パルテノン神殿

ブレーの門(Beule Gate)  −アクロポリスの入り口



アクロポリス入り口からの風景


海抜150m、市街地からは70m

アグリッパの像の台座(Pedestal of Agrippa)


これは、古代アクロポリスとは関係ない、2世紀ローマ時代のもの

パルテノン神殿へ


人がものすごいです

プロピレア(Propylaia:前門)へ


左に北翼、中央楼、右に南翼の建物(写っていない)と組み合わせになっている。
左右はイオニア式(エレクティオン参照)、中央はドリア式の柱
ギリシア神殿の3つの様式とは、これらにコリント式(ゼウス神殿参照)が加わる。

プロピレア門(前門)


中央楼は、ドリア式の柱。
柱は太くどっしりしていて、上にいくにつれ細くなる。柱頭には飾りはないが、全体として重厚
このタイプのものはパルテノン神殿、スニオン岬のポセイドン神殿が有名

パルテノン神殿(西側)


アテネの守護神アテナを祀ったパルテノン神殿は、市内のいたるところから見える。
大きさは、横31m、縦70m、柱の高さ10m 
柱の下部の直径は2m、建物の周囲約160mに46本の柱が立っている
15年の歳月をかけて紀元前438年に完成
実は前門から見られるこの風景は裏側(西側)

パルテノン神殿  


全体としては重厚なドリス式だが、内部の柱など部分的にはイオニア式を取り入れている。曲線と曲面を組み合わせた緻密な設計、見事な彫刻など、古代建築の最高傑作のひとつ

パルテノン神殿の浮き彫り(レリーフ)・破風


神殿全体が彫刻像や浮き彫りなどで飾られた一大芸術作品だった。
レリーフ(浮き彫り)は神話や古代歴史の場面をテーマにしており、柱頭と屋根の間のメトポ(額のこと)にはめられていた(写真下側)。そこには周囲160mに90枚以上のレリーフがあった。
また破風と呼ばれる正面と裏面の屋根の三角部分には(写真上側)、大きな彫刻像がおかれている。
これらレリーフや破風の像の一部はアクロポリス博物館や大英博物館、パリのルーヴル博物館に保存されているが、ほかはほとんど残っていない(19世紀初頭にイギリスやフランスの探検家や収集家が持ち去る)。
ここにあるのは模作

パルテノン神殿


ドリア式の柱は、中間にふくらみがあり、上部は細い。柱は垂直ではなく、少し内側に傾いている。これは、屋根の重さを支えるため。柱の表面には20本の溝が彫られており曲線美をだしている。柱と柱の間隔は等しくない。また、角の柱は他の柱よりも太い
これらは、建築美学と現実的用途が十分に考慮されている

2500年の歴史


神殿は、前5世紀に建てられて以来、2500年の間に様々に姿を変えてきました。
そもそもは、ギリシアの他の神殿もそうであったように極彩色に塗られていた。
4世紀末にギリシアがビザンティン(東ローマ)帝国に組み込まれると神殿はキリスト教の大聖堂となった。神殿の内部にあった巨大なアテナ像は、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブール)に持ち去られた(現在は失われている)
さらに15世紀半ばにオスマン・トルコの支配下に入ると神殿はイスラム教のモスクに改造された
1987年には、トルコと争っていたヴェネティアによって砲弾が打ち込まれ、北側、南側の円柱20本以上が一瞬にして崩れ落ちた。このとき神殿は弾薬庫としても使われていた。

パルテノン神殿(東側)


こちらが表側
前5世紀中、アテネは世界に先駆け民主政を確立し、黄金時代を迎え、政治指導者のペリクレスがペルシア軍に破壊されたアクロポリスの復興計画を打ち立てた。
計画の目玉は守護神アテナの神殿、パルテノン神殿の建設であり、天才彫刻家フェイディアスの総指揮により15年かけて完成した。建材には、アテネ近郊のペンテリコン山から切り出した最高級の白大理石が使われている。




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