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D&G(ドゥルーズ&ガタリ)研究会は,早稲田近辺で開催する読書会を活動の中心とした,てんでんばらばらの参加者による,自由気ままな集まりです。

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M. フーコー『知の考古学』読書会

△ 総目次

ご案内

このところ恒例になってきた、大学の休み期間中に著名な本を一気に読破してしまおう!、という無謀な企画の2006年春休みバージョンです。

当初は、真鍋さんとその後輩のみなさん、それに僕を含めたメンバーだったのですが、どうせなら大勢で読んだ方が楽しいし、レジュメの割り振りも楽だろう、ということで、こちらの読書会にもお知らせします。

第一回の詳細は以下のとおりです。

日時  : 3月6日(月曜日) 17時30分-21時
場所  : 早稲田大学 大久保キャンパス 51号館3階9号室
テクスト: ミシェル・フーコー、『知の考古学』(中村雄二郎
      訳、河出書房新社、2006年(新装新版))。
範囲  : 「序論」 7-31頁 担当:真鍋
お問合せ: 参加資格・参加料金はございません。
      ご不明な点はayumu-o@bf7.so-net.ne.jp(大久保)まで

テキストは上に挙げた新装新版をぜひお使いください。旧訳は迷訳?で有名です...。

初回は、導入として真鍋さんからフーコー『言語表現の秩序』についても報告がある予定です。初回はそれほど読み進めないと思いますので、どうぞみなさんお 気軽にご参加ください。 ――大久保

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第1回

去る3月6日に『知の考古学』読書会の第一回が行われました。D&G読書会の外部の読書会のつもりだったのですが、気づいてみたら参加者はD&G読書会の人ばかり...。結局、これまでのデリダ、カントの読書会と同じパターンになりそうです。

前回の読書会は、みなさん予習が足りない中、なかなか議論が盛り上がりました。とりわけ、フーコーの方法論、すなわち、一方で歴史の非連続性を強調しながらも、他方で、その切断のあいだ、あいだに存在するある種の統一性、連続性はあくまで宙吊りにされるだけで捨て去られることはないという点に議論が集中しました。もちろんまだ序論から少し読み進めただけであり、フーコーの「考古学」の全貌が見えたわけではありませんが、今回議論になった問題は、フーコーを論じるときに必ず問われることでもあるかもしれません。

もうひとつ、documentとmonumentとの関係も話題になりました(邦訳15-16頁)。特にmonumentが具体的に何を指しているのか、結局のところよくわかりませんでした。今後、分析タームとして確立される概念でもないので、これについては全体を読み終わったのちに振り返るべきかもしれません。

さて、次回の予告です。

日時  : 3月9日(木曜日) 16時30分-?
場所  : 早稲田大学 大久保キャンパス 51号館3階9号室(?)
テクスト: ミシェル・フーコー、『知の考古学』
      (中村雄二郎訳、河出書房新社、2006年(新装新版))
範囲  : 第2章「言説の規則性」35-116頁
      第3章「言表と集蔵体」117頁-?
お問合せ: ayumu-o@bf7.so-net.ne.jp(大久保)

第一回に第2章の第1節まで終わりましたので、第二回はその続きで第2節「言説の形成と編制」からになります。次回は第2章を終わらせることが当面の目標ですが、進めるようならば、第3章まで入りたいと思います。ちなみに、第3章の表題になっている「集蔵体」とは、英語でいうところのアーカイブのことです。

なお、会は以後、13日(月)、18日(土)と続く予定です。お時間の都合のつく方はぜひご参加ください。短期集中の読書会となり、なかなか大変ですが、がんばって乗り切っていきましょう。 ――大久保

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第2回

3月9日に行われた第二回目では、第2章「言説の規則性」全体が検討されました。フーコーのそれ以前の著作をすべて要約したような範囲で、なんとも密度が濃かったです。読書会のあとではみな、へとへとになっていました。

第2章の中でも、特に第3節「対象の形成と編制」と第6節「戦術の形成と編制」について集中的に議論が行われました。よくわからないところをしつこくこだわって議論したおかげで、第2章については輪郭らしきものがそれなりにつかめたのではないかと思います(おかげで10時近くまでかかってしまいましたが...)。

今回参加されなかった方々には、次回、簡単に議論の成果を報告できればと思います。

フロイトにおいては、精神分析に対して「科学」という対立項を立てることができるとすれば、フーコーにおいては、「考古学」に対して構造主義を対立項として立てることができるかもしれません。会でもこのことが少し議論となりました。第5章冒頭でフーコー自身が言っているように、フーコーの「考古学」が構造主義から抜け出す試みであるとすれば、その試みはどの点に見られるのか、興味深いところです。この問いは、D&Gの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』とも無関係ではないでしょう。僕自身は、「言説」を「実践」ととらえるフーコーの態度に、D&Gと響きあうものを感じました。

それでは、次回の予告です。

日時   : 3月13日(月曜日) 17時-?
場所   : 早稲田大学 大久保キャンパス 51号館3階8(?)号室
テクスト: ミシェル・フーコー、『知の考古学』
      (中村雄二郎訳、河出書房新社、2006年(新装新版))
範囲と担当: 第3章「言表と集蔵体」117-202頁? 菊池

次回は、本書のキーターム「言表」がようやく定義されます。おそらく本書の最重要部分だと思われます。「言表」は、命題や文、スピーチ・アクトとどう異なるのか?ちょっとわくわくしますね(そんなのは僕だけかな)。

次回だけで果たして第3章を読み切れるかわかりませんが、行けるところまで行ってみましょう。なお、第2章の復習も会の冒頭にしたいと思います。前回参加されなかった方もお気軽にお越しください。それでは、読書会で。 ――大久保

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第3回

3月13日に行われた『知の考古学』読書会第3回目では、第3章「言表と集蔵体」のほぼ全体を検討しました。予想通り、大変重要な箇所で、この本の肝だといってよいところだったと思います。言表が命題、文、スピーチ・アクトといかに異なるのか、そしてどのような特徴をもつのか、このことさえわかれば、この本を理解するのが簡単になると思います。

個人的な感想を言えば、真鍋さんも指摘していましたが、フーコーが言表を否定的なかたちで導出していた点が大事だと思います。ポジティブにそこに「ある」と言った瞬間に消えてしまうようなものとして、言表は「あるIl'y a」。ドゥルーズは『意味の論理学』で「いかにして言語は可能になるのか」「音がなぜ意味を担いうるのか」と問いましたが、フーコーは反対に、言語から意味を剥ぎ取り、その物質性を「明るみに出すmettre en jour(「光の中に置く)」ことを試みているのだと思います(光と闇の比喩が頻出していることも重要ですね。まあ、フーコーはいつもそうですが)。

菊池さんの美しいレジュメ(なんとカラー!)と、明快な説明も特筆すべきものでしたね。

それでは、次回の予告です。

日時  : 3月18日(月曜日) 14時-?
場所  : 早稲田大学 大久保キャンパス 51号館3階9号室
テクスト: ミシェル・フーコー、『知の考古学』
      (中村雄二郎訳、河出書房新社、2006年(新装新版))
範囲  : 第3章「言表と集蔵体」181(?)-202頁 菊池
      第4章[考古学的記述」203-296頁 大久保
      第5章「結論」297-319頁 真鍋

次回は、第3章の第4・5節辺りからはじめます。この箇所は、第3章の中でもうひとつ重要なところだと、僕が読んだかぎりでは思いました。カントを思い起こさせる表現もいくつか出てきますので、カントと比較する話もできればと思います。

その後、一気に第4・5章を片付けます。このような強行軍になったのは、一重に僕の予定のためです。皆さんにはご迷惑をおかけしますが、何卒ご容赦ください。第4章は、フーコーの考古学とは何か、明らかになるところです。第5章は、構造主義との対比で、フーコーが自分の目論見を振り返るところのようです。

少しでもわかりやすく、かつスピードを持って進めたいと思います。お楽しみに。 ――大久保

関連サイト情報

読書会後の食事中に話しにあったラカンの訳をやっているHPです。『エクリ』所収の論文「精神病の治療可能性の前提となるひとつの問いについて」の検討をしていると書いてありますが、某ニーチェ研究家などからみて如何なものでしょうか。もちろん僕は読んでも意味わかりません。 ――清水

第4回

・・・「自然史」という、人間が作ったものであるにもかかわらずどこか他者性を帯びるもの、すなわち歴史を他者の語りとして記述するという問題構成。この人為にもかかわらず自然としか思えない物、そしてそれは無名の実践の夥しい束によって編成されたものであるが、われわれ建築を設計する者にとって卑近な例は「都市」である・・・

・・・自然と人為のあいだの結びつきの数々の形象、死と生が、物と言葉が取り交わすエコノミー、それは「出来事」と呼ばれるだろうし、思考にとっての「事件」である(あるいは事件こそが思考を可能にする)。そうした深淵を測量するのが考古学であろう・・・

等々、思いつきのままに、 ――真鍋

ちなみに、次回,『知の考古学』の補遺は、4月13日(木)を予定しています。こちらは最終回となります。ので、興味のある方はぜひ足をお運びください。(なお、こちらの場所も確定していないので、ayumu-o@bf7.so-net.ne.jp(大久保)までお問い合わせ下さい。)

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第5回

実は、13日に行われた読書会では『知の考古学』を読み終わることができませんでした。ということで、補遺の補遺として読書会を行います。

日時   :4月27日(木曜日) 18時半-21時
場所   :早稲田大学大久保キャンパス 51号館?階?室
      http://www.waseda.jp/jp/campus/index.html
      http://www.waseda.jp/jp/campus/okubo.html
テクスト :ミシェル・フーコー、『知の考古学』
      (中村雄二郎訳、河出書房新社、2006年(新装新版))
範囲と担当:第4章[考古学的記述」第5-6節 251-296頁 大久保

第5節は、これまでの流れ通り、「考古学」を「思想史」と比較する作業ですが、第6節では、今度は比較対象が「科学」や「イデオロギー」となり、「考古学」がこうしたものと異なる「知savoir」であることが明らかにされます。『知の考古学』の総まとめ的な範囲となりますので、これまであまり会に参加されていない方でも、『知の考古学』のおいしいところを知るにはよい機会ですので、遠慮なくご参加ください。もし時間に余裕があれば、すでに扱った第6章「結論」も簡単に振り返りたいと思います。

また、菊池さんがフーコーの他の著作(『言葉と物』『監獄の誕生』)を読む読書会を企画しているようですので(僕も半分巻き込まれかかっていますが...)、興味のある方は、今度の会に顔を出していただければ幸いです。――大久保

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第6回

今振り返ると、個人的には非常に有意義な読書会でした。

フーコーの「言説」概念を使うことで見えてくるものは非常に多く、この読書会で学んだことが自分の研究に無意識的に反映してしまいそうです。特に、「言説そのものが一つの実践である」というテーゼは、ポストモダンを通過したわれわれにとってはすでにさほど衝撃的ではないものの、改めて原点=原典に帰って読み直すと、このテーゼのもつ意味と、それがもたらす帰結について考え直さずにはいられませんでした。

また、それと関連して、フーコーの著作の連なりの中で本書が持つ意味についても改めて考えさせられました。一般には本書の次作である『監獄の誕生』からフーコーの新たなフェーズが始まるとされているわけですが、本書こそがむしろのちの「権力分析」への展開を可能にしたいわば蝶番であることが明らかになったと思います。つまり、言説が一つの実践であるとすれば、当然、他の実践との関わりが問われざるをえず、そこではじめて実践と実践の間にある「権力」が、分析の俎上にのることになるのでしょう。実際、第4章の最後で、のちの著作を予告するようなことをすでにフーコーは述べています。

新装版の日本語訳は相変わらず非常にむごいものでしたが、それにも負けずお付き合いいただいた方々、ありがとうございました。このレジュメがみなさんの助けになれば、僕の苦労も報われます。

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