旅行日:1999.12.26(日)〜27(月)

ワクワク!呼子旅行日記!!


前日の夜に降っていた雨もあがり,冬の透き通った爽やかな空気に差し込む光の中を。。。!愛車ルシーダは,軽快な足取りで発進したのでした。初日は,肌を刺すような寒さだったのですが,二日目は,「冬将軍よ!どこいったの?」というくらいのポカポカ陽気でした。


一日目(遊・食・泊)

午前10時40分頃,自宅(福岡県飯塚市)を出発し,八木山→福岡市→前原市→唐津市の経路で呼子に向かいました。途中,昼食で40分程使いましたが,有料道路があるところはすべて使って午後1時40分(約3時間)にマリンパル呼子に到着しました。午後2時出航のジーラ写真1)で,お魚が元気に泳いでいる姿を見に行きました。写真2は,ジーラの船内です。鯛やふぐなど,たくさんの魚が泳いでおり,こどもたちは大喜びでした。約40分程で港にもどり,そのあとは,呼子大橋のつけね付近にある「旅亭 新や」に直行しました。写真3駐車場奥に階段があり,下に降りられるようになっています。下に降りると写真4のようになっています。その先には弁天島があり,次のような説明がしてありました。

呼子大橋の下には,男島と女島が並ぶ弁天島があり,その昔太閤秀吉が朝鮮出兵を祈り,船遊びをした場所として知られている名所です。以前満潮時には渡れなかったこの弁天島へ,弁天歩道橋の完成で,いつでも渡れるようになり,磯遊び,魚釣り,潮干狩り等も楽しめます。(海に落ちないように!)またこの弁天島には,弁財天を祀った弁天神社や,石像の観音菩薩,船地像尊等もあり,参拝あるいは石像巡りをされるのもいいでしょう。

夕食前に,腹ごなしに弁天島まで散歩をしたのですが,アベックが多かったですよ。デートスポットだったのかな?

写真5は,「旅亭 新や」の部屋から撮影した呼子大橋です。橋の手前に小さな丘がありますが,これは加藤嘉明陣跡です。そこには,次のような説明がしてありました。写真6は,加藤嘉明陣跡にある陶器でできた名護屋城図の屏風です。また,この屏風の後方にある赤茶色の建物が我々が宿泊した「旅亭 新や」です。

今から約400年前,全国統一を果たした豊臣秀吉は,朝鮮半島と中国大陸をも侵略しようとして1592年〜1598年にかけて文禄・慶長の駅(壬申・丁酉倭乱)を起こしました。この時,秀吉が配下の諸大名に命じて出兵基地として築かせたのが名護屋城です。総面積約17万uに及ぶこの巨城と各地から参集した大名の陣屋の跡は,「名護屋城跡並びに陣跡」として,国の特別史跡に指定されています。特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」は,安土桃山時代の文化,建築,生活などを知ることのできる貴重な文化財であると共に,日本と東アジアの国々との不幸な出来事を語り伝える歴史の証人でもあります。
加藤嘉明の略歴と陣の概要

この陣の主である加藤嘉明は,その当時伊予松前(今の愛媛県伊予郡松前町)を城地とする1万5千石の城主で,文禄・慶長の役には,水軍の将として750人の兵を率いて参陣しました。豊臣秀吉古参の武将であり,「賤ヶ岳の七本槍」の一人として知られています。この役のあと嘉明は,伊予松山(今の愛媛県松山市)20万石から会津若松(今の福島県会津若松市)40万石に移され,68歳で没しました。その後加藤家は,嘉明の子明成の代で改易となりました。この陣は,海に突きだした半島の先端に位置し,いかにも水軍の将といった場所を占めています。昭和63年度から平成元年度(1988〜1989)までの発掘調査の結果,建物跡等の明確な遺構こそ発見することができませんでしたが,石垣を伴った曲輪跡と井戸跡が見つかりました。その成果をもとに平成元年度から3年度(1989〜1991)まで環境整備を行い,曲輪跡を平面的に表示すると共に,石垣の残存状況と井戸跡を露出展示しています。

護屋城と文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)

関東を平定し,ついに全国を統一した豊臣秀吉は,文禄元年(1592)にさらに大陸(明国)に向けて出兵する。文禄・慶長の役の始まりであり,その軍事拠点として築かれたのが,肥前名護屋城と諸大名の陣屋である。城は,当時では大阪城に次ぐ巨大な規模(焼く17万u)を誇り,天守閣のある本丸を中心に,二の丸・三の丸・山里丸などを要所に配置して,頑固に構えている。また,大名の陣屋の総数は120箇所以上に及んでいる。この特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」は,東アジアの国々との不幸な出来事を伝えるものであるが,一方では安土・桃山時代の文化を知ることができる数少ない遺跡でもある。

この近くの観光スポットとしては,風の見える丘公園写真7)があります。山の上に赤い屋根の建物が見えるのがそれです。この風の見える丘公園は,呼子と加部島を結ぶ美しいハープ橋・呼子大橋を見下ろす高台にある公園です。直径8mのプロペラが回る真っ白な風車は公園のシンボルで,電力発電装置を備えているそうです。ここから玄界灘が一望でき,晴れた日には壱岐までハッキリ見えるということでした。今回は行きませんでしたが,次回訪れたときは是非行ってみたいと思っております。

呼子を訪れたら是非食してみたいと思って追ったのが,甘夏みかんのゼリーです。イカと並ぶ名物になっているのではないでしょうか。今回食し,またおみやげとして買ったのが甘夏ジュレーです。甘夏みかんの皮を器にしたユニークさと甘酸っぱく,プルルンとした舌触りは何ともいえませんでした。写真8は,「旅亭 新や」近くの甘夏ジュレー直営店「ラ・シェスタ」です。

「旅亭 新や」での夕食は,最高でした。イカさし・イカの天ぷら・イカしゅうまい等のイカ料理はもちろんのこと,新鮮な食材をうまく生かしたものばかりで大満足です。残念だったのは,最後に出た「ウニの炊き込みご飯」が,ちょっとしか食べられなかったことです。量的にはたくさんあったのですが,前に出た料理があまりにも美味しくて,大好物の「ウニの炊き込みご飯」の分まで胃袋に余裕をもたせていませんでした。

二日目(観・食)

二日目の行程は,桃山天下市名護屋城博物館波戸岬玄海海中展望塔・屋台<サザエの壺焼き>)でしたが,残念なことに,名護屋城博物館は休館(月曜日休館)でした。でも,冬休み中は,月曜日でも開けていてほしかった。。。

桃山天下市は,秀吉が陣を張っていた時代をイメージした商品構成で,地元の特産品のほかに当時の諸大名の国元の伝統工芸等も一堂に集められており,興味深く拝見させていただきました。この桃山天下市の脇に「太閤秀吉の草庵茶室」(写真9)が公開されていました。この茶室は,宗湛日記等を資料として推是復元されたものです。しかし,開館時間から1時間以上経過しても係の方が来られていなかったので,茶室の中を見学することができませんでした。

太閤秀吉の草庵茶室

肥前名護屋城の山里丸に茶室が造られたのは,天正20年(1592)11月17日の席披きの日,招かれた松浦道可・池田備中守・堀監物・船越左衛門と神屋宗湛の5人は,未明の午前4時には外郭に建つ月見櫓に集まり,午前8時になって席入りした。4畳半の茶室は柱などに竹が使われ,客座背後の横竹の上を全面的に窓とした,開放的な茅屋の形容である。茶屋のような雰囲気を漂わせ,あるいは室町将軍第の茶亭に倣うものであったのだろうか。4畳半の構成自体も,武野紹鴫に倣う古風なもので,簀子縁が付設され,脇の妻戸から縁に上がって,縁から席入りしたのであろう。中立でも縁でして,手水も縁から使うなど,全国統一を果たしたからの秀吉の茶の湯には古典への回帰が認められる。間口4尺5寸の床には,玉欄筆の瀟湘夜雨の画軸が掛けられ,その前の長曽呂利の花入に山橘が生けてある。窓の障子には色紙襖にも見立てたのであろう,秀吉の自詠の和歌が認められていた。

「ゆうされに たそやすゝろにこととふは

まとのあたりの やまおろしのかせ」

波戸岬では,まず玄海海中展望塔写真10)に行きました。この海中展望塔の出入り口付近に次のような表示がしてありました。「The northwest end.」(東経129度51分,北緯33度33分)。ようするに,波戸岬は,日本の北西の端ということです。展望塔から見る海中の様子は,ジーラから見たそれとはまた違った感じで,こどもたちも大はしゃぎで海中を覗き込んでいました。写真11

今回の旅行の締めくくりは,やっぱり「サザエの壺焼き」(写真12)です。辺り一面に漂うサザエを焼く臭いに誘われて屋台の中に入りました。一皿4個で500円でしたが,美味しくて,美味しくてたまりませんでした。ここでしか味わえない味です。

帰りは,長崎自動車道経由で帰りました。高速で走る時間が長い分,快適に運転することができました。所要時間も「行き」よりも若干短かったような気がします。

<今回の訪問先>

名    称

住    所

電話番号

旅亭 新や 佐賀県東松浦郡呼子町殿ノ浦 0955−82−6666
マリンパル呼子 佐賀県東松浦郡呼子町 0955−82−3001
桃山天下市 佐賀県東松浦郡鎮西町大字名護屋1859 0955−51−1051
玄海海中展望塔 佐賀県東松浦郡鎮西町波戸1082 0955−51−1052(鎮西町企画観光課)

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