障子ヶ岳登山日記

登山日:2001.4.15(日)


足利尊氏の命によって築かれた山城の面影を山頂に残す“ 障子ヶ岳

<標高427m 所要時間:1時間(登り),30〜40分(下り)>

<歴史のつまみぐい>−障子ヶ岳の歴史−

障子ヶ岳の頂上の砦跡「牙城(きばじょう)」は,行橋方面からもその平坦地がはっきりと遠望できる。田川郡香春町と京都郡勝山町の境にあり,戦略上の要衝だったことから,室町時代に足利尊氏の命によって山城が築かれた。その後,中国勢の毛利・大内氏と大友勢の南北間の狭間で,度重なる戦乱をくぐってきた。この山城には,豊臣秀吉も九州平定後に入城したと言われるが,1615年頃,徳川家康の「一国一城令」によって廃城になったとされている。

福岡県の山歩き(海鳥社)より

国道201号線を飯塚から田川方面に車を走らせます。新仲哀トンネルを通過して最初の信号のある交差点(勝山町松田)を左折してそのまま直進すると,「障子ヶ岳登山道入口」の標識(写真1)があります。そこを左折して100m程進むと若宮八幡宮(写真2)があります。今回はここから歩いていきました。最初は,両脇の田んぼの風景を楽しみながら,一本道の農道(写真3)を歩いていきました。

障子ヶ岳登山道入口の標識(写真4)があり,ここから山頂まで1.8kmです。これくらいの坂道だったら楽しいね!(写真5)途中,大宰府官道と登山道との分かれ道(写真6)がありました。

農道を過ぎると,杉林の中(写真7)を坂が続きます。ほとんど一本道なのですが,所々に「障子ヶ岳登山道」の標識(写真8)がたててあり,まず迷うことはないでしょう。しかし,この坂道が結構続きますので,少々足にきました。(写真9)

車が一台通れるくらいの少し広めの坂道を登っていると,「障子ヶ岳城入口門」(写真10)がありました。ここで一休憩(写真11)したあと,再び登り始めました。ここからは,本格的な山道(写真12)です。

結構,急な坂道(写真13)もありましたが,途中,休憩できる長椅子が設置してある場所(写真14)もあり,この山を愛する人々の心づかいが伝わってくるようでした。この休憩場所から山の斜面を眺めていると,「観音様」に見える岩(写真15)がありました。

急な坂道を登りつめると,そこには「障子ヶ岳山頂」と「味見登り口」の方向を示す標識(写真16)がありました。味見登り口方面へ行ってみる(写真17)と,「砦跡」(写真18)がありました。ここからの眺めも,なかなかのものでしたヨ!

障子ヶ岳山頂は,麓から見ると人為的に削られた跡(写真19)がよく見えます。それもそのはず,昔お城が築かれていたのです。左から本丸跡,一段とばして二の丸跡,馬場跡,北の丸跡(写真20)となっています。馬場跡には,「障子ヶ岳城址」について説明してある看板(写真21)がたてられていました。
<歴史のつまみぐい>−障子ヶ城址について−

この障子ヶ岳標高427mで,京都,田川郡境に位置し,戦略上,要衝の地にあるため,この城をめぐって幾度か攻防が繰り返されてきました。特に1399年(応永6年)に繰り広げられた大内,大友の両家の戦いは有名で,「応永戦覧」の中でも紹介されています。この城址は,牙城跡とも呼ばれ,中世山城の姿を残しています。障子ヶ岳城は,1336年(建武3年)足利尊氏の命によって,足利駿河守統氏が築城し,その後の度重なる戦乱で城主は次々と変わっています。この城は,豊臣秀吉の九州平定に伴い,1586年(天正14年)黒田孝高の陣に下り,その翌年には豊臣秀吉も入城したとされています。その後,この城は1615年(元和元年)に徳川家康の一国一城令によって廃城となったとされています。<昭和63年12月勝山町教育委員会>

※この城址は,長く雑木が,うっそうと生い茂り,その姿も消えようとしていたものを,地権者の理解を得て,今春4ヶ月をかけて実施した。「障子ヶ岳攻め」と銘打った清掃事業に参加した延べ623名のボランティアの手によりこの美しい姿を取り戻したものです。

約1時間程で山頂に着きました。ここにお城を築いたのですネ!昔の人ははスゴイ!!(写真22)

山頂は360度大パノラマでした。(写真23)

本丸跡に三角点がありました。社会科の教科書にはでてくるのですが,実際に見ることができてラッキーでした。(写真24)

景色のよい山頂(本丸跡)で,思いっきりジャンプ〜!!(写真25)

サ〜!帰るぞ〜!!またまた,飛び跳ねながら下山しました。(写真26)

30〜40分で下山しました。少しきつかったけど,景色がよくて爽快な気分です!!(写真27)


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