知覧・指宿の旅
旅行日:2001.3.24(土)〜25(日)
2001年の春休みの家族旅行は“鹿児島”です!
知覧・指宿への一泊二日の四人旅!!
<初日>知覧(武家屋敷郡・特攻記念館)
・・・武家屋敷郡・・・
“知覧の武家屋敷郡”について
知覧の邑主は薩摩藩主島津家の分家であったので薩摩の重臣として参勤交代等に随行していた。帰りには京都等に立ち寄り文武の道を修め武はもとより文にも秀でた者が多くなった。今を去る二百年余(1760年頃)現在の役場付近を中心として武士小路割を定め各一方眼を自治区画となし各屋敷を累のように防衛障壁となすよう工夫した。現在の武家屋敷郡はその一部である。庭はその時京都から同道してきた庭師に作庭させたものと伝えられている。知覧の庭の大部分は枯山水である。枯山水は水を用いないで山水の風景を表現し,主として石組みによって構成された庭園で日本庭園の一様式である。最も奥の森氏邸庭園だけは水を配した池泉式庭園で江戸時代中期の住宅と門の右手にある土蔵とともに研究や鑑賞上みのがすことはできないものとされている。 (知覧町武家屋敷庭園保存会パンフレットより) |
薩摩の“小京都”といわれるだけあって,趣(おもむき)のある武家屋敷が続いております。まずは,「森重堅邸庭園」から見てまわることにしました。 |
この武家屋敷の庭園のほとんどは“枯山水”ですが,「森重堅邸庭園」だけは,水を配した池泉式庭園でした。 |
江戸時代中期の薩摩にタイムスリップしたような気分になれ,なかなか楽しいお散歩でした。 |
・・・知覧特攻平和会館・・・
世界恒久平和を願いながら。。。
知覧は,昭和17年,大刀洗陸軍飛行学校知覧文教所が開校,少年飛行兵,学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていたが戦況が緊迫し険悪となり遂に昭和20年本土最南端の特攻基地となり「若き勇士が雲流るゝ果て,遥か逝いて帰らざる」壮途につかれた思い出深い地であります。 沖縄特攻で散華された1,036柱の隊員は,知覧基地を主軸とする万世・都城基地及び第8飛行師団は台湾各基地,義烈空挺隊は健軍基地から出撃しています。 これら至情至純の霊が「とこしえ」に安らかならんことを祈念して全国から浄財を集め,昭和30年に特攻平和観音堂,昭和49年に特攻銅像,昭和50年に特攻遺品館が建立されて以来,年々ふえる観覧者や遺品収集で手狭となったので,知覧町が町づくり特別対策事業の一環として,昭和60年度から2ヶ年継続で特攻平和会館を新築しました。毎年5月3日の特攻観音慰霊祭には全国から参拝者が訪れています。 (知覧特攻平和会館パンフレットより) |
この「知覧特攻平和会館」は,太平洋戦争末期,沖縄決戦に,人類史上類のない爆装した飛行機もろとも肉弾となり敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影,遺品,記録等の貴重な資料が保存・展示してあり,当時の真情を我々後世に伝えてくれています。 |
“知覧茶”について
知覧町は茶を中心とした農業のまちです。知覧茶は恵まれた気象条件と地勢の中で手厚く栽培され,色・香味とも日本一の折紙付であります。毎年の全国茶品評会では農水大臣賞等上位連続入賞の栄誉に浴しその名声はますます高まって参りました。産地直売の知覧茶は,連日訪れる観光客に土産品としてよろこばれ,また贈答品としても最適です。知覧茶の一杯は,その甘い香りとともに懐かしい心のふるさと知覧がよみがえってくることでしょう。 (知覧町武家屋敷庭園保存会パンフレットより) |
・・・千貫平自然公園・・・
・・・指宿白水館・・・
生まれて初めて“砂むし温泉”を体験したわけですが,想像していたよりも随分「気持ちい〜!」温泉でした。 |
<2日目>指宿(時遊館CoCoはしむれ・池田湖)
・・・時遊館CoCoはしむれ・・・
歴史発見!〜国指定指宿橋牟礼川(はしむれがわ)遺跡〜
1 誰が見つけたの? 大正4年,旧制志布志中学校の男子生徒が,指宿十二町丈六付近で,2つの土器のかけらを見つけました。この発見がきっかけとなって,大正7年と8年に京都帝国大学の浜田耕作博士らによって遺跡の発掘調査が行われました。 2 橋牟礼川遺跡の特徴 (1)縄文土器と弥生土器,どちらが古いかを決定した遺跡 橋牟礼川遺跡の発掘調査が行われていた大正時代は,縄文土器と弥生土器についてどちらが古い時代の土器なのかまだわかっていませんでした。2つの違う民族が同じ頃にそれぞれの土器を作っていたのではないかという説が有力でした。つまり,土器の違いは,時代の違いではなく,民族の文化の違いによるものと考えられていたのです。しかし,大正7年,8年の発掘調査で,開聞岳の火山灰層をはさんで下の地層から縄文土器が,上の地層から弥生土器が発見されました。この発見で,日本で初めて,縄文土器が弥生土器よりも古い時代の土器であることがわかりました。この発見がきっかけとなって,日本の古代の歴史が縄文時代から弥生時代へと移り変わっていくことが明らかになりました。 (2)火山灰にうまった「東洋のポンペイ」 指宿地方は,開聞岳の噴火で,何度も被害を受けてきました。橋牟礼川遺跡の地層を観察すると,縄文時代後期(約4,000年前),弥生時代中期(約2,000年前),西暦675年ごろ,西暦874年3月25日の噴火で降った火山灰が積もっています。特に,874年の噴火で当時(平安時代)の橋牟礼川の村は暑い火山灰に完全にうもれてしまいました。この噴火と被害の様子が,「日本三大実録」という古文書に記されていたことから,噴火した日付がわかりました。 (3)古代隼人の謎の封印 7世紀の終わりごろ(682年)から9世紀の初め(805年)にかけて,南九州の人々は,当時の中央政府から「隼人」と呼ばれていました。律令制度を整え,国づくりを進める政府と「隼人」とは,度々対立したとの記録が残されていますが,「隼人」の暮らしぶりや文化を伝える記録は少なく,その実態は謎につつまれています。橋牟礼川遺跡では,5世紀〜7世紀ごろの村と奈良〜平安時代の村が見つかっているため,「隼人」の生活・文化を知るたくさんの手がかりがうもれていると考えられています。 |
・・・池田湖・・・
<今回の訪問先紹介>
名 称 | 住 所 | 電話番号 |
知覧武家屋敷群 | 川辺郡知覧町郡17880 | 0993−83−4433
(教育委員会文化課) |
知覧特攻平和会館 | 川辺郡知覧町郡17881 | 0993−83−2525 |
指宿白水館 | 指宿市知林の里 | 0993−22−3131 |
時遊館CoCoはしむれ | 指宿市十二町2290番地 | 0993−23−5100 |
池田湖パラダイス | 指宿市池田湖畔 | 0993−26−2211 |