最終更新日;2002年01月07日

開運五社参り [2001/01/01]


 今年(巳年)からのイベントで、近所の神社の五社参りが企画されたので、厄払いも兼ねて参加してきました。

五社参りが行われた岩国市今津町周辺です。
右図の灰色部分の拡大図です。

白蛇神社

先ずは白蛇神社です。 我が家からは、歩いて15分位でしょうか。 白蛇の飼育施設が有るのは知っていましたが、そこが白蛇神社とは知りませんでした。

白蛇神社
 御利益は、金運開運です。
 弁財天は大梵天王の妃で、インドから伝わった女神で、頭上に宝冠と鳥居を戴き、その中央に白蛇(宇賀神)を巻き、常に八臂に、武器を持って、自らを荘厳にし、宇賀弁財天と言われてきました。
 宇賀御魂神は穀神で、女神であり日本で作られた仏説では、人頭蛇身の神とされ、これに弁財天が習合して、二神習合一体神となり二臂を加えて八臂の御姿になられて日本独特の宇賀弁財天を生じたのであります。
 その功徳は、五穀豊穣ばかりでなく、如意宝珠の力によって、希うことはことごとく叶い、福を得ることとなり合わせて本来の能力である、音楽、学問、叡智までの力を授けて下さるという、万能の神として認められ仏教を母体とした日本独特の弁財天が形成されて、広く民衆に信仰されて現在に至っています。

 金運の神様ということで思いの外、多くの人がいました。 狛犬替わりの石像は、先日テレビでも放映されたようで、出来たばかりのものです。

風船で作られた雌雄の白蛇です。
神社の入り口の石像です。

今津天満宮

 丘全体が白蛇の飼育場所だと思っていた頂上に今津天満宮がありました。 白蛇神社からは、丘を登って5分くらいの道のりです。

今津天満宮
 御利益は、もちろん学業成就です。
 延喜1年(西暦901年)藤原時平の策謀に因り菅原道真公が太宰府に左遷の船旅の途中で鞠布の浦にさしかかられた時、余りの景色の良さに現在の天神山に櫂を付け、船を停められ、一時島に上がられて休息されたと謂われている由来に基づき、後に地元の有志によって菅原道真公をお祀りして建立された「学業成就、家内安全」を祈願するお宮である。

宇津神社

 天神山を下ってしばらくすると、宇津神社があります。 道案内が無いと見逃してしまいそうな小さなお社です。

宇津神社
 御利益は、身体健康です。
 当社の本社は、広島県御手洗島の鎮守である宇津神社である。 同社は、創建以降2200年に及ぶという古社である。 明治19年(1886)、同社の社家の嫁越智たち子が、神得を広めようと岩国今津中之丁に「払戸教会」を設立し、昭和7年(1932)に現在地の今津天神町に遷座した。 昭和22年(1947)、「宇津神社」と改称した。

今津恵比須

 今津の商店街の一角にある小さな恵比須さんです。 今回は、見落として白崎八幡宮の方に行ってしまい、だいぶ道を戻ってようやく見つけました。

今津恵比須
 御利益は、商売繁盛です。
 今津恵比須神社はもともと事代主命を御祭神とする白崎八幡宮の末社で、1784年(天明4年)に今津中の町に御分祀されました。戎さまは、ご存知のように左脇に鯛を右手に釣竿をもっておられます。 そのお姿は、漁業の守り神であり、海からの幸をもたらす神を象徴しています。 当社の鎮座地もかつては海岸沿いにあり、物資の集まりやすい土地柄、海の種々の産物と里の産物、野の産物とが物々交換される、いわゆる「市」が開かれていました。
 時代が経るに従い、市場の隆盛は商業を発展させますので、いつしか福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念する神として厚く信仰されるようになりました。 今津恵比須神社では、旧えびす講に近い土曜・日曜にえびす祭を開き、商業を護る神様として篤く崇敬されています。

 今津恵比須から白崎八幡まで、今津の商店街と思われる裏道を歩いて見ました。 なかなかのお屋敷町で、大きな家がたくさん有り、ちょっと吃驚しました。 その中で、目に付いたものを写して来ましたので、紹介します。

竹を燻したもので編んである塀です。
老梅が咲いていました。青空に映えてきれいです。

白崎八幡宮

 昨年改築したらしく、敷地が広くなっていました。 そのせいか、開運五社参りの影響か、境内に上がる階段の途中から行列が出来ています。 一昨年に初詣に来たときはそんなでもなかったのですが、とにかく大盛況です。 結局、並び初めてから参拝出来るまでに20〜30分もかかってしまい、ウォーキングで暖まっていた身体がすっかりと冷え切ってしまいました。

白崎八幡宮  御利益は、家内安全です。
 当宮は鎌倉中期、建長二年(1250)1月、時の領主清縄左衛門尉良兼(今地氏遠祖)が、遠石八幡宮神が白鷺と化して室木に垂跡することを知り、氏族の繁栄と領内安民守護の神として今津琵琶首に八幡宮を創建奉斎したことより始まりました。 その後百年を経て、貞和4年(1348)9月良兼の息子弘中堂内源兼胤(清縄を弘中と改姓)を願主として現在地白崎山に壮麗な社殿を造営し社領を寄進して奉還、旧岩国17ヶ庄の産土神と仰ぎ領民と共に深く尊崇されました。 後に、兵火に罹ったものの、文亀3年(1503)完工以後弘中三河守隆兼に至る迄代々弘中氏が大宮司を奉仕し、弘治元年三河守失脚後孫今地良房が宮司を継承、今日に至っています。
 岩国初代藩主吉川廣家が、慶長5年(1600)岩国に入封した後、慶長16年に社殿を改築すると共に社領を献じ、武運長久と国郡豊饒を祈願し歴代の藩主もまた八幡宮を尊崇し、庶民は等しく産土神と仰いで加護を祈願崇拝しました。 社殿は元和・万治・天和・宝永および寛政と5回に亘り改修築され、その後明治17年に神殿を、大正10年に拝殿を檜皮葺で改築、また昭和44年9月に拝殿を、昭和59年8月に本殿を銅板葺きにした。
 さらに、平成12年に創建750年の式年を迎えた。

 これで五社参りは終了です。 岩国にしてはなかなか良い企画だったのではないかと思います。 住んでいながら近くの事を意外と知らないものだと云うことを再認識させられるとともに、いろいろと新しい発見をする事が出来ました。 気の早い話ですが、毎年開催されるのなら来年も是非参加したいと思います。



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