System reboot…….
















「すみません、室生さん」
 放課後の教室。帰り支度をしていた室生景朗ことカゲロウが顔を上げると、机の前にクラス委員長の文月こかげが立っていた。
「なんだよ委員長」とカゲロウ。
「えっと、あのう、その、ですねえ」
 俯いたこかげの顔は赤く、もじもじと胸の前で指を動かしている。背が高いのが彼女の悩みで、体を小さく見せようと縮こまることが多い。初めて会ったときは同じくらいの身長だったが、その後も彼女はすくすくと成長していて、カゲロウは2センチほど追い抜かれていた。
「用が無いンなら俺は帰るぞ。これから姉さんの見舞いなんだ」
「ご、ごめんなさい、用はちゃんとあるんです。だからまだ帰らないでください」
「だから、何の用だよ」
 すぐに人に謝る癖と、引っ込み思案なところがこかげの短所だ。何故、クラス委員長をやっているのかカゲロウには不思議でしょうがない。
「えっとですね、室生さん、わ、わわ私と、その、おおおおお付き合いしてくださいいい!」
 こかげはきつく両眼を閉じて、体を四十五度に折り曲げて、出せるだけの声を出した。
 カゲロウの眼は点になり、帰り支度や掃除の準備でざわついていた教室が静まり返る。
 そして教室中で一斉に歓声が上がった。
「おいおい本気か委員ちょ!」
「来ましたぁー、こっくはっくタァーィィム!」
「さあどうすんだ、室生!」
「どうしたのこかげぇ、だいったーん!」
 事態が飲み込めないカゲロウは周囲が何を言っているのかもわからない。耳に入らない。こかげは体を折り曲げて硬直したままだ。
「こかげ、違うでしょ。『相談したいことがあるか
ら、放課後ちょっと付き合ってください』でしょ」
 見かねたこかげの友人・譲原柚花が、渋い顔つきで彼女の肩を叩いた。
「え、私、ちゃんとそう言ったよね?」
 こかげは周囲の盛り上がりを理解できずに、困惑していた。
「言ってない言ってない。あんたはね、このバカに……」
 柚花はこかげの耳に口を近づけて、その先を言った。直後、こかげは顔を真っ赤にして、猛烈な勢いで弁解した。
「ご、ごごごごめんなさい室生さん、そんなつもりじゃなかったんです、本当はちょっと相談したいことがあっただけで、なにも室生さんの気持ちを無視するようなこと言いたかったわけじゃないんです、変な誤解させてしまって本当にすみません、許してください、ああもう私はなに言ってるんだろう」
 こかげはまくし立てて、自分の頭をポカポカと叩いた。
「はーい、そういうわけで、全然違うから、告白とかじゃないから、はい、解散、かいさーん」
 柚花が両手を振って声を張り上げる。
 ただの言い間違いと知って、教室中で落胆の声が漏れる。こかげは今にも泣き出しそうな顔だが、それはカゲロウも同じだ。
「委員長、ちょっとこっち来い」
 もう好奇の視線に晒されたくないカゲロウは、こかげの手を取って教室を飛び出た。
「おおっとカゲロウくん、実は委員長のことがまんざらでもないと!」
「嘘ぉ、室生くんのことちょっと狙ってたのにぃ」
「え、ちょっと本気ぃ?」
「まっさかあ、冗談冗談」
 背後でまたも好き勝手な歓声があがったが、カゲロウは聞かないように最大限の努力を払った。
 校舎の最上階まで階段を駆け上がると、屋上に出ることは禁止されているので扉の前でカゲロウは足を止め、人が来ないのを確かめる。
 扉の前にいるのは、カゲロウ、こかげ、譲原柚花の三人だけだ。
「なんで譲原がいるんだよ。俺に話があるのは委員長で、譲原はかんけーないだろ」
「こかげ一人じゃ心配だからよ」
 彼女は腕組みをして、仏頂面だ。その横で顔を真っ赤にして俯いている文月こかげ。
「すみません室生さん本当にすみません私のせいでご迷惑おかけしてしまってごめんなさい生きてて本当にすみません」
 こかげはまるで呪文か祝詞のように謝罪の言葉を繰り返しており、カゲロウは嘆息する。
「それで相談って? 誰かにラブレターを渡してくれってンならお断りだぞ。自分で渡せ」
「いえ、そういうのじゃないんです」とこかげ。
「そんなんじゃないわよ」と譲原柚花。
「譲原にゃ聞いてない」とカゲロウ。そして二人はガンの飛ばしあい。
「えっと、ですね、私たちのクラスに留名小鳥さんという女子がいらっしゃるんですけど、室生さんはご存知ないですか?」
「ご存知ないな」とカゲロウは即答。「まだクラスメイトの名前も覚えきれてないんだ」
 沸騰系の連続猟奇殺人犯に義兄を殺され、姉が廃人にされたのが高校の入学直前。それから一度も登校せずに犯人を捜し、冬野ひなたの罠にハマって重傷を負い入院していたせいで、まともに登校できたのはゴールデンウィーク間近だった。まだ数週間と過ぎておらず、クラスメイトの顔と名前を覚えきれていない。放課後は姉の見舞いに行くから部活もしておらず、クラスメイトとの付き合いも悪い。未だ友人や知人は同じ中学だった生徒に限られていた。
 だがカゲロウ自身は有名人だった。前述の事件の被害者ということもさることながら、ガーディアン・ナイツと協力して犯人を捕まえた不登校児ということで、校内で知らない者はいなかった。望むと望まざると好奇の視線に晒されるため、なおさらさっきのような騒動は願い下げだった。
 ともあれ、カゲロウは留名小鳥のことは何も知らない。そんな名前の女子がいたような気もしたが、顔は浮ばない。
「その小鳥さんなのですが、ここのところ学校をお休みしておりまして」とこかげ。
「室生と入れ違いで不登校になったのよ」と柚花。
 それなら覚えがないのも当然だとカゲロウは思った。考えてみれば教室に不自然に一箇所だけ空いてる席があったような気がした。
「まさか、そいつが学校に来なくなったのは俺のせいだとか言いたいんじゃないだろな」
 トゲのある柚花の言い方に、カゲロウはムっとする。見知らぬ他人が不登校になっただけだ、因果関係なぞあってたまるか、と彼は思う。
「いえ、そんな風には思ってません。んもう、柚花も変なこと言わないの」
 こかげは口を尖らせたが、柚花はプイっと顔を背けた。
「それはさておきですね、今回も私が小鳥さんのことを先生から任せられまして」
 カゲロウが不登校だった時にもこかげが様子を見に来た。その前に、学級委員長を騙る冬野ひなたが幾度となく来ていたのだが。おかげでカゲロウはすっかり騙されるハメになった。
「でも小鳥さん、全然会ってくれないんです」
「ま、がんばれよ。そのうち会ってくれるさ」
 しょぼくれた顔のこかげに、カゲロウは気のない返事をかえす。
「はい、がんばりますっ」
 だがこかげは顔を輝かせた。引っ込み思案な性格のわりに前向きなヤツだとカゲロウは思ったが、そのあとの彼女の言葉に度肝を抜かれた。
「それでですね、ちょっと作戦を変えまして、同じ不登校だった経歴を持つ室生さんから、小鳥さんを誘っていただけないかと、そう思いまして」
 誘う。
「つまり、説得しろってことか」
 ぶっとんだアイデアだと、彼は思った。
「はい」とこかげは満面の笑顔で言い、その後でこう続けた。
「それでご迷惑でなければ、小鳥さんの家に行く時は私もご一緒させていただけたら、そのう、嬉しいのですが」
 こかげは胸の前で指をもじもじさせる。
「あのさ、委員長。俺と留名小鳥とじゃ不登校になった理由が違うと思うぜ。そもそも俺は……好きで不登校やってたわけじゃない」
 こかげはびくっと体を震わせた。
「す、すみませんっ。そ、そうですよね、こんなことお願いするなんて、室生さんにはご迷惑な話だと思ってます、でも、もう他に方法が思いつかないんです。失礼なお願いだっていうのはよくわかってます。でも、どうか助けると思って、力を貸して頂きたいんです」
 こかげが必死に食い下がる。彼女はすぐ人に謝る癖があるが、こと交渉ごとになると粘り強い。カゲロウは高校を退学して姉のために働く気でいたが、結局こかげの熱意ある説得に負けて、通学するようになった。
「そう言われたってなあ……俺が行っても、何の役にも立たねーと思うけどな」
 カゲロウの表情は渋い。あんな事件さえなければ彼は普通に高校生をやっていたはずで、姉だって義兄と幸せな家庭を築いていたはずだ。事件は解決したが、根本的な問題は未解決だ。実行犯は未だ意識不明でベッドの上、間接的な犯人の冬野ひなたは逃亡中、あげく廃人の姉の腹には赤子がいる。産むか堕胎させるか、義兄の親族を含めた親戚一同でも答えが出ぬまま時間だけが過ぎていた。だから、留名小鳥の事情にまで気を向ける余裕はなかった。
「そんなことありません、室生さんは誰かのために何かができる人です、私が保証します」
 漠然とした言い方だが、彼女は自信満々だ。
「買いかぶり過ぎだよ、委員長」
 カゲロウは背中がむず痒くなる。
「室生、あんたさあ」
 黙って話を聞いていた柚花が口を開いた。
「自分が不登校だった時の授業のノート、こかげから写させてもらったんでしょ。借りを返そうとは思わないワケ?」
 カゲロウは痛いところを突かれる。登校するようになってしばらくの間、こかげのノートを写していたのは事実だ。こかげから申し出たことだったが、さすがに向こうが勝手に見せてくれたことだとは、言えない。
「あ、いや、あれはいいんです、貸しだなんて私全然思っていません、私が言い出したことだし、んもう、柚花も変な話を出さないでよ」
「あたしは、室生を誘おうっていうこかげの案には反対だし、嫌なんだけど、男がウダウダ言い訳してゴネんの見るのはもっと嫌なの」
 二人の言葉がカゲロウに追い打ちをかける。
 そこまで言われては選択肢は一つしかない。
「わかった。行くよ付き合うよ。不登校か登校拒否か知らんけど説得すりゃいンだろ説得すりゃ」
 半ばやけくそな返答だったが、こかげは満面の笑顔を見せた。
「ンで、いつ行くんだ。今日これからか?」
「はい、ずばり今日です」と即答するこかげ。
 願わくば、さっさと終わらせたい気分のカゲロウだったが、本当に今日だとは思わなかった。
「でも小鳥さんのご両親は共働きなので、夜になってからの方が都合が良いのですよ。でないと玄関の扉も開けてくれませんので。いつも部屋のドアの前までは行けるのですが……けれど室生さんなら小鳥さんの心の扉も開けるって、私、そう思うんです」
「……その根拠、何処から来るんだよ」
 こかげは己には自信が持てない弱気な少女だが、他者の可能性に対しては強気で保証する。しかし、自分が行ったところで本当に力になれるのか、カゲロウにはやはり疑問だった。



 留名小鳥の家を訪問するのは10時近くという話になった。その時間なら父母のどちらかが帰宅しているらしい。遅すぎるとは言えないが、早いとも言えない時間だ。
 留名小鳥は一人っ子だという。ひょっとして両親が共働きで帰宅が遅いのが不登校の原因の一つじゃないかとカゲロウは思ったが、それなら不良化するほうがまだ自然な気がした。
 いずれにせよカゲロウにはカゲロウの事情があって不登校になったように、留名小鳥には留名小鳥の事情があって不登校になったのだろう。
 待ち合わせの前に、カゲロウは四季市記念総合病院へ姉の着替えを届けに行った。面会時間ギリギリまで居たが、それでもまだ余裕があった。病院を出たカゲロウはゲーセンで時間を潰そうと思い、友人のシンゴを誘おうとしたが、彼女といるらしく、気のない返事が返ってくるだけだった。仕方なく一人でゲーセンに向かう。
 駅前への近道になるので、カゲロウは市営団地の一角にある公園を横切ろうとした。
 そこは駅から道路を数本挟んだ場所にあるマンモス団地だ。立地条件は良いが老朽化が進み、空室も目立つ。まったく入居者のいない棟もあり、そこは鉄条網で封鎖されていたが、深夜ともなれば不良と暴走族の溜まり場と化す。カゲロウが来た時はまだ小学生ぐらいの子らが遊んでいたが、とっくに陽も暮れて今は彼ひとりだ。
 いや、まだ一人だけブランコで遊んでいる子がいた。暗くなってきたので性別はわからないが、一回転しそうなほどの勢いで漕いでいた。すぐ前には砂場がある。カゲロウは小学生の頃を思い出す。限界までブランコを漕いで砂場へジャンプして、どこまで飛べるかシンゴと競いあったが、低学年が真似して危険だからと教師どもが禁止にしてしまった。
 そこでブランコの子供が勢いよくジャンプ、綺麗な弧を描いて砂場へと10.0の見事な着地を決めた。おお、とカゲロウは唸ったが、直後に子供は真正面から倒れてしまう。
 ばすん、と砂場にめり込む音。倒れた子供は動かない。カゲロウは大慌てで駆け寄る。
 子供はバンザイの格好で、うつ伏せのまま砂場に突っ伏していた。近づいて初めてわかったが、腰まで伸びた金髪の、黒いドレスのようなワンピースを着た少女だった。スカートの裾からやはり黒いレースのフリルを覗かせ、ニーソックスを履いた足は棒のように細い。
 少女がまったく動かないので、カゲロウは抱き起こしていいものかどうか躊躇した。変に頭を打っていたらと思うと、触ることもできない。
「ぷっはあああああ」
 少女は両手をついて顔を上げた。心配が杞憂で終わったカゲロウは、ひと安心する。
「おい、大丈夫か。どこも痛くないか」
 顔は砂まみれだったが、少女はきょとんとした眼でカゲロウを見ていた。ずいぶん幼い。小学校に入学するかしないかぐらいだろうか。
「おにいちゃん、だあれ?」
「誰って、通りすがりの、高校生?」
 何故か半疑問系で答えるカゲロウ。
「トワね、パパとママから、知らない人にはついていっちゃいけないって、言われてるの」
 カゲロウの頬が引きつる。無愛想なのは認めるが不審者ではない。だが相手はガキだし、言ってることはもっともだと自分に言い聞かせる。
「ま、大丈夫そうだな。立てるか?」
 カゲロウは中腰になると手を差し伸べたが、少女はぷぅと頬を膨らませた。
「トワ、ひとりで立てるもーん」
 言葉の通り少女は立ち上がると、砂まみれになった服を両手で掃った。身長はカゲロウの腰ほどまでしかない。
 ゴシックロリータとかゴスロリとか言うんだっけか、とカゲロウは少女の服を見ながら思った。確か文月こかげも好きな服だ、でもあいつは色が淡いピンク系が好きだとか言ってたな、それだとゴスロリとは違うのかな、これ以上背が高くなると似合うのがなくなるって困り顔だったな、しかしあいつなんでそんなこと俺に話したのか――カゲロウは放課後の図書室で、服のカタログ片手にため息を漏らすこかげの姿を思い出す。その隣で彼は、自分が不登校だった時の授業のノートを写させてもらっていた。
「おにいちゃんは、だあれ?」
 少女が小首を傾げて、同じ問いを繰り返した。見た目は金髪で鳶色の眼だが、話している言葉は紛れもない日本語だ。ハーフだろうか。
「誰だっていいだろ。それよりガキはもう家に帰る時間だぞ」
 とっくに陽は没し、夕餉の時間だ。
「ガキじゃないもん。トワだもん」
 それが少女の名のようだ。
「そーかよ。じゃーな、さっさと家に帰れよ」
 といってカゲロウは踵を返そうとしたが、ズボンの端を掴まれた。
「トワね、パパを待ってるの」
 カゲロウは、トワの言葉の意味を量りかねて眉を狭めた。
「ママはね、今はいないの。『オトウト』かね、『イモウト』ができるから、おうちに帰ってるの」
 幼児特有の、脈絡のない会話だった。
「なら、おとなしく待ってろよ」
「でもね、パパ、いつ来るかわからないの。さがしてるけど、どこにもいないの。トワね、よくパパと一緒にブランコで遊ぶの。だから、ブランコで遊んでればパパに会えると思ったの」
「ああ、おまえ迷子になったのか」
「迷子じゃないもん」
 カゲロウの言葉にトワは頬を膨らませた。
「立派な迷子だろ。しょうがねえな、交番まで連れてってやる。住所とか電話番号のわかるもの持ってるか?」
「トワね、パパとママから、知らない人にはついていっちゃいけないって、言われてるの」
「この際、そういう問題じゃ」
「おにいちゃん、だあれ?」
「室生景朗だ」
 カゲロウは根負けした。
「どういう字を書くの?」
 質問攻めに辟易しながら、カゲロウは砂場の砂に指で字を書く。
「こう書いて『むろうかげあき』って読むんだ。 かげろうじゃないぞ、かげあきだからな」
 カゲロウは念を押す。
「トワ覚えたよ、かげあき」
「いきなり呼び捨てかよ」
「トワはね、カミヤマ・ガリエナ・トワっていうのね」まだ漢字を書けないのか、トワは全てカタカナで砂に指を走らせた。
「カミヤマはパパのみょーじで、ガリエナはママのみょーじなの」
 真ん中のガリエナは漢字だとどう書くのか、一瞬だがカゲロウは真剣に考えてしまったが、少女の言葉でやはりハーフなのだと思った。
「こーばんに行けば、パパに会えるの?」
「親切なおまわりさんが会わせてくれるさ」
「ふうん。じゃあ、かげあき。抱っこして」
 トワはカゲアキに両手を差し出した。
「……はあ?」
「トワつかれたの。もう歩けない。抱っこして」
「歩けないって、なあ、おい」
「歩けないのはトワなの。抱っこして。パパなら抱っこしてくれるよ」
 というようなやりとりを数回繰り返し、折れたカゲロウはトワを抱きかかえた。
「きゃー、高いたかーい」
 トワは歓声を上げてカゲロウの首に両手を回したが、彼の顔は引きつっている。兄妹と言えなくもない年齢差だが、黒髪と金髪では兄妹と思われにくいだろう。間違っても誘拐犯とか不審者と思われたくない。それに同じ高校の人間や顔見知りにも会いたくない。何を言われるのかわかったものではない。
「……まったく、俺がロリコンの異常犯罪者だったらどーすんだよ」
 トワの髪からはシャンプーの良い香りがする。体重は問題ではなかった。むしろ変なところに触ってしまわないようにカゲロウは気を使う。
「ろりこんの、いじょーはんざいしゃ?それ、なーに?」トワが小首を傾げてカゲロウを見た。
「ガキは知らなくていいことだ」
「かげあきは抱っこじょうずだね。パパの次にじょうずだよ」
 また会話が繋がらないが、もうカゲロウは気にしなかった。
「そいつはどーもありがとな」
 さて交番だな、と思ってカゲロウが歩き出そうとした時だった。
「なにやってんだ、景朗」
 背後で聞き慣れた声。反射的にカゲロウは振り向いた。赤いジャケットにベレー帽、ガーディアン・ナイツの制服姿の椿七緒が立っていた。
「な、ななななななななあな七緒、さん?」
 一番見られたくない人間に見られてしまったカゲロウの声が裏返り、何故かさん付けになる。
「どうしたんだ、その女の子」
 カゲロウと幼女の組み合わせに、七緒は不思議そうな顔になる。
「いや、俺は、別にやましいことは何も考えてないからなっっっ」
「はあ?」
 七緒は顔をしかめた。その顔を見て、少しだけカゲロウは冷静になる。本当にやましいことは考えてないのだから、何も焦ったりする必要は無いのだ。そう、なにも七緒とて変な誤解は――
「この人だーれ、だーりん」
 そう言ってトワがカゲロウへと頬を寄せた。
「ダーリン!?」とカゲロウ。
「ダーリン?」と七緒。
 七緒とて変な誤解はしないだろう。カゲロウの希望的推測がトワの一言で打ち砕かれる。
「景朗。そんな小さい子に何を教えて……」
 見る間に七緒の顔色が変わっていく。
 そしてカゲロウの腋と背中に嫌な汗がにじむ。
「誰がダーリンだ、さっきまではかげあきって呼び捨てにしてたくせにっ」
「だってトワ、ママから聞いたよ。好きな男の人のことは『だーりん』って呼ぶんでしょ」
「好きもなにもさっき会ったばかりだろ」
「でもトワ、タカシくんよりもトモくんよりもかげあきのこと好きだよ。『愛に時間は関係ない』ってママから聞いたもん。おばさんもそう言ってたよ」
「おまえ意味わかって言ってんのか」
 こんな小さな子になんてことを教えるママと叔母だと彼は思ったが、それより今は七緒だ。
「はははははは。ま、子供の言うことだからな」
 カゲロウは笑顔をつくろうが、腕組みする七緒の視線は冷たい。
「そうだな。カゲロウ」
「なっ……カゲロウじゃなくて、景朗って呼べって言っただろ」
「うるさいカゲロウはカゲロウでじゅうぶんだ」
「……なに怒ってんだ?」
「怒ってない」
 七緒はそっぽ向く。
「七緒ーっ、あんた何やってんの」
 そこへ橘晶までやってくる。
「パトロールの時は、原則二人一組で行動っていつも言って……ああら、室生カゲロウくんじゃない。どしたの、その子」
 さらに話のややこしくなりそうな予感に、ますますカゲロウの顔は青くなる。
「橘支部長に報告します。椿七緒はカゲロウが幼児をかどわかしている現場を取り押さえました」
 七緒は晶の前で仰々しく敬礼した。
「かどわかす? 彼が? 子供を?」と晶。
「ダーリンって呼ばせてます」と七緒。
「俺が呼ばせているわけじゃ――」
「ねえ、だーりん。早くパパのところへ連れてってよう」
 カゲロウの言葉は、トワの声にかき消された。
「犯罪ね、七緒」
 晶のジャケットの両袖から黒光りするトンファーが滑り出た。その眼は、本気だ。
「犯罪だよ、晶姉さん」
 七緒が革のグローブをはめた両手の指を、ゴキゴキと鳴らした。
「待てよ誤解だ、誤解だからな二人ともっ」
 トワの重みを両腕に感じながらカゲロウは死を覚悟した。



「迷子なら迷子って早く言えばいいんだよ」
 路上に停めた晶のサイドカー付きのハーレーダビッドソンに腰掛けた七緒は、その傍らに腰をおろしたカゲロウを見た。
「だから俺は誤解だって言ったんだ」
 膨れっ面のカゲロウの頬には、両側に盛大な平手打ちの跡がある。
「そうだな、ダァリン」
「ダーリン言うな」
 棘のある七緒の口調にカゲロウは顔をしかめた。
サイドカーではトワが七緒の買ってきた缶ジュースを飲んでいた。晶はトワの家に電話をかけている。トワは住所と電話番号が書かれたカードを持っていた。迷子になった時の用心に両親が持たせていたのだろう。最初っからそれを見せてくれれば、ややこしいことにはならなかったのに、と思うカゲロウだが、もしかしたら彼はトワに遊ばれていたのかもしれない。
「連絡ついたわよー。すぐに迎えに来るってさ」
 電話を終えた晶が戻ってくる。
「まったく。やっと親の顔が拝めるのか」
 苦々しい顔でカゲロウは立つ。
「電話に出たのは おじいさんぽかったけどね」
「それよりカゲロウ。子供の前だぞ」と七緒。
「カゲロウじゃなくて景朗だ」
 皆、呼びやすいから彼のことをカゲロウと呼ぶ。幼い頃からあだ名で慣れてはいるが、正直なところそう呼ばれるのは好きではない。景朗と呼んでくれていた姉は、心が壊れてから彼の名を口に出すことはなかった。本名を教えてからは七緒は景朗と呼んでくれていたが……。まさか妬いてるんじゃなかろうな、と彼は思ったが、自惚れるなと言われてさらに酷いめにあわされそうだから黙っていた。
「そういや、今日はずいぶん早いご出勤だな」
 まだ夜の八時にもなっていない。
 ガーディアン・ナイツが夜間のパトロールに出るのはもっと遅くになってからで、それに繁華街がメインのはずだ。
「最近ね、このくらいの時間に、このへんに変質者が出るのよ」と晶。
「だから重点的に見て回ってるんだ」と七緒。
「また沸騰系か」とカゲロウは最近急増中の異常者たちの総称を出す。
「ただの露出狂か痴漢よ。七緒の報告を受けた時はまさかキミがって思ったけど。いやー、ほんっとに誤解で済んで良かったわ、うん」
「俺は最初から誤解と言った」
 話をまぜっかえしたのはトワと七緒だ、カゲロウは付け足す。
「そうだっけ?」
 晶は笑ってとぼけ、七緒はそっぽ向く。
「ろしゅつきょーに、ちかんってなーに?」
 トワがカゲロウを見上げた。ガキは知らなくていいことだ、とカゲロウが言いかけたところで、遠くから「トワちゃーんっ」と声がした。
「ほら迎えが来たぞ――」
 しかし、どこかで聞いたことのある声だとカゲロウは思った。それは七緒も晶も同じだった。
「ダメじゃないトワちゃん、誰にも言わないで遊びに行っちゃダメって、いつも言ってるでしょ。お姉さん、ずっとトワちゃん探してたんだから」
 走ってきたのか彼女の呼吸は荒く、豊かな胸が服を内側から押し上げるように揺れていた。
「ごめんなさい、きょーこおばさん」
「んもう、叔母さんじゃなくて、お姉さんって呼んでっていつも言って……あら、皆さんどうしたんです? そんな顔しちゃって」
 神山鏡子は、唖然としたカゲロウと、顔を引きつらせた晶と、必死に笑いを堪えている七緒を不思議そうな顔で見た。
「……嫌な予感はしたのよね。苗字、同じだし」
 晶は途端に疲れきった顔になる。
「世間は狭いな」とカゲロウ。
 しかし血筋にこの叔母がいるのなら、愛に時間は関係ないとトワが言うのも頷けた。神山鏡子なら性別も関係ないと言い出しそうだが。
「でもこんな形で晶姉さまに会えるとは思ってもいませんでした。あの、もし良ければこのあとお茶でも――」
「いいえまだ仕事中ですから。それより姪御さんの前ですよ神山さん」
 鏡子の眼鏡の奥では瞳が輝いているが、対象的に晶の瞳は腐りかけの鯖だ。
「そうですか……残念です」鏡子はため息を漏らすとトワを見た。「それじゃあトワちゃん、お姉さんと帰りましょう」
「やだ。トワ、パパが来るまで待ってるの」
「パ、パパはね、明日には帰ってくるわ」
 不意に鏡子の顔が曇った。
「きょーこおばさん昨日もそう言った。一昨日も、その前も、おじいちゃんとおばあちゃんもそう言った。パパ、いつ帰ってくるの?」
「きっとお仕事が忙しいの、きっとそう」
「トワ、パパに会いたい、会いたいのっ」
 トワの瞳に涙が滲み出し――そして。
「会いたいんだもん、う、う、うわあああああああああああああああああああああああんっ」
 トワは大声で泣き出した。
「な、泣かないでトワちゃん。トワちゃんはいい子だから、ね?」
 鏡子はトワの泣き声に狼狽し、晶は「あ〜、爆発した」と、ため息を漏らす。
「おい。泣いてたってパパは帰ってこないぞ」
 大人たちが狼狽するなかで、七緒だけが屈みこんでトワの頭を撫でた。
「いい子で待っている子供のところへ、パパってのは帰ってくるもんなんだ」
「……サンタクロースかよ」
 呟いたカゲロウの腹に七緒の裏拳が炸裂した。容赦のない一撃に、彼は前屈みになって咳き込む。
「パパが帰ってきた時、泣いてる顔なんか見せたくないだろ? 笑った方がいいに決まってる」
 そのあとで、七緒は「おまえも何か言え」と言いたげな視線をカゲロウに向けた。
「こ、このお姉ちゃんの言う通りだぞトワ」
 カゲロウは打たれた腹を押さえながら言った。
「それにトワは転んでも泣かなかった強い子じゃないか。だからパパが帰ってくるの、おとなしく待ってられるよな?」
「……いい子にしてれば、パパ帰ってくる?」
 涙と鼻水でどろどろになった顔で、トワはカゲロウたちを見上げた。四人は、一斉に頷く。
「……うん、トワ、いい子で待ってる」
 トワは涙を両手の甲で拭う。まだ、しゃくり声を上げていたが四人はそっと胸を撫で下ろした。
「ほら、これを使え」
 七緒がフリルの付いた白いハンカチをトワに渡した。カゲロウには、七緒にしては珍しく少女趣味なハンカチに見えた。トワは渡されたハンカチで鼻を盛大にかんだ。
「あ」と七緒が小さく声を出す。「あのハンカチ、カゲロウに返すやつだった」
「……俺のかよ」
 正確にはカゲロウの姉のハンカチだ。偶然ポケットに入っていた姉のハンカチを七緒に貸したのが、食人鬼こと偽犬養を二人で追い詰めたにも関わらず土壇場で逃げられた時だった。あの時、カゲロウは初めて涙を流す七緒を見た。
「さて、帰りましょうトワちゃん。お腹も空いたでしょう?」と鏡子。
 トワは頷いて、サイドカーから降りた。
「さ、お兄ちゃんとお姉ちゃんにお別れして」
「……バイバイ、お姉ちゃんたち。バイバイ、だーりん」と言ってトワは手を振る。
 最後までダーリンかよ、とカゲロウは苦笑する。
 鏡子は三人に頭を下げると、トワと手を繋いで路駐している自分のミニバンへ向かう。トワは左足を引きずっていた。ケガか障害だろうか。トワに抱っこしてほしいと言われた時のことが、カゲロウの頭をよぎる。
「ふうむ。人ん家の事情に首つっこむ気はないけどさ、なーんか複雑そうね」と晶。
「まさかパパはムショにお勤め中とかじゃないだろうな」とカゲロウ。
「余計な詮索だよ、カゲロウ」と七緒が嗜める。
「そういや、意外と子供のあやし方がうまいな」
 カゲロウは七緒の意外な一面を見た気がした。
「ガキが泣いてるのを見るのは嫌いなんだ」
 しかし七緒の表情は、沈んでいた。


(中略)


 七緒たちと別れた後で、カゲロウは駅前のファーストフード店で夕飯を取った。
 公園での騒動のせいかひどく腹が減っており、ハンバーガーを三つたいらげた。腹が膨れると途端に睡魔が襲い、そのまま店内で眠ってしまった。
 ケータイの着信音で彼は眼を覚ました。
 かけてきたのは文月こかげだ。待ち合わせ時間をとっくに過ぎており、カゲロウは慌てて店内を飛び出たが、結局十五分の遅れ。こかげは気にしていなかったが、譲原柚花は怒り心頭だった。カゲロウは平身低頭で謝るしかなかった。
「けどよ、これまで一度も会ってくれなかったんだろ。俺が行ったところでどうにかなるのか」
 カゲロウはこかげから渡された、留名小鳥の写真を見ながら歩いていた。ゲーセンで撮影したと思しき親指大の写真シールだ。クラスメイトと一緒に笑顔の小鳥が写っている。整った顔立ちの、健康的な少女だ。部活は陸上部だという。
「だったらアンタは帰んなよ。いつものようにあたしたちだけで行くから」
「ゆーずーかー。せっかく室生さんも来てくれたんだから、そんなこと言っちゃダメだよう」
 こかげが柚花を嗜めるが、彼女はそっぽ向く。
「すみません室生さん、気にしないでください。ああ見えて柚花ってば恥ずかしがり屋さんなところがありまして……室生さん?」
 こかげと柚花が別の路地に入ったが、カゲロウは写真を見ながら歩いていたせいで気づかない。
「おい、カゲ――」
「こっちですよ室生さん」
 こかげがカゲロウの手を取り、何故かそのまま腕を組んで、路地へと入る。
「い、委員長?」
 カゲロウは困惑する。腕を組む必要ねーだろと思ったが、二の腕に当たるこかげの胸の感触に声が出せなくなる。それを見ていた柚花が咳払いした。
 こかげは柚花の視線とカゲロウの朱に染まった頬に気づき、慌てて離れる。
「すみませんっ、その何と言うか、つい勢いで」
「いや、まあ、いいから。さっさと行こうぜ。あんまり遅くなんないほうがいいだろ」
 視線を逸らしつつ頬を掻くとカゲロウは振り返った。自分を呼ぶ声を聞いた気がしたからだ。 
 しかし、夜の街に知った顔は見当たらなかった。



 似たような形の建売住宅が並ぶ一角に留名小鳥の家があった。オレンジの壁にグレーの屋根。狭いながらも庭には緑の芝生が植えられ、チャコールのドアの前にカゲロウたちは立っていた。
 呼び鈴を鳴らして待てども誰も出てこない。
「まだ帰ってきてねーンじゃねーの」
 家の窓からも灯りは見えない。
「うーん、小鳥さんはご在宅だと思うのですが。一歩も家から出ていないと聞いてますので」
 こかげが再び呼び鈴を鳴らす。
「すみませーん、小鳥さーん、文月ですー。しつこくまた来てしまいましたが、少しでいいのでお顔を見させていただけませんかー」
 声を張り上げたが、やはり返事はない。
「……誰とも会ってないなら、ドアも開けてくれないよな」とカゲロウ。
「はあ。また無駄足です。すみません室生さん、こんな時間まで付き合わせてしまいまして」
 ガチャリ。
 チャコールのドアが軽く軋む音をたてて開く。
「鍵、かかってないね」
 開けたのは柚花だった。そのまま彼女は暗い室内を覗き込んだが、中は静まり返っている。
「無用心だな。最近は物騒だっつーのに」
「上がっちゃおっか」
「だ、ダメだよ柚花、勝手にお邪魔するなんて」
「もう上がっちゃったもーん」
 止める声も聞かず、柚花は靴を脱いで上がる。
「いいじゃない、これまで何度も来たのに一度も顔を見せないのよ。いつも親を出させて『誰にも会いたくない』の一点張り。毎回毎回すごすご引き下がるのもバカバカしいじゃない」
「だから引き篭もりって言うんだろ」
 だが引き篭もりなら、カゲロウの不登校とは根本的に異なる問題だ。彼は食人鬼を追うのに躍起になって、学校は二の次三の次だったにすぎないのだ。
「こーゆー感じの家なら、部屋はたぶん二階ね」
 ずかずかと柚花は階段を上がっていく。
「んもう、柚花ってば」
 遅れてこかげとカゲロウが上がったが、かすかに人の声が聞こえた気がした。だが、ただの家鳴りかもしれない。気にはなったが、二人はそのまま階段を上がる。
「留名ぃー、いるんでしょー。同じクラスの譲原だけどさ、ちょっとでいいからここ開けて顔見せてくんないかなー」
『小鳥の部屋』というプレートが掛かったドアを柚花が叩いたが、返事は、ない。
「小鳥さん、文月ですー。えっと、勝手にお邪魔してしまって悪いと思っているのですが、私たちでお力になれることでしたら、相談に乗りますので、あの、クラスの皆さんも、先生も心配しております、声だけでも聞かせていただけないでしょうか」
 緊張しているのか、こかげの言葉にはまとまりがない。そして、やはり返事はない。
「ほら、突っ立ってないで室生も何か言いなよ」
 柚花が肘でカゲロウを突いた。
「何かって……やっぱ、いねえンじゃねえか?」
「でも部屋には鍵がかけられてる。つまり、中にいるってことよ」
「……室生って……室生、カゲロウ?」
 そこで、ドアの向こうから掠れた声がした。
「カゲロウじゃない、景朗だ」
 脊髄反射的にカゲロウは言い返していた。
 柚花は瞳を丸くし、こかげは顔を綻ばせた。
「凄いです室生さんっ。声が聞けただけでも大きな前進ですよ」
 こかげは素直に喜んでいるが、カゲロウの顔は渋い。自分は留名小鳥のことは何も知らない。中学も違う。入れ違いで不登校になったのだから顔を合わせたこともない。だが彼女は自分を知っている。自分の知らない人間が自分のことを知っていると、トラブルに巻き込まれる。先月からそんなことばかりだ。それとも警戒しすぎなのか。あの事件のせいで自分は有名人になってしまった。向こうが名前ぐらい知っていてもおかしくない。
 ガチャリと鍵の開く音に、三人は息を呑む。
「……あんたが、室生?」
 わずかにドアが開き、乱れた髪の小鳥が顔を覗かせた。寝癖のついた髪はひどく乱れ、肩にはフケが積もっていた。クマのできた眼には大きな眼ヤニがこびりつき、頬は脂でぬらっとしている。寝巻きがわりの高校のジャージはすえた臭いを放っている。
「お、おう」
 小鳥はカゲロウだけを見ていた。健康的だった写
真の姿が欠片もない今の姿に、彼は圧倒される。
 想像以上の小鳥の様子に、こかげと柚花も言葉を失っていた。
「ああ、あああああ、やっぱりだ。やっぱり、あんたは、そうなんだ。そうだったんだ」
 一人、小鳥は納得したように頷いてみせた。
「そうか、あんたが室生、室生室生むロウむろ」
 小鳥は『室生』と繰り返し、ジャージのズボンに手をつっこんだ。何かを掻くように手が動く。
「お、おい留名?」
 明らかに様子がおかしい、カゲロウが不審に思った直後だった。
「くたばれ。この沸騰系め」
 小鳥はズボンの中からバールを引き抜くや、カゲロウめがけて振り下ろす。弾かれたように彼はドアから離れる。一撃目はドアに当たり不発。だがバールはドアを突き破った。柚花は身を竦ませて、こかげは悲鳴を上げて柚花に抱きつく。
「離れてろっ」
 カゲロウが力任せに二人を突き飛ばした直後、ドアから引き抜かれたバールの二撃目が彼を襲った。とっさに彼は首を倒す。頬をバールの鋭利な先端が掠める。それで終わらず、部屋から飛び出た小鳥がカゲロウにのしかかる。
「室生さんっっっ」
 こかげの絶叫。突き飛ばされた時にこかげのクッションになった柚花は目を回す。
 カゲロウに馬乗りになった小鳥は、左腕で彼の首を押さえつけ、右手のバールで彼の眼を狙う。
 カゲロウは両手でバールを掴んでいたが、先端が少しづつ左眼に近づいていく。女とは思えない力で首を押さえられて呼吸もできない。顔が見る間に赤、そして青白く変わっていく。
「沸騰系め沸騰系め沸騰系め沸騰系めおまえのせいでおまえたちのせいで私はどこに行けなくなってしまって留鳥のように部屋の中に留まっていることしかできなくなってしまった全部おまえだおまえのせいだおまえみたいな沸騰系がいるせいだ死ね死ね死んで懺悔しろ私に懺悔しろ世界に懺悔しろ全部おまえのせいなんだからな畜生」
 小鳥の視線にカゲロウの背筋が凍える。顔に開いた暗い空洞のような眼が、自分を見ていた。
「だ、が、ふっ」
 誰が沸騰系だ、という声は言葉にならない。意識が消えかける。バールの先端がまつげに触れるまで迫っても、首すら動かせない。
「死ね。沸騰系」
 小鳥がぞっとするような笑みを見せた。
「やめてくださいっっっ!」
 直後、こかげがなりふり構わず小鳥に体当たりした。こかげと小鳥はもつれあったまま廊下を滑り、そのまま階段から転げ落ちてしまう。
「こかげ!」
 続いて柚花が絶叫して、階段へと走る。
 呼吸の戻ったカゲロウは咳き込みながら這いずって、階下を覗く。こかげを下にして小鳥が重なるように倒れ、床には血溜まりが広がっていく。夜の闇を切り裂くような柚花の悲鳴が響き渡り、カゲロウは階段を駆け下りる。
 先に起きたのは小鳥だ。立ち上がるなり、バールを投げ捨て玄関へと走る。
「ざけんな!」カゲロウの髪が逆立つ。「譲原、文月をっ」怒りで我を失った彼には、そう叫ぶのが精一杯だった。
 彼は小鳥を追って玄関を飛び出る。
「バーカ」
 それがカゲロウの失敗だった。
 玄関から外へと逃げ出したはずの小鳥は、すぐ脇に、園芸用のレンガ片手に潜んでいた。ずどん、とレンガがカゲロウの腹にめりこむ。彼は前屈みに崩れて、夕飯のハンバーガーをぶち撒ける。
「死んじゃえ。おまえなんか、死んじゃえ」
 小鳥は頭上高くレンガを掲げ、痛みで身動きもできないカゲロウの後頭部めがけて――



(第一章「進化系人類」より抜粋。以下、本編に続く)









My lover is psycho.5th season.


















Boy & girl vs boilers.Never ending fight.









僕の彼女はサイコさん第二期シリーズ



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