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D&G(ドゥルーズ&ガタリ)研究会は,早稲田近辺で開催する読書会を活動の中心とした,てんでんばらばらの参加者による,自由気ままな集まりです。

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E. カント『判断力批判』読書会

△ 総目次

pp.1~:序論

報告: 2005/09/01

続けて,『判断力批判』を読むことになりました。

『純粋理性批判』を読んだときよりも、議論も盛り上がり、有意義な会だったのではないでしょうか。できれば、今回取り上げられたさまざまな論点(理論哲学と実践哲学の橋渡しとしての『判断力批判』、「自由な遊び」、主観的であると同時に普遍的であることを「要求」される趣味判断、等々)は、次回以降も続けて焦点にしていき、より深い議論をできればよいと思います。しかし、疲れましたね...。

いつものように注釈をいくつか。

お気づきの方もいらっしゃると思いますが、皆さんがこの読書会に乗り気であるのに乗じて、項目を一つ増やしてみました。4.の弁証論の部分です。『純理』の会のときには弁証論を読めなかったので、この機会にぜひ皆さんにアンチノミーによる論証を味わっていただきたいと思い、含めてみました。あと二日用意してもそこまでたどり着けるか分かりませんが、僕の願望による提案としてお受けとめ下さい。

ちなみに次回余裕があれば、『純理』の弁証論で論じられている、「理念」や「理想」といった概念についても報告します。ちなみに「理念」は崇高論では必須となる概念です。

イントロダクションでは「序論」をつまみ食いしながら進める予定ですので、皆さん「序論」にも目を通しておいてください。「序論」には「合目的性」など概念の説明も含まれていますので、それ以降の読解の参考になると思います。特に36頁以降の判断力を規定する部分は必読です。なお,今回使用する予定の岩波版は、平凡社版と訳語が所々異なります。たとえば「超越論的」が「先験的」になっていたりします。ご注意ください。

テキストのことで一点だけ。「適意」という耳慣れない言葉が出てきますが,これは原語ではWohlgefallenという言葉で,普通は「満足」や「喜び」などと訳され,何かを気に入ることを意味します(訳者はおそらく「意に適う」という言葉から「適意」という訳語を選んだのだと思います)。昔読んだときに戸惑った思い出があるので,念のため注釈しておきます。

参考書

今回の読書会にあたって参考書を一つ紹介しておきます。

プラトンからドゥルーズ=ガタリまでの美学の歴史を辿るとともに,美学に関するさまざまな問題についても触れています。カントの美学が大きく扱われていて,カントの美学史における位置付けに多くのページが割かれているので,今回の読書会にはよいと思います。僕自身はまだ通読できていないので,どこまで優れた本かは評価できませんが,この分野は手ごろな入門書がすくないので,興味のある方はどうぞ。

この数日のあいだに皆さんからいろいろと投稿いただきました。どうもありがとうございます。もう僕がコントロールできるような規模のMLではないので、すべてのメールには応答できませんが、皆さんの投稿には本当に感謝しています。どんどんこのMLを活用して、D&Gのいう「リゾーム」を実践しましょう。また,しじみがいさんからは、ご専門の認知科学の観点からカント『純理』を読み解くという、非常に刺激的なコメントもいただきました。僕としては、マイモンのことも含めて、詳しく応答したいところなのですが、今はその時間がありません。やはりできればしじみがいさんには一度読書会に顔を出していただきたいところですね。

明日は新たな出会いがさまざまあると思います。もし出席しようか迷っている方がいらしたら、僕は「出席する」に賭けることをお勧めします。きっと何かしらChemistryが生まれるはずです。途中参加も「あり」です。個人的には今からひそかにわくわくしています(ドイツ語でカントが読める方は、何はともあれご出席ください! それだけでも偉大な貢献です)。

それでは,次回も長丁場になると思いますが,みなさんどうぞよろしくお願いします。なお,当日の議論はレジュメをご覧ください。秋に芸術論を語るなんて、なかなか風情があるのでは。 ――大久保

レジュメ

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pp.144~:趣味

秋だというのに相変わらず暑いですね。

先日の読書会はお疲れ様でした。今回もなかなか熱い議論が闘わされました。特に共通感覚については次回も引きつづき議論していくことになりそうですね。

この点と関わることですが、個人的に印象深かったのは、蛭田さんが紹介されたアイザイア・バーリン(?、>蛭田さん、違っていたら補足をお願いします)のテーゼ、「趣味は共役不可能である」です。「趣味は主観的である」というカントの考えは、ある意味でこれと同じになります。

ただ、カントが面白いのは、その主観的な趣味が、にもかかわらず普遍妥当性を「要求」できるとしているところです。バーリン風に言い直せば、「趣味は共役不可能だが、にもかかわず共役可能性を要求できる」とでもなりましょうか。一見してわかるように、これは矛盾したテーゼです。しかしここにカントの美学の賭け金すべてがかかっているように思います。いわば、ゴダール好きとヘビ・メタ好きが、たがいに「タコツボ化」することなく、共通の議論の土台をもちうるかどうかは、ここにかかっているわけです(前回参加されてない方には何のことか分からないかもしれませんね。ごめんなさい)。この矛盾、二律背反は、次回の「弁証論」で論じられます。果たしてそこまでいけますかどうか。

ちなみにバーリンについては『自由論』が有名ですね。 ――大久保

レジュメ

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pp.206~:共通感,天才

報告: 2005/09/13

まずは、趣味判断の演繹やいわゆる「共通感(sensus communis)」が主なトピックでした。カントの美学的判断は、主観的でありながらも普遍性を要求するため、必然的に他者の判断が前提されているわけで、美が倫理的・政治的問題を孕むことが議論によってより明確になった気がします。

また、カントのいう「構想力と悟性の一致」がもし成り立たない場合があるならば、それはどこまでいわゆる「狂気」の問題とアナロジカルに考えることができるか、専門家である吉田さんを交えて、簡単に議論されました。議論を通じて、カントの提示する、諸能力のアレンジメント(と敢えてD&G風に言いましょう)によってさまざまな「狂気」を説明できるような気がしました(この点に関して、以前、太田さんが新カント派のカッシーラーの著作を紹介されていました)。

カントの理論は一方で「常識(common sense)」の哲学でありながら、他方でその「常識」を超えていく面を孕んでもいますね。

次に、林さんの発表にしたがって、「天才」概念にも検討が加えられました。今の時代から見ると荒唐無稽なこの概念をどこまで整合性を持って読み解くことができるか、面白いところだと思います。

ドゥルーズの論文「カントの美学における発生の観念」は「天才」をカントの理論に組み込んで読解していますので、次回このあたりの問題にも触れたいところです。 ――大久保

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pp.309~:美学的判断力の弁証論

報告: 2005/09/29

美学的判断力の弁証論の部分が扱われました。カントの議論を理解することよりは、その帰結をめぐって議論することのほうに重点があった気がします。

特に真鍋さんからは、ジュリア・クリステヴァやラカンなどを例に、より大きな枠組みとして、合理論と経験論、あるいは、その現代的な反復である、形式主義と一種のロマン主義という二極化と、そのあいだに立つものとしてのカント、というアイディアが出されました。

それを受けるかたちで僕からも、最近読んだジュディス・バトラーの『アンティゴネーの主張』を例にあげ、カントの立場がその後どのように、ヘーゲルや、バトラー、あるいはバトラーの依拠するデリダ、さらにはドゥルーズに受け継がれているのか、「反復」をキーワードにお話しました。

個人的には、現代においてもまだヒュームとカントのあいだの問題がそれこそ反復されているのだという印象を改めて持ちました。

ともかく,これでようやくカント読書会も終了です。長いあいだみなさんお疲れさまでした。いろいろな方から「勉強になりました」という言葉をいただいて、「塾長」(真鍋さん命名)としてはほっとしてます。当初は正直無茶な企画だとは思いましたが、「教頭」(同じく真鍋さん命名)である秋山さんの助けもあって、無事に終わることができました。今回の読書会が今後のみなさんの仕事なり、研究なり、生活なり(?)で生かされれば、「塾長」として(そしておそらく「教頭」である秋山さんにとっても)とてもうれしいことです。ありがとうございました。 ――大久保

△ 先頭へ

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