ハイアイアイ通信 3号


Oct.26

 さて、部屋に閉じ込められて過ごすことになった私は、研究所のスタッフの計らいでなかなか快適な生活を送っていた。さすがに毎日映画ばかり見ていると目が疲れてきたが、そんなときは窓の外の景色を眺めているだけで楽しかったし、時折そのなかをごく当たり前のことのようにトビハナアルキが跳び回ったり、ダンボハナアルキが飛び過ぎて行くのを見ながら自分がハイアイアイにいるのだということを改めて感じていたのだった。
 食事は魚料理が殆どで、味は悪くなかった。ここでは食用になる家畜が全くいないため、タンパク質は専ら魚から摂取することになっているのだという。「ここへ来て何ヶ月かは肉汁の滴るステーキが恋しくて夢にまで出てきたよ」とレイは笑った。
 食事のときはレイがモニタ越しに話し相手になってくれた。彼はニューヨークの出身でここへは20年程前に来たのだという。到着した時に聞いた、彼があの核実験以前から住んでいた、というのは私の聞き違いだった。核実験以前からここに住んでいたのは彼の父親で、ハイアイアイ・ダーウィン研究所の創設メンバーの一人だったのだ。そのことを彼を含む家族が知ったのは後になってからで、ずっと行方不明のままだった。そのため彼は殆ど父親を憶えていなかった(父親が行方不明になった時彼はまだわずか2歳だった)。それが今から20年程前のある日、不意に父親が危篤だという連絡が彼の元に届いたのだった。彼とその家族を捨てた父親が危篤だという知らせは彼を複雑な気持ちにさせたが、結局レイは父親の最期を看取るためにハイアイアイへと旅立ったのだった。
 研究所の職員に連れられてマイルーヴィリ島に降り立ったレイを待ち受けていたのはいま私が受けているような処置、つまり監禁状態だった。その間に彼の父親は死に、彼が外界へと出た時にはすでに埋葬されていた後だった。島に来た意義を失ったレイは早速帰ろうかとも思ったが、生物学、特に進化論を研究していた彼にとって鼻行類の生息するこの島はとても魅力的だった。ハイアイアイはなかなか居心地もよいし、すっかり病んでいるアメリカ社会に嫌気のさし始めていたところだったので、さほど迷うことなくこの地に永住することを決めたのだった。
 ハイアイアイにどれくらいの人が住んでいるのか聞いてみた。これだけの設備を維持するにはかなりの人数が必要に違いない。「そうだな、ここの職員とその家族、あわせて50人位だね」思ったよりも少ない。ここの職員の大半は独身で、家族がいるのは1/4程度、更に人口を抑制するために子供は1人までという厳しい規則があるそうだ。「それくらいしないと、わざわざここを地殻変動で沈んだことにした意味がないからね」
 早くも私がここに閉じ込められてからもう1週間が過ぎた。そろそろ外に出られるだろうか。


目次

Copyright 2000 Nasobem Research Center,All-Rights Reserved.