千恵は無機質な声で円周率を唱え続けた。
延々と続く数字に眩暈と頭痛を覚え、「少し休憩」と言おうとしたが、あまりの気分の悪さに声も出せず、僕は倒れた。それでも数字の洪水は止まらない。耳を手で塞いでも、千恵の声が頭の中で反響する。
ただ数字を言っているだけなのに、何でこんなにも苦痛になんだ。これでは拷問だ。曇りガラスに爪を立てることなんて比較にならない。
僕は耐えきれず、失神した。
それから、どれくらいたったのだろう。
目を覚ますと窓の外は夕暮れていた。僕は起きあがって部屋の中を見回して、その奇妙な光景に気づいた。
奈津美が横たわった千恵の首を締めていた。
千恵の両手は力なく投げ出され、表情はぐったりしている。奈津美の顔はまるで料理中のように、どこか楽しそうだ。
目の前で何が起きているのか、僕にはわからなかった。しかしそれも一瞬のことで、僕はすぐに奈津美を突きとばした。
「なにやってんだっ」
突きとばされた奈津美は畳の上でうずくまり、千恵はゲホゲホと咳き込んだ。
「これはあなたのためなのよ」
低く穏やかな声でそう言って、彼女は顔を上げた。顔にかぶさった髪の隙間から、まっすぐな視線が僕を見つめている。僕は、その瞳に異常な光があるのように感じた。
「千恵の首を締めるのが僕のためだって?」
「ええ。だってこの娘あなたを誘惑していたじゃない」
自分の耳を疑う。感情が絶望的に失われていて、本以外に興味がない千恵が僕を誘惑するはずがないし、された覚えもない。されてもガキに興味はない。
「千恵には敵が送りこんだ悪霊が憑いているの。それがあなたを誘惑するように千恵を唆したのよ。それを追い出すために私は首を締めていたの。朗くん、危なかったわね。あと少しであなたは敵の手に落ちるところだった。その証拠にあなたは倒れていたじゃない」
夕日を背に受けて奈津美は微笑んでいる。
「だから私の邪魔をしないでね。邪魔されると千恵を助けることが出来ないから。もう少しで千恵の肉体から悪霊が、誘惑する蛇が抜けるの」
僕が倒れたのは円周率を聞いていて気分が悪くなったせいだ。そして体から抜けるのは悪霊じゃなくて、千恵の魂じゃないのか。そう言いたかったが、不気味な奈津美の前では声も出せない。
「あれじゃ千恵は死んじまう。仲間を殺す気かよ」
「殺す? 違うわ、悪霊が消えて千恵は生まれ変わるの」
ぶっ飛んだ話が、さらにぶっ飛ぶ。
「そんなこと無理だ、できっこない」
「無理じゃないわよ。私たちは敵を倒すまで何度でも生まれ変わるわ。私たちも転生して、そしてまた出会ったじゃない。忘れたわけじゃないでしょ? それとも忘れてしまったの?」
「千恵が生まれ変わらないで、死んだままだったらどうすんだよ。誰が責任取るんだよ。殺人の幇助なんて、僕は嫌だぞっ」
変な妄想があるのはまだ許せるとしても、さすがに人殺しの現場を黙っているわけにはいかない。
「そう、あなたにも」
がくん、と奈津美の頭が垂れる。
「悪霊が憑いているのね」
もう一度、僕は自分の耳を疑った。
「ちょ、ちょっと待てよ」
どうしてそうなるんだ?
「だからさっきから千恵をかばっているんだわ」
「話を聞けって」
「もういいわ朗くん。私があなたを元に戻してあげるから」
近くに置いてあったアイロンを手に奈津美は立ち上がった。
「誤解だって、奈津美っ」
奈津美は髪の毛を振り乱して僕に向かってくる。これじゃあまるで狐が憑いたとか言って、病人を殴り殺してしまう祈祷師じゃないかっ。
振りまわされる凶器のアイロンが次々と家具を破壊していく。襖が破け、FAXが叩き潰され、花瓶は粉砕された。僕は逃げることしかできず、しかもゴミ箱を踏んで転びそうになった。そこへ奈津美が僕めがけてアイロンを投げる。額にアイロンが命中して、僕はぶっ倒れた。その上に奈津美が乗り、アイロンのコードで僕の首を締める。
「黒き悪霊め、朗くんの体から早く出ていきなさいよ!」
額から流れる血が目に入り、視界が真っ赤に染まる。奈津美はコードで僕の首を締め続ける。僕は何とか首とコードの間に指を入れようとしたが、もの凄い力で締められて隙間がない。息のできない僕の意識はだんだん遠く………って、それはまずい!
僕は必死になって家具や日用品の散乱する床に手を這わせる。その手がさっき踏んづけたゴミ箱を掴み、とにかく僕はふりまわした。
「ぎゃっ」
頭か顔に当たったのか、短い悲鳴を上げる奈津美の手から力が抜けた。僕は首からコードを外して、奈津美を押しのける。咳き込みながら目に入った血を指で拭い、玄関へと走った。狂気と妄想に付き合うならまだしも、殺されるのだけは嫌だ。絶対に嫌だっ。
ヒュン!
その直後、包丁が僕の頬をかすめて玄関のドアに突き刺さった。背中から冷や汗が噴き出る。恐る恐る後ろを振り向くと、台所の前に奈津美が立っていた。
荒い息遣い。
血走った目。
ビリビリに破けて伝線したストッキング。
乱れた髪。
彼女の姿に僕の両脚が震え出し、動けなくなる。その隙に奈津美は僕とドアの間に入り、包丁を引き抜いた。
しまった、出口を塞がれた。
「どうして逃げるの。私はあなたを助けたいのに」
だったらこのまま見逃してくれ。
「それとも私が嫌いなの? あなたは千恵の方が好みなの? なんであんな娘が良いの? まだ子供じゃない。私じゃダメなの? そろそろお肌の曲がり角だから? この先はもう醜く老いていくだけの私よりも、まだ未来のある千恵の体が欲しいの? 私、あんなに愛してあげたじゃない。ねえ、あなた本当に朗くん?」
まさか、奈津美は千恵に嫉妬しているのか?
そんな疑問が頭に浮かび僕は言葉を失った。
「答えられないんだ。そう、そうなの。やっとわかったわ。あなた、朗くんの偽者ね。だから答えられないのね。だから私から逃げようとするのね。逃げてどうするの。いいえ逃げられると思って? ここは私の作り出した結界。そう簡単には逃げられないわよ」
偽者でなくても逃げ出したくなる。
「本物の彼をどこに隠したのよ。返しなさいよ。アレは私のものなの。私だけの恋人、誰にも渡さないっ」
僕が彼女にしてきたのは妄想を増幅させることだけだった。その上で衣食住、そして金と体を要求していたのだ。
殺されても仕方がないのかもしれない。
でも、僕は死にたくない。
「本物の朗くんを返しなさい」
奈津美は両手で握り締めた包丁を僕につきつける。
「やめてくれ、僕は本物だっ」
声は裏返り、目から涙が滲み出る。
「返さないなら、偽者は死ね!」
奈津美は叫び、そして包丁の刃が僕の腹に突き刺さった。
「あ」
一瞬遅れてくる痛みと熱。刺されたショックで全身から力が抜ける。立ってられない。僕は尻餅をつくように倒れた。まるで自分の腹から包丁がはえているようで、とても気持ち悪い。奈津美はゆっくりと近づいてきて、僕の腹から包丁を抜いた。痛い。熱い。血が止まらない。僕は傷口を手で押えるが血は流れ続ける。
どこからか死神の足音が聞こえてくる。
僕の上に再び奈津美が乗り、包丁を逆手に握った。
「あなたを殺せばきっと朗くんは帰ってくる。だから死になさい。前世では負けても、現世で勝つのは私たちよ」
奈津美が妄想の敵に勝っても負けても僕は帰ってこない。僕はただ死ぬだけだ。
「僕が悪かった、だから助けてくれよ、許してくれ………」
血と涙と鼻水と唾液で顔をどろどろにして、僕は奈津美に許しを請うた。もう羞恥心もプライドもない。助かるのなら、奈津美の足の裏だって舐める。
「頼むから助けて。救急車を呼んでくれ、助けてくれよ、死にたくないんだ」
でも僕の声は奈津美の耳には届かない。遠い眼差しで、穏やかな声で、彼女は死にかけた僕に語りかける。
「弱い人間が集まって自分たちの傷口を舐めあって生きていく、ささやかな行為すらも敵は奪ってしまうっ」
穏やかな口調が一転して激しくなる。
「そんな敵は一人残らず私が始末してやる。弱者の権利を踏みにじる敵は滅べばいいのよっ」
奈津美が包丁を頭上高く振り上げた。
ひたひたと、死神の足音が聞こえてくる。
嫌だ、まだ死にたくない。
しかし足音は死神ではなかった。
まだ幼い千恵だった。
絞殺されかけたことなどもう忘れているような、いつもの無表情。
感情の存在しない千恵は顔色一つ変えずにこの修羅場を見ていた。
死神はここにいた。
そう、死神は――
続きは、本編で。