから離れて「古典」を読むのが勉強のためにも精神のためにも(飽きますからね)一番よいのでは、と思います。そこで、当初の予定通りフロイトを読むことを提案したいと思います。やはりラカンやD&Gを理解するには、もっと大きく言えば、20世紀後半の思想を理解するには、フロイトは「必修」です。避けては通れません。しかし、読む本としては、『夢判断』ではなく、『精神分析入門』を提案したいと思います。

なぜ『精神分析入門』かといえば、やはり『入門』と銘打っているだけあって、精神分析の概略がこれを読むことによってつかめるからです。また本書の三分の一程度は『夢判断』の内容と重なっているので、『夢判断』のダイジェスト版としてもちょうどよいと思います。これを一冊読めば、あとはみなさんが興味の向くまま、各々フロイトの他の著作にあたっていけるでしょう。

というわけで、次に読む本として『精神分析入門』を提案します。特に強い異論がない限り、これで決定とさせていただきます。使う版は、特にこだわりませんが、先にあげた新潮文庫版は、2004年に改訳されていますし、入手しやすいので、お薦めです。一応これを標準テクストとしたいと思います(『精神分析入門』であればどの版でも構いません。いくつか版があるので、みなさんお手持ちの版、あるいはお好みの版で参加してください)。

栄えある第一回は2月16日を予定しています。

カントのときと同様に、今回も「読み通す」ことに主眼を置きたいので、ごくごくラフなレジュメで構わないと思います。また、フロイトの場合、カントと異なり、具体例(症例)が多いので、フロイトの主張だけをまとめるのは簡単だと思います。

第一講の「序論」は僕が導入がてら口レジュメするとして、第二講から第四講までの「錯誤行為」(版によっては「しくじり行為」と訳したりもしています)をできれば次回一気に扱いたいと思います。無理でもせめて第三講まではいきたいところです。

日時  : 2月16日(木曜日) 18時-21時
集合場所: 早稲田大学戸山キャンパス正門
集合時間: 18時
場所  : 早稲田大学 学生会館 E439
テクスト: ジグムント・フロイト、『精神分析入門』上巻
      (高橋義孝・下坂幸三訳、新潮文庫、1999年(改訳版))
範囲  : 第二講「錯誤行為」-第四講「錯誤行為(結び)」26-106頁
お問合せ: 参加資格・参加料金はございません。
      ご不明な点はayumu-o@bf7.so-net.ne.jp(大久保)
      までお問い合わせ下さい。

第一講「序論」については僕の方で導入として簡単に注意点を補足する程度に留めて、第二講から本格的に読みたいと思います。それでもかなりのページ数になりますので、次回でこの範囲が終わらない可能性もあります。しかし、この本はもともと講義を文章に起こしたものですので、読みやすいですし、ほとんどの部分が実例から構成されていますので、読み通すのはそれほど苦労しないと思います。

進め方については次回また改めて参加者のみなさんと相談したいと思います。

『精神分析入門』を読むことで、精神分析とはいかなる知的運動なのか(あえて「医学」と呼ぶのを保留しますが)、漠然とながらもイメージがみなさんに伝わればそれでよいと思っています。さまざま批判はあるとはいえ、やはり20世紀の知(とくに人文系の)にとってフロイトは無視しえない存在です。

と、大上段に振りかぶらなくても、単に読み物としても面白いと思います。それに、「錯誤行為」の分析などは日常生活に応用可能ですよ。

最近『千のプラトー』の会には参加していなかったけれど、フロイトならば読みたいという方ももちろん大歓迎です。ぜひぜひご参加ください。 ――大久保

△ 先頭へ

第1回

日時  : 3月2日(木曜日) 18時-21時
場所  : 早稲田大学 大久保キャンパス
      51号館3階7号室
テクスト: ジグムント・フロイト、『精神分析入門』上巻
      (高橋義孝・下坂幸三訳、新潮文庫、1999年(改訳版))
範囲  : 第二部 夢
      第5講「種々の難点と最初のアプローチ」
      -第11講「夢の作業」
      108-253頁

さて、去る2月16日からフロイトの『精神分析入門』を読み始めました。

会の最初に、「序論」をまとめながら、僕の方からフロイトの精神分析理論やその運動の特徴を簡単に報告しました。

ちなみに、当日僕がうろ覚えながら挙げたフロイトの三つの仮説(力動的、局所論的、経済論的)は、いま事典で確認したところ、やはり正しかったようです。ネット上で簡潔にまとまっているのはこちら(フロイトの精神分析理論)

次に、発表者である清水さんが、「錯誤行為」の範囲を簡潔にまとめてくれました。しかし、このフロイトの理論を覚えてしまうと、発表中に言い間違えるたびに「あ、錯誤行為だ」「あ、葛藤があるんだ」なんていう指摘が飛び交い、やりにくくてしょうがないですね。

前回から吉田さんの紹介で新たに参加してくださった、磯野さんからは、患者の抵抗に関して、「これでは分析者の解釈が必ず正しいことになるのでは」という、精神分析の核心に向けられた疑念が出されました。これについては僕のほうから、カール・ポパーの「反証可能性」の概念と関連づけて、科学とは異なる精神分析の運動の特徴を簡潔に指摘しておきました。つまり、精神分析では分析家と患者という、転移を伴う他者関係が前提されているということです。この問題は精神分析を考える上で最も重要なもののひとつだと思うので、今後も読解を進める上でつねに関心を払っていきたいと思います。ちなみに、Wikipediaの精神分析の項目では、ちゃんとポパーに触れてありますね。

磯野さんは、フロイトがすべてを性的なものに還元してしまうことにも疑念を出されていましたが(これもつねにフロイトに突きつけられてきた批判です)、これも先ほどの他者関係と結び付けて考えることがひとつのヒントになるのではないでしょうか。なぜなら、エロティックな関係とは、つねに他者に関わるからです。

磯野さんは、吉田さんと同じく、医療人類学を専攻されているそうです。また、前回は何年かぶりに、中川さんが参加してくださいました。まったく変わっていらっしゃらなかったので、何の違和感もないのが逆に不思議でしたね。中川さんもどうぞ今後もお付き合いください。

次回は「夢」の分析理論へと移ります。有名な「夢作業Dreamwork-Traumarbeit」概念が扱われる範囲までたどり着こうと思います。

かなり長い範囲になりますが、具体的な夢の話にはあまり触れず、理論的枠組みだけ取り出していきますので、何とか時間内に終われるでしょう。参加する皆さんにはご負担をかけますが、皆さんもどうぞ飛ばし読み・斜め読みをうまく活用してください。 ――大久保

△ 先頭へ

第2回

前回、3月2日の会は、真鍋さんの力技レジュメにより、夢に関わる講(第5-15講)を一気に読んでしまいました。一挙に進めたのはよかったのですが、予告した範囲と違ったため、第12講以降はほとんどの方が読んでいない状態で、いまひとつ議論が深まらなかった感があります。また、どちらかというと真鍋さんが導入したラカンの理論の方にみなさんの注意がいってしまった気もします。

今後読み進めていけばわかりますが、夢の解釈の部分は神経症を分析する際の道具立てをあらかじめ用意するところでもあるので、非常に重要です。できれば次回もう一度簡単に振り返りたいと思います。みなさんも第12-15講にさっと目を通しておいて下さい。

前回の議論は専ら「精神分析は科学であるのか?」という問いを巡ったものになりました。特に、前回から参加されたねもとさんがこの問いにこだわっていらっしゃったようで、的確に引用部分を挙げながら、議論を導いてくれました。

ねもとさんが注目されていたのは、精神分析を科学たらしめようとしているフロイトの意図でした。確かに、フロイト自身は精神分析が単なる思弁ではなく、経験的な事実にもとづいた「科学」(ドイツ語ではWissenschaft。ただたんに「学・学問」と訳す場合もある単語です)であることをつねに強調しています。しかし、問題は、そうした意図の元に出発した精神分析が、果たしていわゆる「科学」と本当に同じ特徴を備えているか、ということだと思います。念のため断っておきますが、「科学」であるのかないのかという問いに、僕は特に価値判断を含めていません。別に、「科学」であればえらい、といったことではありません。ただ、「科学」と対照することによって、精神分析の特異性がより浮かび上がるであろうというだけです。今後もこの問題は折に触れて議論していきたいと思います。

さて、そのねもとさんは、設備管理のお仕事の合間を縫って、読書会に参加してくださいました。積極的な発言と、食事会で発覚した音楽マニアぶりで、早くもこの会に溶け込んでいらっしゃいました。

もう一方、『知の考古学』の方にも参加してくださっている強力な新人、菊池さんは、真鍋さんの後輩にあたる方で、建築家アドルフ・ロースの研究をされています(その菊池さんの勇姿を見たい方は、こちらのサイト(Before- & Afterimages)を。3月5日付けの「表象文化論コロキウム」のところをご覧下さい。僕や真鍋さんもちっちゃく写真に写っています)。お二方とも、今後ともよろしくお願いします。

それでは、次回の予告です。

日時   :3月16日(木曜日) 18時-21時
場所   :早稲田大学 大久保キャンパス 51号館3階8(?)号室
テクスト: ジグムント・フロイト、『精神分析入門』上巻
      (高橋義孝・下坂幸三訳、新潮文庫、1999年(改訳版))
範囲と担当:第三部 神経症総論
        第16-18講(338-400頁)吉田
        第19-20講(401-447頁)おおしか

次回は、いよいよ神経症が取り上げられる範囲です。フロイトの理論が凝縮して出てくるので、ある意味とても楽しいところだと思います。難しい点はどんどん疑念を出し合って進めましょう。本職(?)である吉田さんの発表も楽しみです(なんていうと、プレッシャーになるかな?)。

それでは、また読書会で ――大久保

発表者より:「情動」をめぐって

一点、前回の「精神分析入門」ゼミにて、私の言葉足らずが原因で、参加者の頭上に「???」が点滅していたので蛇足をお許しください。

要は、情動を性的原因に還元することで解消してしまうのではなく、こうした情動を特異性として生きるべく、いかなるアレンジメントが「可能か」と問うべきではないか、です。

フロイトは特異性=情動を性的要因に中性化し、患者を集団的で横断的な「作品」にするのではなく、逆に「人間」にしてしまう。D&Gからすれば、狼男が見た「木の枝に止まった七匹の狼」という夢を性的なものとして解釈するのではなく、「狼に成りたい(?)」と欲望する無意識的情動を、いかなる隠喩でも解釈でもなく、アレンジメントへと「移動」させ、横断的な「群れ」を編成するかが臨床的実践となる(『ミル・プラトー』Ⅱ章)。

「欲望」と「制度」という二つの位相が、弁証法に還元されることなく、本性の差異を有したままいかに接続されるのか?

これはドゥルーズの、ヒューム以来のモチーフであり、生気論と機械論の不可能な接続の試みである。「欲望/制度」は、夢における「情動/検閲」という位相に類比し、あるいは古くからの「自然/人為」の対に類比している。そのとき「/」という二つの位相間のエコノミーとして、夢作業という過程や「技術」、「象徴的男根」や「知覚不可能なもの」といった、いくつもの抽象機械のヴァリアントが重要となる。ガタリが臨床において「可能なもの」を問うのはこの地点であり(「潜在的なものの可能な宇宙」)、情動を備給し、様々なアレンジメントへと異化する無意識の運動それ自体を特異な過程として「固有名」にまで高めること、「いかにして器官なき身体を獲得するか」が探求=実験されなければならない(のではないかと思いました)。 ――真鍋

△ 先頭へ

第3回

前回、3月16日の会は、吉田さんとおおしかさんの発表で、神経症に関するフロイトの理論の導入部分を読みました。固着、抵抗や抑圧、倒錯、口唇期・肛門期・性器期といったフロイト理論の基本的な概念がいよいよ本格的に導入され、少しずつ精神分析の理論体系が明らかになってきました。

また、吉田さんのおかげで、現代の精神医学と精神分析との差異もわかり、現在においてフロイトを読み直す意義についても考えさせられました。しかし、現代では薬を服用するだけで多くの症状が治まってしまうと知ったら、一体フロイトはどう思うのでしょうかね?

また,真鍋さんの問題提起をめぐって議論も行われました。真鍋さんの問題提起に真摯に答えることは時間の関係上(また僕の能力上)できませんが、一点だけコメントさせてもらえば、おそらく議論の争点は、セクシュアリティーやリビドーにすべてを還元してしまうフロイトの態度にあるのではなく、「治療」という行為をどう捉えるかをめぐる、フロイトとD&Gとの差異にあるのだと思います。

D&Gの「欲望の流れ」という概念は、明らかにフロイトの「リビドー」を受け継ぐものであって、その点で彼らはフロイトの批判者であるどころか、その忠実な後継者であるといってもよいでしょう。

むしろ彼らが批判しているのは、フロイトの「治療」が、結局のところ、患者を現代の資本主義社会に適合させることでしかないという点なのではないでしょうか?(フロイトはこの点に自覚的だったようにも思えますが)D&Gにおいて「治療」(彼らがこの言葉を使っていた記憶はありませんが)とは、そのまま資本主義社会への批判を含むはずです。ガタリが自らの実践において目指していたのは、まさに資本主義社会に対するオルタナティブを作り出すことだったように思えます(そして、これを除いて何を「革命」と呼べるでしょうか?)。

ただ、フロイトは患者の苦しみを前にして思考しつづけたという事実を忘れてはならないと思います。フロイトにとって重要だったのは、患者を苦しみから解放することだったのであり、壮大な理論体系を作りあげることではなかったはずです。苦しむ患者を前にして、「君の特異性を生きなさい」といっても、何の救いにもならないでしょう。

それでは、次回の予告です。

日時   :4月6日(木曜日) 18時-21時
場所   :早稲田大学戸山キャンパス文学部33号館5階
      http://www.waseda.jp/jp/campus/toyama.html
      (ayumu-o@bf7.so-net.ne.jp 大久保までお問い合わせ下さい)
テクスト :ジグムント・フロイト、『精神分析入門』下巻
     (高橋義孝・下坂幸三訳、新潮文庫、1999年(改訳版))
範囲と担当:第三部 神経症総論
      第21-24講(8-109頁) 大久保

次回の範囲では、主に神経症の症状形成の過程が問題となります。短い範囲にフロイトの重要な概念が凝縮して出てくるので、少し難しいかもしれませんが、がんばって読み切りましょう。 ――大久保

△ 先頭へ

第4回

前回、4月6日の『精神分析入門』の会は、僕の怠惰により、レジュメが予定の範囲の半分すら用意できず、第22講で力尽きてしまいました。ただ、第21講から突然テクストの密度が高まって、重要な概念が連発されだし、そのため、スピードを落として丁寧に読まなければ、議論の道筋がわからなくなってしまう危険があったのも事実です。。。。

前回の範囲で扱われた論点のうち主だったものを列挙しておくと、倒錯、幼児期の性生活、そして有名なエディプスコンプレックス、近親相姦、退行、神経症の原因、経済論的仮説、快感原則と現実原則、と、こう並べただけでも、いかに密度が濃かったかよくわかります。

これだけ多様な論点があったわけですから、読書会での議論も多岐に渡りました。特に印象に残ったのは、まず、近親相姦の問題です。古代の王家(フロイトが実例としてあげているのはエジプト)においては近親相姦を行うことがむしろ「掟」であったこと、神話において近親相姦の記述が多く出てくること(会で話題になったのは旧約聖書でした)、などの記述をめぐって、近親相姦の禁止はどのような機能を担っているのか、またこの禁止は果たしてどこまで「自然」なことなのか、レヴィ=ストロースの理論を復習しながら、議論されました。

また、強迫神経症がいかなる病か、吉田さんの臨床経験を交えたお話を聞きながら、みなで理解を深める場面もありました。何人かの参加者の方が強迫神経症の症状に共感を示していたことが印象的でした。みなどこかしら「病んでいる」ものですよね(僕は分裂症=統合失調症に親近感を持ちます)。フロイトのテクストは、読む者に「自己分析」を促すところがあって、そこが魅力のひとつでもありますね。

なお、僕が持参した事典は次のものです。

今なら古本でお安く手に入るようですよ。

それでは、次回の予告です。

日時   :4月20日(木曜日) 18時-21時
場所   :早稲田大学戸山キャンパス 33号館5階人文専修室
      http://www.waseda.jp/jp/campus/index.html
      http://www.waseda.jp/jp/campus/toyama.html
テクスト :ジグムント・フロイト、『精神分析入門』下巻
     (高橋義孝・下坂幸三訳、新潮文庫、1999年(改訳版)。)
範囲と担当:第三部 神経症総論
      第23-24講(63-109頁) 大久保

前回、第22講のレジュメを完全には用意できていなかったので、次回はその部分を簡単に復習してから、第23講に移っていきたいと思います。

次回の範囲では、これまでに用意された諸概念を使って、より本格的に神経症(Neurose)と神経質(Nervositaet)の分析が行われます。相変わらずテクストの密度は濃いので、じっくり読み進めていきたいと思います。 ――大久保

△ 先頭へ

第5回

G.W.も終わり、日常が戻ってきましたね。次回は。。。

日時   :5月11日(木曜日) 18時-21時
場所   :早稲田大学戸山キャンパス 33号館5階人文専修室
      http://www.waseda.jp/jp/campus/index.html
      http://www.waseda.jp/jp/campus/toyama.html
テクスト :ジグムント・フロイト、『精神分析入門』下巻
(高橋義孝・下坂幸三訳、新潮文庫、1999年(改訳版)。)
範囲と担当:第三部 神経症総論
      第24講(63-109頁)「普通の神経質」 大久保
      第25講(110-136頁)「不安」 清水

扱う範囲は、前回残ってしまった第24講からになります。これまで分析されてきた感情転移神経症とは異なる、現実神経症に分析対象が移り、そのひとつとして神経症的不安が分析されます。ごくごくありふれた感情である「不安」を、フロイトがどう分析して見せるか、お手並み拝見ですね。 ――大久保

△ 先頭へ

第6回

こんなに曇り空続きだと、荒井由美の「曇り空」をつい口ずさんでしまいたくなる僕は、まだまだ大人になりきれていないのでしょうか。

「昨日は曇り空/きっとそのせいかしら/昨日は曇り空/外に出たくなかったの」...。

まずは前回の復習から。

今回、5月11日の会で議論されたことを、強引に一言でまとめてしまうと、「フロイトのアクチュアリティーとは何か?」ということだったと思います。

この読書会で専門家である吉田さんにいろいろと伺うなかで徐々にはっきりしてきたように、フロイトの理論は、現代の精神医学から見れば、かなり特異なものであり、また、最新の脳科学や生理学からみれば、古びた部分を多く含んでいることも確かだと思います。

しかし、僕や林さんのように人文科学に身を置くものにとっては、フロイトを読むということは、単に彼の理論を現代の「科学」に照らしあわして真偽を検証するということではなく、精神分析という「言説」(まさにフーコーがいう意味での)がどのような布置によって構成され、そしてそれが同時代の他の言説(たとえばダーウィニズム)とどのように言表を同じくし、それをいかに変形しているか、見定めることを意味します。そしてそのような「読み」は、当然、現代の言説へと撥ね返ってきて、今「科学」として信奉されている言説に対して同様の分析を加えることになり、「科学」と呼ばれるものの資格を懐疑に晒すことにもなるでしょう。

また、これはすでに何度も取り上げられたことですが、前回もまた、フロイトの性へすべてを還元する態度が議論の対象となりました。このような態度を貫くために、フロイトが所々無理をしている感じがするのは否めません。とくに、生物学から「系統発生」の理論を借りてくると、途端に話が「神話」のようになってしまうのは、分析の対象とすべきところでしょう。

ただ、以前も書いたように、もしフロイトの理論を擁護するとすれば、他者との関係が最も先鋭的に問われるのは、まさに性においてであり、したがって、多くの精神的な病が性をめぐって引き起こされるというのは、その意味では納得のいくことでもあります。なぜなら、精神的な病とは、他者との関係の失調を意味するのでしょうから。

ともかく、回を重ねるにつれて議論が煮詰まってきて、フロイトのテクストそっちのけで議論が盛り上がる傾向にあって、面白いですね。

なお、『知の考古学』読書会の最終回から、新たに乾正人さんがこの研究会に加わりました。真鍋さんの後輩にあたる方です。突然精神分析の濃密な議論に投げ込まれて、戸惑われていると思いますが、気軽にご参加いただければ幸いです。

それでは、次回の予告です。

日時   :5月25日(木曜日) 18時-21時
場所   :早稲田大学戸山キャンパス 33号館5階人文専修室
      http://www.waseda.jp/jp/campus/index.html
      http://www.waseda.jp/jp/campus/toyama.html
テクスト :ジグムント・フロイト、『精神分析入門』下巻
     (高橋義孝・下坂幸三訳、新潮文庫、1999年(改訳版)。)
範囲と担当:第三部 神経症総論
      第26講「リビドー論とナルシシズム」(137-163頁) おおしか
      第27講「感情転移」(164-190頁) 大久保

いよいよ『精神分析入門』も終わりに近づいてきました。テーマも精神分析の核心の一つ、「感情転移」です(「ナルシシズム」はその反対物なので、第26講も ある意味では第27講と同じ問題をめぐっていると言えます)。

なぜフロイトが性にこだわるのか、その意味が次回で少し明らかになると思います。それは「感情転移」という精神分析の技法とまったく無縁ではないでしょう。以前から話題になっていた、精神分裂病(現代の用語では統合失調症)に対するフロイトの解釈も次回で触れることになります。

どうぞお楽しみに。 ――大久保

ナルチシズムについて

前回の章で取り上げられた、ナルチシズムについて手近にあるテキストを開いていましたが、ごくごく短いものでした。参考までに。

「自己愛(ナルチシムズ)narcissismは自分自身を性対象にする場合である。この用語はギリシア神話にある、水鏡に映る自分の姿に恋した青年ナルシシスの名をとったものである。自己の肉体に性的興奮を感じる性倒錯、すなわち自体愛autoerotismが狭義のナルチシズムであるが、一般にはこの言葉は性行動だけではなく、より広義に用いられることがある。フロイトはリビドーが自己に向けられた状態を総称してナルチシズムと呼び、精神分析理論の重要な概念としている。」(PP307-308 現代臨床精神医学改訂第10版、金剛出版、2005より)

現代精神医学では狭義のナルチシズムしかあつかわず、広義のナルチシズムについては精神分析理論の範疇になってしまうのではないでしょうか。――吉田

△ 先頭へ

第7回

「リビドー論とナルシズム」と「感情転移」が前回の範囲だったわけですが、議論は主に、「精神分裂病や妄想はナルシズムによって引き起こされる」というフロイトのテーゼをめぐって行われました。

すでにフロイトの理論になじんだ僕にとってはなんら違和感がないテーゼなのですが、初めて触れた方にとってはこのテーゼが奇妙に映ったようです。

原因は「ナルシズム」という言葉が現在の日本で持つ語感にあったようです。吉田さんからも補足の投稿がありましたが(>吉田さん、ありがとうございました)、フロイトのいうナルシズムは、幼児期に存在したと仮定される「自体愛」への退行として理解されるべきもので、現在ふつうに「ナルシズム」というときに思い浮かべるような、自己の像への偏愛(おおしかさんがレジュメにつけて下さった、カラヴァッジョの「ナルキッソス」の絵が象徴するような)というニュアンスは薄いと考えられます。

フロイトのいうナルシズムはあくまで、対象に向けられるべきリビドーが、自己へ退却してしまっている状態を指すと考えた方がよいでしょう。実際、このように説明したときに、臨床経験をお持ちの吉田さんが、「それならわかる」とおっしゃっていたのが印象的でした。その他、自閉症や理想自我など議論になった論点はいくつかありましたが、復習はこのくらいにしておきます。

それでは、次回の予告です。

日時  :6月8日(木曜日) 18時30分-21時
場所  :早稲田大学戸山キャンパス 33号館5階人文専修室
     http://www.waseda.jp/jp/campus/index.html
     http://www.waseda.jp/jp/campus/toyama.html
テクストその1
     ジグムント・フロイト、『精神分析入門』下巻
     (高橋義孝・下坂幸三訳、新潮文庫、1999年(改訳版)。)
範囲と担当:第28講「精神分析療法」(191-213頁) 吉田
テクストその2
     フロイト、「悲哀とメランコリー」
     (井村恒郎他編・訳、『フロイト著作集』、第6巻、人文書院、1970年)
範囲と担当:137-149頁 清水

次回でとうとう『精神分析入門』も終了です。

最終講では、精神分析療法の特徴が、催眠療法と比較しつつ論じられます。また、精神分析の失敗例も紹介されます。こういうところにフロイトの知的誠実さを感じますね。

当初の予定では、そのまま『精神分析入門(続)』に進むつもりだったのですが、やはり『入門』では突っ込んだ議論が少なく、少々物足りない感じが否めませんでしたので、参加者の方々も精神分析の理論に慣れてきたことですし、フロイトの専門的な論文をいくつか読んでみることにしました。

手始めにメランコリーがなぜ起こるのか論じた、「悲哀とメランコリー」を読みます。

自己の対象への同一化、あるいは対象の取り込みが問題となる論文です。攻撃欲動(サディズム)も当然問題となってきます。

なお、「対象」は、カント-フロイト-ラカン-ジジェク(もちろんドゥルーズも)のラインを貫く、重要な問題系ですね。そんなことも考えながら読んでみたいと思います。

次回以降

次回以降,何を読むかはまだ決めていませんが、フロイトの晩年に起きた転換の周辺の論文を主に取り上げたいと思っています。個人的には、ドゥルーズがよく挙げる、「無意識について」や「快感原則の彼岸」などが面白いかなと思っています。

もちろんリクエストがあれば、初期の理論も読んでみたいと思います。あるいは、フロイトの分析の手並みをよりダイレクトに知るために、何か一つ症例研究を読むのもいいかもしれませんね(それこそ「狼男」とか?)。ちくま学芸文庫版のフロイトの論集をお持ちの方は、次回持参していただくと助かります。それも見ながら何を読むのかみんなで考えたいと思います。――大久保

△ 先頭へ

第8回

ベネディクト・アンダーソンは有名な『想像の共同体』で、マスメディアを通して人々のあいだで同じ話題が共有されることが、ネーション(一般的な訳語は「国民」)の形成にとって重要であることを説いていましたが、今回のW杯は、そうしたメディアの力をまざまざと感じさせるとともに、「戦争」がネーション意識の醸成にいかに格好の話題を提供するか、よく示しているとも思います。

日清、日露で沸いていた頃の日本は、これの比ではない盛り上がり方をしていたことが容易に想像できますね。ちなみに、オーストラリア戦を見なかった僕は(ネットで途中経過を知っただけなのです)、友人から「非国民」と呼ばれてしまいました...。

さて、前回6月8日の会で『精神分析入門』をひとまず読み終わることができました。これまで参加してくださった方々、ありがとうございました。

前回は最初、吉田さんの発表により最終講「精神分析療法」を扱いましたが、これまでの復習のような内容でしたので、特に大きな疑問点は出ませんでした。これも、今まで読み進めてきて、「精神分析」というものがどういうものか、各自輪郭をつかめたためだと思います。会の開始時点に比べれば、大きな進歩ではないでしょうか。

一点、吉田さんから指摘がありましたが、先の読書会案内メールで僕は、「精神分析の失敗例が紹介され」、そこに「フロイトの知的誠実さ」が感じられると書いたのですが、よくよくテクストを読むと「失敗したのは精神分析自体のせいではない!」というフロイトの居直りの方がむしろ強調されていて、どうも僕の誤読(斜め読み?)だったようです。お詫びして訂正します。

『精神分析入門』に続いて、フロイトのその他のより専門的な論文を読むシリーズを始めるにあたって、前回はまず、清水さんの発表により「悲哀とメランコリー」を読みました。こちらの論文についても、フロイトの理論自体の理解に困ることはあまりなく、議論はどちらかというと現代精神医学との対比や、フロイトの理論の妥当性をめぐって主に行われました。

吉田さんによれば、現代では抑うつ状態は薬によってかなり回復するとのことで、フロイトの分析がどこまで意味を持つのか、問われるところでしょう。ただ、薬はあくまで症状を抑えるためで、根本的な治療とはならず、治療の手助けとして投与されるそうで、その意味では現代でもどこかでフロイト的な分析・治療が必要になるのでは、という感じも抱きました。

なお、余談になりますが、メランコリーでも重要な役割を果たすナルシシズムはまた、フロイトの理論において、パラノイアや分裂病だけでなく、同性愛とも結び付けられていたわけですが、会の当日、吉田さんが持参されていた『クローゼットの認識論』のセジウィックによれば、ナルシシズムと同性愛がいわば自然な結びつきとして現われるのは、ホモかヘテロかのセクシュアリティという二元化されたアイデンティティにあらゆる人間が振り分けられるようになった、19世紀末からだそうです。セジウィックはこのことをオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を題材に論じています。

現代精神医学によってフロイトを相対化するだけではなく、このようなセクシュアリティの観点からもそうする必要があるようですね。

もう一つ余談になりますが、以前大田さんから紹介があったZeit紙のフロイト特集号を、林さんが持ってきてくださいました。ドイツ語の読めない、あるいは苦手な、われわれには猫に小判でしたが、そこで用いられているビジュアル(たとえば、真っ赤な背景の前で寝椅子に横たわる、全裸の女性!)から、フロイトが現代のドイツでどのように受容されているか窺い知ることができて、面白かったです(あと、ドイツ人のデザインセンスのなさも...)。

それでは、次回の予告です。

日時:   6月22日(木曜日) 18時-21時
場所:   早稲田大学戸山キャンパス 33号館5階人文専修室
      http://www.waseda.jp/jp/campus/index.html
      http://www.waseda.jp/jp/campus/toyama.html
テクスト: ジグムント・フロイト、『自我論集』
     (竹田青嗣編、中山元訳、ちくま学芸文庫、1996年。)
範囲と担当:「欲動とその運命」

次回は、「欲動とその運命」(1915年)を読んでみたいと思います。欲動は、フロイトによれば、精神分析の「基礎概念Grundbegriff」です。何度か話題になった、欲動の目標・対象・源泉という区別や、能動性・受動性、主体・客体といった極性Polaritaetなど、重要な論点が目白押しの論文ですので、面白く読めるのではないかと思います。

僕の目論見としては、今回の「欲動とその運命」を出発点にして、フロイトがその後、第一次大戦の経験を通して、「死の欲動」という新たな概念によって自らの理論を再構築していく流れを追ってみるつもりです。具体的には、有名な「快感原則の彼岸」や、新たな局所論を構築する「自我とエス」などを今後読みたいと思っています。

読む論文の選択は参加者の方々と次回改めて相談したいと思います。――大久保

△ 先頭へ

第9回

日時:   7月6日(木曜日) 18時-21時
場所:   早稲田大学戸山キャンパス 33号館5階人文専修室
      http://www.waseda.jp/jp/campus/index.html
      http://www.waseda.jp/jp/campus/toyama.html
テクスト: ジグムント・フロイト、『自我論集』
     (竹田青嗣編、中山元訳、ちくま学芸文庫、1996年。)
範囲と担当:「快感原則の彼岸」第1-3節 清水

次回は、いよいよ「快感原則の彼岸」を読みます。

ラカン以降の精神分析と、その後の構造主義・ポスト構造主義への影響を考えたときに、最重要のテクストといってもいいでしょう。また同時に、最も難解な、まるで迷宮のように入り組んだテクストでもあります。

前回と同様に、単にテクストからフロイトの理論を抽出するだけでなく、テクストそのものの運動にも注意を払いながら読んでみたいと思います。清水さんの生物学の知見や、吉田さんの現代精神医学の知見を地図の助けとしながら、迷宮の中のドライブを楽しむとしましょう。――大久保

△ 先頭へ

第10回

どうも、世話人大久保です。この暑さには参りますね。

前回、6月8日はフロイト「快感原則の彼岸」を清水さんの発表で第三節まで読みました。ポスト・モダンの思想に興味のある人ならば知らない人はいないといってもよいテクストでしょう。そのためか、みなさん一読したことのある方ばかりだったようで、会での議論はかなり突っ込んだものとなりました。

「快感原則の彼岸」は全部で七つの節からなっていますが、実はそれぞれの節同士の連関はあまり明確ではありません。一人でぼんやりと読んでいると、結局何を言いたい論文なのかわからなくなりやすいテクストです。

今回は、それぞれの節の内容を理解するだけでなく、その節が全体の中でいかなる役割を担っているのか考えながら読むことができたと思います。

そうした読み方で進めていくと、やはり奇妙なのは、有名な<fort-da>の子供の遊びの箇所です。その置かれた位置からして「反復強迫」の一例として書かれているのは間違いないわけですが、「反復強迫」の例として果たして適切なのか、疑問が残りますし、この非常に思弁的なテクストの中で、長々と描写される子供の遊びは、周りから浮き上がってしまっているようにも思えます。

<fort-da>の描写が置かれた第二節と次の第三節でフロイトは「反復強迫」というものが存在するということを証明しようとするわけですが、その説得力はきわめて弱いとも思いました。この二つの節でフロイトが扱っているのは、カント的に、あるいは法律用語で言えば、いわゆる事実問題と呼ばれるものです。

事実として存在するということを説得するためには、その事実を示すしかありません。したがって、フロイトはさまざまな例を次々と列挙して見せるのですが、問題は、そうした事実が存在したとしても、それを「反復強迫」として解釈するのが妥当なのかどうか、ということです。結局フロイトの苦労は、そうした事例が快感原則から逸脱していることを示そうとしながら、そこにわずかばかりでも「快」が含まれている可能性を消し去ることができないという点にあるのだと思います。

と、ずいぶんフロイトに批判的に書いてしまいましたね。まだ読み終わっていないのに、まずかったですかね。

それでは次回の予告です。

日時:7月20日(木曜日) 18時-21時
場所:早稲田大学戸山キャンパス 33号館5階人文専修室
   http://www.waseda.jp/jp/campus/index.html
   http://www.waseda.jp/jp/campus/toyama.html
テクスト:ジグムント・フロイト、『自我論集』
   ( 竹田青嗣編、中山元訳、ちくま学芸文庫、1996年。)
   http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480082492/sizimigai-22/ref=nosim
範囲と担当:
   「快感原則の彼岸」第4-5節 大久保
            第6-7節 おおしか

次回は、「快感原則の彼岸」の中盤から最後までになります。

第三節までが「反復強迫」の事実問題をめぐる範囲だとしたら、第四節以降は、その権利問題、すなわち「反復強迫」を可能にする条件をめぐって考察が進められる範囲だといえるかもしれません。あの「死の欲動」というほとんど語義矛盾にさえ思える概念が導き出されます。

次回で夏休み前最後になります(8月中も会を開くかどうかはまだ不明です...)。できれば会は早めに切り上げて、ゆっくりとご飯を食べながら打ち上げしたいところですが、あの謎めいたテクストでは無理ですかね。

それでは、読書会で。(大久保歩)

© D&G研究会 2003-2007. all rights reserved.