まだまださんに誘われて高野街道

2023/4/3 河内長野~学文路

2023/5/2 学文路~高野山・奥の院



2023年4月3日 歩く世間に鬼はなし
河内長野~学文路(かむろ)


参考にしているのは、大阪府・歴史街道ウォーキングマップ

のうちの

河内長野~天見
天見~橋本
橋本~高野下

を参考にしました。

3月末に、まだまださんから「歩いて高野街道」の誘いがあった。
河内長野は、高野山に行く複数のルートが集まって、ここから一本のルートとなるところだ。

高野山は今でも観光地だが、江戸時代も観光地。今よりもにぎやかだったかもと思う。
熊野古道だって、「蟻の熊野詣」といい絶え間なく人が往来していたという。
京都にある愛宕山はハイキングコースだが、かつての登山道はお茶屋さんが並んでいた。
レジャーの少ない時代だったから、信心深いのもあるが楽しみで行っていたと思う。




まだまださんは堺からの西高野街道を河内長野まで歩いており、その続きになる。私は今回それに便乗して歩くわけだ。

西高野街道には、堺からは道標となる里程石が13本たっている。
道標の里石は一里(3.9km)ごとにたてられている。
お百姓の小佐衛門さんと五兵衛さんが安政年間に建てたとのこと。ただこの人たちの事は、よくわからないらしい。

この道標を見た時に、どこかに「薬のなおやん堂」「まだまだの学生服」とかの宣伝でも入っているのかと見たが、それもなさそうだ。
純粋に世のため人のために作られたものだと思う。


河内長野の街は、高野街道を観光の目玉にしようと道をカラーにしている。


歩き始めて長野神社。



さらに歩いていると造り酒屋さん。
西条合資会社といって、国の登録文化財になっている。
すごい・・・登録文化財ってなにかわからんが、すごいらしい。

こういう建物があると、いかにも旧街道という雰囲気がある。
実は私、遍路道や熊野古道を歩くうちに「これが旧道である」とわかるようになった。
古道評論家としてテレビに出ることができるだろうか。
いや古道系ユーチューバーでデビューしたほうがいいか。
そういう事言ったら、まだまだくんはあきれた顔で見ていた。

街道に面した烏帽子形(えぼしがた)八幡神社に入った。


歩きはじめとはいえ、神社をあがる階段はしんどい。

本殿は、国の重要文化財になっている。



この神社では地元のヒーローである楠木正成(くすのきまさしげ)を祀ったお社もある。

さてこの神社の萱葺きは見事なのだが、材料であるこの地に生えるヒノキの皮をめくっては保存していると聞いた。
国の文化財だけど、口は出すが金は出さない。
氏子の有志で、存続させていると聞いた。
それを聞いたので、お賽銭をはずみました。
ここから三日市の街に入っていく。
車の多い道をまたぐ橋をわたると三日市。

大阪でただひとつの木造の旧交番が河内長野の文化財と保存されている前の道を通ると。。。

ありました。
高野山女人堂まで八里の里程標石。




庚申堂の桜でひとやすみ。


街もとぎれて国道は坂となってきた。


国道を離れてのどかな道を歩いていくが、また合流。

次の七里の道標は国道にあるらしい。
親切なおじさんに教えてもらったが、こうも言ってた。
車が多いで~







このへんやろと歩いていたら七里の道標があった。



この道は車が多い上に歩道もなく歩きにくい。











まだまださんが若かりしころに友達と飲みに行ったという天見温泉を過ぎてトンネルは通らずに旧道に入ると桜の花のお出迎え。
坂がきつくなってきて、二人でだらだら歩いていると紀見峠。

岡潔さんって知ってますか?
この地に生まれた数学者であり随筆家の人である有名人だ。

その岡潔さんの名前があちこちにある。




紀見峠に六里の道標があった。

ここの道標は車の往来が少ないためかきれいに保存されている。

峠は和歌山県との境となっている。

もうここは橋本市なのだ。




腹がへってきたので道のはたで昼飯。
まだまださんは自作の弁当、私はコンビニおにぎり。


今日の行程で坂の上りはもう終わり、これからは橋本におりていくのみ。


国道トンネルと合流したところで一気に車が増えて、道の右側にはマンションが立ち並ぶ。
南海電車が開発した林間田園都市駅はもう近い。

道が狭くなって旧道めいたところにあったのが五里石。


古くからの道らしいところに入ったら橋本市の中心部。
このあたりにあるはずの四里石。
地図を見ながら、この方向かな・・・・あの方向かなとわからなくなってしまった。

まだまだくんが橋本市のHPにある案内を見ていると思いきった事を言った。

「橋本市の文化財の担当者に電話して聞こう」

そこで私が電話した、どうにも話が通じない・・・そこで電話の人は・・・・

「今から係の人をそちらに派遣します」

こちらの場所は言ってあったので待つこと数分。
背広にネクタイした若い青年が自転車でこちらに走ってくるではないか。

ものすごく真面目そうなというより本当に真面目な人が地図を手に来られた。
その人は自転車を押しながら案内してくれた。
実のところは私たちのほうが下りてくる道を間違えていたようだ。

四里石は川のほとりにあった。



わしらみたいなヒマジンのために、わざわざ時間をさいて案内していただいた
橋本市の文化財の担当の方、ありがとうございます

ここまで来たら学文路(かむろ)駅まで行くことにした。
そうしておくと次回の行程がらくになるし、時間もある。

高野街道からは外れるけど、堤防の上の道を進む。
橋を渡ったところで一休み。

堤防の道が車の多い道と合流したら学文路の街。
このへんに三里石があるはず・・・おかしいな。
それもそのはず、街道を外して歩いてからわからなかった。

また橋本市のあの親切な人に電話を・・・一瞬頭がよぎったが、そこまでは迷惑をかけたらあかん。

グーグルマップを使って、探索したらありました。
お地蔵さんがいっぱいの寺の前の民家に。
ブロック塀の影になっていた。





学文路駅から電車で帰りました。
次は、この駅からです。

















2023年5月2日 坂はきつい坂はしんどい坂は疲れる
学文路(かむろ)~高野山・奥の院

まだまださんから、5月2日はどうですかとのラインが入り、ひまじんの私はOK。

今回は、こんな切符を買いました。

高野山1dayチケット。
関西の私鉄各社から地下鉄、南海を利用して高野山まで。
南海の極楽橋、ケーブルで高野山駅、高野山の各所に行くバスは乗り放題の得々切符。
行きは学文路からの歩きでもったいないがそれでも割安だし、小銭を出す手間がはぶける。

私は京阪沿線だから、北浜で堺筋線、天下茶屋で南海の高野線、橋本で二両編成の電車に乗り換えて学文路が8時半。。




駅を出て線路をくぐって家々の間の道を歩いて、三里道標から続く高野街道と合流。

いきなりの道は、坂がきつい。
コースは女人堂まで13kmぐらいで、たいした事はないだろうは大間違いだった。
上がる標高差は800m。
単純に計算して、6.1%の勾配。
鉄道で言うと、61‰(パーミル)。かなりの坂だ。

真田幸村で有名は、九度山町。










坂の急な上りが、

、一転して靴のつま先が痛くなる下りの道になった。


せっかく貯金をためているのに、無理やり使わされている感じ・・・嫌だぁぁぁぁ。

やがて丹生神社&日輪寺に入ると川根の集落。

高野街道の本陣があった建物があった。
大きな戸のすき間から中をのぞいてみたらバイクが置いてあった。

この戸は、いまでは開かないようになっているようだ。












川根の集落に、高野街道二里道標石があった。

九度山町の指定文化財の案内には「京大阪街道」の文字がある。
高野街道は、高野山を目指す人の道だが、ここに住む人にとっては京や大阪に行く道で「京大阪街道」だったのだろう。

平坦だった河根の集落を過ぎたら、またまた急な坂道になった。

このへんになると疲れてきた。
まだかよ!!!






大きな藤の木があり、地面にはよく見る花がついている。




















帰ってから調べてみると「シャガ」という花であることがわかった。
この地の道ばたにかたまって生えていることから、誰かが植えたのだと思う。

しばらく歩いていると、「日本最後の仇討ちの墓所」があった。


ふと・・・すっきりしないものがあった。

熊野古道で、山中渓から歩いて大阪府と和歌山県の境に「日本最後の仇討ち場所」があった。
向こうは場所で、こちらの墓所なのだが、仇討ちの内容が全く違うのだ。
紀州藩がかんでいることだけは共通だが、中身が全く違う。
これは、どうなっているのだろう。

考えていると最後の、高野山一里道標石があった。


4本の道標(右のは五輪塔のような)がまとまって立っている。
たぶん、この近くにあったものを一か所にまとめたものだろうと思う。
もう少し、やり方があるやろと思ってしまう。
設立の趣旨や経緯も違うはずなのに。

歩いていると「御成婚記念道程標」があった。

今の上皇さんが美智子さんと結婚した時のものかと思いきや、昭和天皇の結婚記念だった。
これは古いわ。

少し歩いていくと白藤小学校跡、現在は地域の寄り合い所とコーヒーを出す店となっている。


昔は子どもも小学校を維持できるほど、いたんだろうな。


この先で十字路の道が出てきた。
このレポートを見て、コースに参考にする人がいるとは思えないが、アドバイスをしておこう。

その一は、高野町が出している「高野山周辺古道ガイドブック」を見ること。
私たちは偶然にも、置いてあるのを取った。

歩くコースは極楽橋を経由して不動坂を上がって女人堂にいく。

十字路に出てくる。

ここで迷う。
極楽橋は、上の写真では右のほうにとる。


ガイドブックを見てみよう。

(高野町発行の「高野山周辺古道ガイドブック」14pageより))
上の地図で、左の四角の中の十字路の赤線をたどること。

しばらくすると南海電車の高野線の線路が下に見えてくる。

線路の上の橋を越えて進むと、はて・・・・?????
ふたたび、十字路にでくわす。

上の地図の右がわの四角だ。
四角の中の拡大図に書いてあるが、「新極楽橋」は渡らない。

見上げれば南海電車の架線が見える。

線路の下沿いの道を上がっていけば、極楽橋はすぐ。
ところで南海電車高野線は極楽橋が終点で、ここからケーブルに乗り換える。
駅名の由来となった極楽橋は、別に観光スポットでもない。
ゼロではないが、ほとんど見物客はいない。
ここの駅は線路の終点だが、経由地である。
まわりに人家もなく駅自体は、秘境駅と言ってもいい。

坂をあがると、線路がみえる。



歩くコースは、ここからケーブルの下をくぐって不動坂をいく。

(高野町発行の「高野山周辺古道ガイドブック」15pageより))

極楽橋を渡って左のほうの道をとってあがっていく。




最後のお仕事がんばろう…坂はまた急になってきた。
分岐があって、うねうねとくねってあがる「いろは坂」、すんなりと上がっていく「不動坂」。
いろは坂は荒れているようなので、不動坂をあがる。


途中にあるお堂。清不動堂というそうな。
そのお堂の横を通って、道は最後の上り。


不動明王さんとお地蔵さんに挨拶して、歩いているとバス道と合流。
この道は、高野山ケーブルの上の駅、高野山駅からのバス専用道。
合流点から、女人堂までは歩いてもいいことになっている。
ほどなく女人堂が見えてきた。


堺からの道標石は、ここが目的地となっている。

かつては、高野山は女人禁制だったので、ここまでしか入れなかった。



ここから先は、高野山の街の中となる。

銀行も郵便局、スナックもある、学校もある街なのだ。

ここからは奥の院までバスで行こうと思ったが、バスがない。
仕方がないので歩き始めたら、バス通り過ぎた。

あらっ、臨時のバスが・・・またまた臨時のバスが追い抜いていった。
今日はゴールデンウイークの真っただ中。
観光客がたくさんいるので、臨時便をバンバンだしているようだ。

歩いても直ぐなので歩いていく。

文化財となっている木造の高野山交番を過ぎて、街の真ん中に。




寺院がたちならび、庭は手入れされている。




一の橋から奥のほうに行くと墓所となっている。

行ったことがある人は知っているだろうが、行ったことがない人は一度行けばいい。

大河ドラマに出てくるような歴史上の人の墓がたくさんある。
「へー、こんな人の・・・、こっちは、あんな人の・・・」と見ているだけでも面白いと思う。

そして奥の奥が奥の院で、弘法大師さんの御廟になっている。
一応、お大師さんは生きておられる事になっているので、三度のご飯が御廟に用意されている。

奥の院で、ここまで無事に歩いてきたことに感謝のお参りをする。なおやんが書くとウソっぽい。

歩いてバス停まで行きバス。
途中で、まだまださんが言う有名なごま豆腐の店によって一折を買う。
帰りの電車で半分づつして、家で食べたが「上品なお味でございました」。口あたりは柔らかいが胡麻の味が貧乏人にはつらい。
バス、ケーブル、電車を乗り継いで帰りました。


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