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D&G(ドゥルーズ&ガタリ)研究会は,早稲田近辺で開催する読書会を活動の中心とした,てんでんばらばらの参加者による,自由気ままな集まりです。

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Intermezzo ―― スピノザ,カントとドゥルーズ&ガタリ

『千のプラトー』「3. BC10,000年――道徳の地質学(地球はおのれを何と心得るか)」(pp.90~)読書会で蛭田より提起された,スピノザ,カントとドゥルーズ&ガタリの諸関係をめぐる問題について。

● カント陣営より 1
● ニーチェとスピノザ
● 属性と様態
● 風の思想『エチカ』
● カント陣営より 2
● カント陣営より 3

△ 総目次

カント陣営より 1

蛭田さんの詳細な読書会報告での明晰なパロールを思い起こさせるエクリチュールによって,自分たちが何を議論していたのか初めて理解できたような気さえします。それに触発されて,僕から少し補足を。

たぶん蛭田さんからは「白熱した議論」に見えたのでしょうが,言うまでもなく,何か二つの陣営に分かれて闘っていた気持ちはさらさらありません(まぁ,蛭田さんもわかっているとは思いますけど)。

しかし,真鍋&大田両氏の意見を聞くまで,スピノザにおける三つ組みの概念(実体・属性・様態)が,ドゥルーズ&ガタリの諸概念(存立平面・抽象機械・機械状アレンジメント)に対応していることに思い至らなかったことは事実でして,その意味では非常に勉強になりました。

アンチ・オイディプス

ただ,ドゥルーズ&ガタリが(とりわけドゥルーズが)スピノザを意識して議論を組み立てているのは,『アンチ・オイディプス』以来何度もスピノザが暗にあるいはあからさまに言及されていることから明らかなわけで,したがって,それは,前提とすべきことではあれ,特に強調すべきことだとは個人的には思いません。もちろんだからこそ,このような読書会では触れるべきことでもあるのですが。

僕が「ダイアグラム」とカントの「図式」との対応関係を強調するのは,もちろん自分の関心がそこにあるということもあるのですが(「それだけだろ」というツッコミが入りそうですが),これが意外に見落とされがちな論点であるということと,「図式」の問題こそドイツ観念論からハイデガーに至る近代哲学の「保守本流」(とあえて言いますが)の問題であり,その意味では,ドゥルーズ&ガタリの議論は,「ポップ哲学」であるだけではなく,もっともシリアスな哲学でもあるということを言っておきたいからなのです。

帝国

あるいは,思いつきで言えば,カントとの関連を強調することで,スピノザ-ネグリラインからの切断を図ることもできると思います。ネグリの『帝国』を直接読んでいないのでなんともいえないのですが,ただ,間接的に知るかぎりのネグリの議論は,あまりにも楽天的すぎるように思え,悪い意味でスピノザ=D&G的です。確かにドゥルーズ&ガタリには楽天的すぎるところがあるとはいえ,ネグリほどではない。それを示す一つの契機としてカントとの関連が挙げられるのではないか。近い将来,ネグリが批判され葬り去られる(としか思えないのですが...)ときに,一緒にドゥルーズ&ガタリが葬り去られるのを防ぐために,カントは重要なポイントになる気がします。

結局,カントとスピノザの間の理論的差異がドゥルーズ&ガタリの議論にどのように反映されているのか,綿密に検討すべきなのでしょうが,僕にはそのような力量はありませんし,それにそんなものがメールで展開できるわけもありませんね。

これを機会に,他の方々の(特に「スピノザ陣営」の)ご意見を伺いたいところです。おひまが合ったらぜひご意見を寄せてください。 ――大久保

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ニーチェとスピノザ

先日「差異と反復」を読了しました。自分は長いことこのような本を読みたかったのだと気づきました。

以前からニーチェとスピノザがいかにドゥルーズを介して出会っているのか,「ニーチェと哲学」「スピノザと表現の問題」を読んで以来,関心がありました。「差異と反復」を読みつつ確証は議論の余地がありますが,私が担当した「道徳の地質学」にも関連があることと思いますので簡単にメモしておきます。次回の担当も私なのでそのとき議論できればと思います。

スピノザの3つ組,実体・属性・様態において,

  1. 属性が差異的,微分的,強度的な実在であり,
  2. 差異/属性は直接感覚されえないが反復によって偽装されて差異のイマージュ(シュミラクル)として表現されるものが様態であるのではないか?

スピノザの力とは異なる力が互いに触発し合い,かつ含蓄的絡み合いの中に関係性(形相)を発生させるようなものです。異なるXとYというセリ―のカップリングにおいて,それぞれに属している分子的力dx,dyが交通し(抽象機械),dy/dxという微分方程式(機械状アレンジメント)を構成するものが,差異であり,強度である。ピストルの弾の属性である「運動エネルギー」とは弾の質量mと速度vという異なる二つの力のカップリングであるが,

とアレンジされるもので,その様態は「射程距離200メートル」とか「防弾チョッキを貫通」といった差異(強度)のイマージュとして表現される。属性である運動エネルギーも物理的実在(=強度)であり,その反復である様態もシュミラクルという実在であると考えたなら,

といった形で結ぶことが出来ないでしょうか?

「差異と反復」を著して,「借金を返済した」ドゥルーズはそれを機軸に機械圏をはるかに拡張してガタリという逃走線に誘われて2冊の資本主義論という実験に向かい,同時に様態論(?)つまり「差異のイマージュ」として意味と感覚の論理学へ向かっていったのではないでしょうか?「カフカ」が前者に属し,「プルースト」が後者に属すように。そのようにみると彼のキャリアはかなり計算され,着実に展開・包含しているように感じられます。

P.S.

スピノザは最高だが,ただ一点「脱領土化」を語らなかった点が惜しまれると言い,「様態の周りをくるくるまわる実体」(マジ?)という個所に思わず笑ってしまいました。 ――真鍋

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属性と様態

真鍋さんが出された論点は結構多くて,すべてに応答することはできませんが,僕の解釈と異なっていると思われる論点に絞って応答したいと思います。

端的に言って,僕が一番違和感を感じたのは,属性と様態というスピノザの概念を,『差異と反復』の議論の何に対応させるのか,という点です。正確には,その用語法に違和感を感じたと言うべきかもしれません。まず,長くなりますが,真鍋さんの返答を引用させてもらいます。

スピノザの3つ組,実体・属性・様態において,(1) 属性が差異的,微分的,強度的な実在であり,(2) 差異/属性は直接感覚されえないが反復によって偽装されて差異のイマージュ(シュミラクル)として表現されるものが様態であるのではないか?

異なるXとYというセリ―のカップリングにおいて,それぞれに属している分子的力dx,dyが交通し(抽象機械),dy/dxという微分方程式(機械状アレンジメント)を構成するものが,差異であり,強度である。ピストルの弾の属性である「運動エネルギー」とは弾の質量mと速度vという異なる二つの力のカップリングであるが,(運動エネルギーF)=1/2・m・v2とアレンジされるもので,その様態は「射程距離200メートル」とか「防弾チョッキを貫通」といった差異(強度)のイマージュとして表現される。

前段の属性と様態の定義は,大体よいと思います(様態を「差異のイマージュ(シュミラクル)」と呼んでいいかどうか,少し疑念は残りますが)。とりわけ「差異/属性は直接感覚されえない」という点は非常に重要で,ドゥルーズの哲学のポイントのひとつでしょう。

ただ,後段の例示の部分に僕は少し違和感を持ちました。

「異なるXとYというセリ―のカップリングにおいて」「dy/dxという微分方程式(機械状アレンジメント)を構成するものが,差異であり,強度である」というのは,まったくそのとおりです。したがって,『差異と反復』においてスピノザの属性に対応するのは,この場合,微分方程式であり,『差異と反復』の用語法でより正確に言えば,「問題」だといえるでしょう。ドゥルーズが,「問題」を解くことよりそれを正しく立てることが重要だと何度も強調するのは,このためでしょう。

それゆえ,真鍋さんの「ピストルの弾の属性である『運動エネルギー』」という表現は,若干不正確でしょう。むしろ,運動エネルギーという「問題」=属性の表現されたものが,ピストルの弾であり,新幹線であり,キーボードを叩く指先である,というべきでしょう。そして,これら属性の表現されたものが様態に対応するはずです。

前回,読書会のあとの食事の席で話題になったベケット(『モロイ』)に例をとるなら,「おしゃぶり用の16個の石を4つのポケットに均等に配分する」というのが属性=「問題」であり,実際にどうするのか=どう「問題」を解くのか(ひとつずつ石をポケットからポケットへ循環させるのか,それとも石を4つまとめて循環させるのか,それとも...)が様態であるといえると思います。

ニーチェとスピノザとの関係は,これまた複雑なので,読書会のときに議論できればいいと思います。「様態の周りをくるくるまわる実体」という表現は,本気も本気で,それこそ「永劫回帰」だと,ドゥルーズは言いたいのでしょう。

今回はこんなところで。やっぱり議論がどんどん難しくなっている気がしますが,まぁ,しょうがないですね。たまにはこういうのもいいでしょう。 ――大久保

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風の思想『エチカ』

大久保さんの返信では,単純化されたスピノザ主義のナイーブな肯定性に対する疑念が示されており,眞鍋さんの返信では,『差異と反復』とスピノザの思想との結合の可能性が示されていました。

どちらの返信も大変興味深く拝見しました。『差異と反復』はまだちゃんと読んでいないので,なんともコメントしようがないのですが,スピノザとドゥルーズについて思いついたことを書いてみます(実は今日の朝このメールを送ったのですが,手違いでメーリングリストとは違うアドレスに送ってしまいました)

自分にとってスピノザの『エチカ』はまさに風の思想であり,大地への重苦しい重力にみちたドイツの思想から「魔女のホウキ」のように大空へと解放してくれるようなものでした。

しかし,大久保さんのメールに書かれてあったようなスピノザの楽天性に対する一種の疑念は理解できます。

自分が『エチカ』を読んだ限りでは,スピノザにはフロイトの言う「死の欲動」がなく,すべては自己保存の欲望(コナトゥス),すなわち快楽原則に基づいて思考されていると思います。「死の欲動」のようなコナトゥスを逸脱するようなものは,スピノザにとっては非十全で混乱した観念から生じるものです。

読むものを大空へと連れていくようなスピノザの肯定性はまさにここから来ると思うのですが,「死の欲動」を本当に排除することができるのかなと疑問に思うこともあります。眞鍋さんのメールにあったスピノザの思想における「脱領土化」の欠如とはここにあるのかもしれません。

僕自身は,ドゥルーズ&ガタリの思想は決して楽天的なものではなく,肯定性と否定性が常に交錯しているものだと思っています。器官なき身体をスピノザの実体に性急に当てはめるべきではないのかもしれません。この概念はアルトーからきたものであり,諸器官からなる有機体を否定し解体することによって達するものだからです。いわば,破壊が閾値を越えたときに生まれる絶対的肯定,あるいはニヒリズムが極限にまで達した時生まれる宇宙的笑いとでもいいましょうか。

とりあえず思いつきでいろいろ書いてみました。単にスピノザだけではなく,大久保さんの言われるようにカントとも結び付けてみたほうがおもしろいのかもしれません。 ――大田

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カント陣営より 2

今度は大田さんから返信をいただけました。これで「スピノザ陣営」のお二人からご意見をいただけたことになりますね。僕と同じ「カント陣営」である秋山さん,ご意見があればお願いします。僕から大田さんに簡単に応答しておきます。

大田さんの書かれたことで重要だと思ったのは,スピノザの「実体」ドゥルーズ&ガタリの「器官なき身体」の関係です。

大田さんが書かれているように,スピノザは最近よく「肯定の哲学」として紹介されます。これはドゥルーズによる解釈の影響が大だと思うのですが,それを除いてもやはり『エチカ』そのものに,世界をすべて肯定するような思考があるのは事実だと思います。

これに対する批判として,大田さんの言うように,フロイトで言えば「死の欲動」のような,何かしら破壊的で否定的な側面が世界には存在することをスピノザが見落としている,というのもよく言われることでしょう(スピノザを称えるニーチェが,一点スピノザを批判していたのは,まさに「コナトゥス」の問題でした)。

おそらくそこに,ドゥルーズ&ガタリがスピノザの「実体」を,アルトーを参照することによって,「器官なき身体」という怪物的な概念へと変形した狙いがあるのだと思います(ちなみに「器官なき身体」はドゥルーズの『意味の論理学』ですでに概念化されています。それ以降とはかなりその働きが違う気がしますが)。

『アンチ・オイディプス』の読解から明らかになったのは,「器官なき身体」とは,強度ゼロの状態を指す概念であるということです。強度とは差異の別名にすぎない(差異のないところに強度はない)のであってみれば,強度ゼロとは差異のない「まったき闇」であり,これは究極的な「死」だといってもよいでしょう(実際,「器官なき身体」は「死の本能」と関連して記述されてもいました)。

ドゥルーズ&ガタリはこの「器官なき身体」をスピノザの「実体」と敢えて同一視することによって,スピノザの哲学全体にも変形を加えている。つまり,すべてがその中で休らう「神=世界」としての「実体」ではなく,あらゆる強度につねにバッググラウンドとしてつきまとう「死」としての「実体」,すなわち「器官なき身体」。

したがって,ドゥルーズ&ガタリから単に楽天的な肯定性だけを読み取るのは誤りだというべきでしょう。彼らの理論にはつねに「死」が書き込まれているのですから。ネグリの読みはおそらくこの点において誤っているのだと思います(まぁ,読んでもいないのに悪口言ってはいけませんね)。 ――大久保

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カント陣営より 3

「カント陣営」からの応答です。とはいえ,スピノザについては本を読んでいないので,何もいう資格がありません。「ダイヤグラム」についても,ひたすらカントの側面から,考えざるを得ないのが実際です。しかも,カントの図式論のところは,「隠微すぎて」,特によく分からないので,今の段階では,なんともいえないのですが,この場を借りて,興味の向くままに,自己の思考を整理したいと思います。

図式論のところで,カントはこう言っています。「図式論は,人間の心の奥深いところに潜む隠微な技術であって,われわれがこの術の真の技量を自然について察知し,これをあからさまに提示することは困難だろう」181と前置きした上で,

形像は産出的構想力の経験的能力による所産である,また(空間における図形としての)感性概念の図式は,ア・プリオリな純粋構想力のいわばモノグラム(組合せ文字)である,形像はこの図式によって,またこの図式に従ってはじめて可能になる,しかしまた,形像はこれを描き出すところの図式を介してのみ概念と結びつかねばならないのであって,それ自体概念と完全に一致するものではない。これに反して純粋悟性概念の図式は,概念に一般による統一の規則に従うところの純粋総合にほかならない,この総合はカテゴリーによって表現されるのである。この図式は構想力の先験的所産である,--換言すれば,表象が統覚の統一に従ってア・プリオリひとつの概念において結合させられねばならぬ限りにおいて,かかる一切の表象に関して内感の形式(時間)の諸条件に従うところの,内感の規定一般に関係するような所産である(181)

前者は純粋直観,後者は

悟性は自発的な作用によって,およそ感性的直観の形式に従って自分に与えられる多様なものに関して,感性を内的に規定し得るのである。それだから悟性は構想力の先験的総合という名によって受動的主観に働きかけるのである。~統覚は,一切の結合の源泉として,直観における多様なもの一般に関係し,カテゴリーという名で,一切の感性的直観に先立って客観一般に関係するのである。(153~154)
構想力は,その知性的総合の統一に関しては悟性に依存しているし,また覚知における多様なものに関しては感性に依存している。(163)

そもそも図式と図式論は次のように定義されています。「感性の純粋な形式的条件[時間]を純粋悟性概念の図式と名づけ,また悟性がかかる図式を取り扱う仕方を図式論と名づけようと思う」。179

そして「図式は構想力の所産にすぎない。」179のであり,「構想力とは,対象が現在していなくてもこの対象を直観において表象する能力である。ところで,我々の直観はすべて感性的直観であるから,構想力は感性に属する,その理由は感性こそ悟性概念に,これに対応するような直観を与え得るための唯一の主観条件だからである。しかしまた,構想力による総合は自発性のはたらきである,~これは感性に及ぼす悟性の作用であり,また我々に可能な直観の対象に対する悟性の(同時にまた他の一切の適用の根拠であるところの)適用である」151~152したがって,「構想力は,その知性的総合の統一に関しては悟性に依存しているし,,また覚知における多様なものに関しては感性に依存している。」164

「覚知の総合とは,経験的直観における多様なものの合成を意味する。そしてこれによって知覚,即ちかかる直観の経験的意識が(現象として)可能になる」160つまり「覚知の総合はつねに時間・空間の二つの形式と合致しなければならないのは,この総合が時間・空間の二つの形式に従ってのみ生じるからである。」160

覚知の総合は「直観の単なる形式以上のものを含んでいる。それは感性の形式に従って与えれた多様なものを統括して直感的表象にまとめることである。それだから直観の形式は多様なものを与えるだけであるが,形式的直観は表象の統一を与える。」160つまり,「与えられた直観一般における多様なものの結合が,根源意識おいてカテゴリーに従いつつ,我々の感性的直観に適用されたものにほかならない」161

また

覚知の総合は,経験的総合である。これに反して統覚の総合は知性的総合であって,まったくア・プリオリにカテゴリーに含まれている。しかし覚知の総合に必然的に従わねばならないということは,このようにして証明されるのである。つまり同一の自発性が,覚知の総合において構想力をいう名で,また統覚の総合において悟性という名で,直観における多様なものに結合を与えるのである。162
およそ外感に対する量(外延量)の純粋な形像は空間である。しかし,感性一般に対する一切の対象の純粋な形像は時間である。ところで,悟性の概念としての量の純粋な図式は数である。数は一を一(同種のものとして)に順次に加算することを含む表彰である。それだから数は,同種な直観における多様なもの一般の総合的統一にほかならない。つまり私はかかる総合的統一において,時間そのものを直観の覚知において産出するのである。182

直観の覚知とは「我々が一本の直線(これで外的形象で表す役目をさせる)を引きながら,多様なものを総合する行為--換言すれば,それによって内感を継時的に規定する行為や,またこうして内感におけるかかる規定の継続に注意を払うことによってのみ,はじめて時間を考えることができるのである。」154 「カテゴリーの図式はいずれも時間規定を含みかつこれを表示している」184「図式はいずれも,規則に従うア・プリオリな時間規定にほかならない」184

「ダイヤグラム」をいう名称自体,時間規定をふくんでいることを意味する。ハイデガーが構想力を根源におき,それ自身から時間を発現させるものとして捉えたことに関わる。

考えを整理するといったものの,引用にとどまり,敷衍するには至りません,独りよがりなカント陣営からの応答になってしまいました。あしからず。――秋山

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