いよいよドキドキのホームページデビュー
(2005年1月4日 火曜日 晴)
皆さんよいお正月をお過ごしでしたか。日本は穏やかな三が日でしたが、テレビが伝えるスマトラ沖大地震の死者は15万人にも上るとか、茫然と言葉を失います。
ホームページは開店早々なのに年末年始はお休みを頂いておりました。その間に「ホームページ開設のご案内」の作業を、一人孤独にシコシコと行っていたというわけです。それもこれも、「なんぶニュース99号」をサボっていたツケです。ニュースにアドレスを書けば、皆さん(それも全世帯の皆さん)知ってくださるのですから、お金使って、時間使って、労力使っておまけにしんどい目をしてまでこんな作業をすることなんかなかったのです。こうやっていつも「楽あれば苦あり」を懲りずに繰り返しております。反省っ!
それでもうれしい事もありました。早速「祝HP開設」とメールを数人の方から頂きました。高槻市議の二木洋子さんは「あかるい表紙に微笑みかける南部さん、とても迫力があります」と誉めて(!?)くださいましたが、「やっぱり顔写真はでかすぎたか、迫ってくると怖いよね」とまたまた反省。「二木さん、金縛りに会わなかったですか?」心配しています。
そんなこんなで除夜の鐘ライブに出かけられなかった私のために“師匠”はかわいらしい鐘つき堂のイラストから「ごーん、ごーん」とBGMを流してくれました。私はおかげで百八つの煩悩を払うことが出来ました。これは大晦日だけ一夜限りのバージョンで、皆さんに紹介できなかったのは残念でした。
明日は役場ヘ“初出勤”です。12月半ばに情報公開請求をしていた文書が開示されるので閲覧に行きます。議会、町長部局、教育委員会、行政委員会、水道事業管理者の町の全機関に寄せられた要望、苦情、質問、意見等とそれらに対する回答が出てきます。相当な文書量で1件1件見てコピーを撮ると結構時間がかかります。私は年間を通してこの請求を行っています。住民の声はこんな形でも拾えるのです。
「ホームページ見たよ」のメール届く
(2005年1月5日 水曜日 晴)
「ホームページ開設のご案内」2回目の発送分が届き始めたようで、続々とはいきませんが「見ましたよ」とメールが送信されてきます。皆さんよく見てくださっていて、画面展開の解りにくい所や文章のまとめ方、誤字など指摘して下さっています。ありがたいことです。
今日も引き続き「ご案内」の発送作業をしますが、家具屋さんが夫のパソコンデスクとキッチンのカウンターの組み立てに来て、中断すること度々です。未熟者の私より頻度高くパソコンに接する夫の希望を入れて、小さな家の割にはでっかいデスクを買ったはずなのに、瞬く間に機器類で机上は占有されてしまいました。
私は部屋を見渡した時に「モノ」がドッと目に飛び込んでくるのはとても嫌なのですが、「何でも出しといたら便利」の夫は意に介していません。
夕方役場に行きます。情報の開示を受ける為です。案の定文書の量が多くて、閉庁時間ぎりぎりまでかかりました。開示された住民からの要望、苦情は多岐に渡っています。交通安全対策、公園・道路の整備、防犯灯の設置、中学校給食、子育て支援関係(学童保育、次世代育成支援行動計画、児童の安全対策にかかわるもの)等がその中身です。
乳がん検診「異常」なし
(2005年1月6日 木曜日 晴)
今朝は4時に起きました。保育サポートの報告を昨年末提出できず、残していた分を書くためです。今日から保育サポートがまた始まります。まだ冬休みなので学童保育室(学校)へ送ります。7時20分〜8時45分までのサポートです。早いもので、保育サポーター活動も、もう直ぐ1年を迎えます。
10時には保育サポートグループの話し合いに出かけます。サポーターの全体リーダー会での報告を私たちのリーダーから受けます。自立をめざす運営のあり方などが話し合われたとのことですが、なかなか困難なようです。次回のリーダー会には私が出席する予定です。
次に郵便局へ行き、スマトラ沖大地震への支援カンパを送金しました。貧者の一灯ですが、私たち家族の祈る気持ちを込めました。
早起きをしたので、昼食の後ちょっと“牛“になっていたら、2時からの地域医療・保健事業推進協議会の傍聴に間に合わなくなってしまいました。
けれども、情報公開請求をしていた文書の公開を受けるので、役場へ出かけます。来年度の当初予算要求書を閲覧して、必要なところをコピーします。高さにして10cm、1枚1枚見ていくのは根気がいります。これでも4課分が未着です。
4月に町長・議員の選挙があるので骨格予算なのですが、新しい予算もいくつか見られます。多方面から要求があった歴史文化資料館関係で文化財学芸員への報酬が計上されています。また来年は国勢調査の年なので、その関係予算も見られます。
帰宅すると、乳がん検診の結果が届いていました。ドキドキしながらあけると「異常なし」でほっとし、うれしかったです。
もう直ぐ安心して遊べるよ・・・森前公園
(2005年1月7日 金曜日 晴)
学童保育室へ送る保育サポートが終わり、すぐに役場に出かけます。
まずは、議員年金の現況届に必要な住民票をとります。国会議員をはじめとして地方議員の年金も縮小・廃止を求める声は高まっています。その方向性は正しいし、残念ながら頷かざるを得ない一部議員の実態があります。
私は昨年末初めての年金を頂いたばかりです。12月27日の日記にも書いていますが、本当にうれしかったです。
確かに「好き」でやっている活動なのですが、日々の活動費はやりくり出来ても、例えば“市民版JR新駅設置とその周辺の保存・整備計画”冊子の作成費や、高槻市との合併にメリットがないことを示す為に行った連続12回の学習会費用とまとめた「合併財政シミュレーション」冊子代は、ずっと私のお財布を圧迫してきました。
しかし、頂いた年金でこれら支出の3分の1は補填することができました。私の年金は“生きた年金”となって、皆さんに少し還元することができたと思うと、そのことがうれしかったのです。
ただ、年金の使途は決められているわけでもありませんから、○○に使ったからOK、或はNOと決められないものです。ですから私も早晩の改革に賛成です。
年金現況届を議会事務局に提出したついでに、先の12月議会一般質問者全員の議事録反訳原稿(テープ起こし後未修正の原稿)をもらいます。議会傍聴とあわせると、これで議員と同時に情報を入手していることになります。誰でも請求用紙に記入し、コピー代を払うだけで受け取れます。正式の議事録が出来上がるのは数ヶ月待たなくてはなりませんから、必要な際はお試しください。
次に産業建設課で東大寺3丁目にある森前公園の遊具整備について、進捗状況を訊ねます。「現在業者に見積もりを依頼しており現行予算で対応できるので、もうしばらく待ってください。」との答えでした。
幼いこどもが日々当公園を利用しているなかで、余にも危険度が高い遊具の整備を求めて役場に来たお母さんの訴えを、年間継続して請求している情報の中に見つけたのは10月の終わりごろでした。
現地確認に訪れた時、たまたまその母子に出会い話しを聞くことが出来ました。さらには2度目に行った時もまったく偶然に会い、しかもその時は役場の担当職員が調査にきている時で、私も立ち会うことできました。
従って、これは整備の完了まで見届ける役目が私にあると言う事だと思い、庁舎内で職員に会うたびに“お尻をたたいて”いました。
何とか目途がついてよかったです。早春の光の中で、安全なすべり台や新しい遊具で遊ぶこどもたちと、見守る保護者の姿が目に浮かんできます。
情報の開示閲覧と新たな情報の請求をして役場を出ました。ポカポカと暖かく人家の紅梅が膨らみをみせ、2,3が開花していました。
いつも“旬”の人でありたいな
(2005年1月8日 土曜日 晴)
まだ「ホームページご案内」の発送作業を続けています。300人ほどの友人、知人あてなのに一人だと一向に終わりません。皆さんのお顔を思い浮かべながら手書きで住所を書いているのと、ついつい手紙文の余白にメッセージを書いてしまうから長くかかっているのだと思います。
もうお正月が終わったのに「おめでとうございます」は間が抜けていますよね。今日から後に届く方にはごめんなさい。
うれしいことに返信用の葉書やメールには、心のこもった励ましの言葉を添えていただいています。もちろん厳しいご意見もあります。私は厳しいご意見こそ心して拝聴しなければならないと思っています。
「もう若い人に任せてはどうですか」の提言には、「うーん、60歳は若くは無い歳ですか?」。私は今がちょうどバランスのとれた、心も体も軽やかで、異なる意見も踏まえ仕事ができ、自分に自信が持てる、そんなよい時期だと思っているのですが、どうでしょう?私には、老若男女にかかわらずお手本とする“旬の人”が一杯いらっしゃいます。私もかくありたいと努力いたしたいと思っております。
午後に、タイに行っていた長男が帰ってきました。国王の孫も大津波で死亡し、恒例のカウントダウン騒ぎも無く、2人寄れば災害の話になる。バンコクの町は変わらないけれど、ひとびとの気持ちはザワザワしているように感じたといいます。
夜、島本町のホームページで審議会等の会議日程を確認します。ところで、議会の特別委員会会議日程はなぜ町のホームページで知らせないのでしょう?議会の情報提供は本当に遅れていますね。
議員定数削減等検討特別委員会・・・・1月13日(木) 午後1時30分(役場3階委員会室)
だれでも傍聴できます
情報は「シツコイ性格」で生きたものになります
(2005年1月9日 日曜日 晴)
世の中3連休なのですね。「あなたはいつでもお休みやんか」と言われればそうなのですが、でもやっぱり日曜日はのんびり感があります。
夫と長男は義母のお見舞いに出かけました。92歳の母はもう殆ど意識もなく、チューブの栄養で命を維持しています。年末年始、私たちタイへの家族旅行も「大丈夫」との医師の言葉はありましたが、やっぱり土壇場でキャンセルしました。
そんなこんなで、「明日読もう、ちょっと落ち着いたら整理しよう」のたぐいの文書が机の上で増殖しています。書類はほとんど情報公開で求めたものです。これらは私の活動の基礎となるものなので、しっかりと頭に入れます。そのためには今日のようなノンビリタイムがある日がチャンスです。
フムフム・・・町は町営住宅入居者のA氏に対し、町の誤った判断と事務により未だに、いやこれからも不当な「居住を続けていっていいですよ」とお墨付きを継続しているんだ。(町は不当ではないと言い張っていますが、自ら決めた入居の資格要件を放棄したことで、今後は自宅を有したままで町営住宅の入居が可能であることを“天下”に保障してしまいました。)
フムフム・・・清掃工場のごみ焼却2号炉で、年末に一部崩壊の事故があったようです。1月いっぱい1号炉のみで対応する為、夜中の12時まで稼動しているとか。地元協議や焼却業務の変更をおこなっているはず。それにしても億の予算をかけた新しい改修工事の箇所ではないでしょうね。
これらはその他の「フムフム」とともに、更なる情報公開請求を行っていきます。
元青年の家除去工事は本当に安全・安心ですか?
(2005年1月10日 月曜日 晴)
つたないホームページを開いてから、たくさんのお声を頂いています。直ちにお返事を返すのがインターネットのよさなんですが、宿題を頂いている方には遅れがちで、大変申し訳ありません。
画面に係るアドバイスも多くありますが、出来る範囲で改善してみましたが、いかがでしょうか?
例えば日記の文章のダラダラ書きを、せいぜい5〜6行までを一つの塊にしてまとめ、段落ごとに1行あけるとか、日記の標題を各日1日ごとに分るようにするなど少し工夫しました。
文字の大小、BGMの有無はお好みで設定が可能です。ご自分に適した画面を視聴できると思います。
さて、12月17日の日記にも書きましたが元青年の家の除去工事が始まっています。近隣住民、特にピッタリお隣の第一幼稚園に対する防塵、防音などに対して保護者間で不安が高まっています。
工事の実施設計一覧には、アスベストやPCBの有害物質は「ない」とされていますが、なぜ「ない」といえるのかが分らなくては安心できません。
驚いた事にこれだけの大規模な取り壊し工事なのに、幼稚園の保護者には冬休みの前に紙切れ一枚の「お知らせ」があっただけといいます。
至急工事は中止して、今一度保護者対象の説明会が必要です。急がば回れです。丁寧に進めてこそ、新駅への理解も深まるのではないでしょうか。
幼稚園−教育委員会事務局ー都市整備課ー大阪府少なくともこの4者は園児、保護者そして幼稚園職員に安心と安全を与える責務があります。勿論近隣住民に対しても、言うまでもない事です。
ホームページをご覧になって、私とメールをやりとりするなか、お母さん方が自主的に行動を起こそうとされています。私の情報発信が少しはお役にたっている事を知って、うれしく思っています。
ドイツから応援に行くよ
(2005年1月11日 火曜日 晴)
10年前、ちょうど阪神淡路大震災の年に故郷ハンブルグに戻ったドイツ人の友人から、うれしい電話が入りました。4月ちょうど選挙の頃に、島本町に「帰って来る」といいます。
私たちは20年に渡りメゾン水無瀬に住まいし、子育てを共にしながら日々の付き合いを深めていましたので、彼女が「訪れる」というよりやっぱり「帰って来る」のほうが、私にも子どもたちにもピッタリ感じます。もちろん町内のたくさんの友人も同じ思いでいると思います。
私たちは日常の様々な疑問を、一住民の素朴な「問い」として島本町に投げかけていました。そしてそれらは必然的に「平和を希求」する活動となって、小さくとも島本ではじめての、組織や後ろ盾のない住民運動が始まりました。
彼女が絶えず私に投げかけていた言葉は「貴方は、どう思うの?」。つづく言葉は「その思いは言葉にしなくちゃ伝わらないよ」でした。この言葉は私の子どもたちにも絶えず投げかけられ、しどろもどろになっていた子どもの顔を今でも思い出します。30歳前後の息子たち2人にとっても、いまだに「おばちゃん」はピシット背筋が伸びる存在です。
「帰って来ても貴方はたくさんの友人と会う為忙しいね」と訊くと「私はあなたの決意の実現のために、応援にいくのです。」との返事がかえってきました。
うれしくて、楽しみで、チョット涙が出そうになりました。そして、彼女らしいストレートな返答がおかしくもあり、懐かしさが一気に戻ってきました。
おばあちゃんが亡くなりました
(2005年1月12日 水曜日 晴時々時雨)
明け方前、夫の母が死去しました。92歳でした。意識はすでに遠退いていましたから本人は感じていたとは思いませんが、周りの家族を含め、やっと苦しさから解放され、「長い間お疲れ様でした」との思いが誰の胸にも去来しました。
大正の初めに生まれ、戦中戦後に3人の男の子を育てていくのは、食べるものひとつとっても大変な苦労だっただろうと思います。そう豊かでない警察公務員の家計で、子どもたちへの教育は十二分に力を注いだ人でした。自身も新聞や雑誌に投稿したり、株式投資をしたりと社会に開かれた視野を持ってもいました。
私が議員の仕事を頂いたときも、「好きな事を好きな時に出来る事はいいことや」と言ってくれました。
私たちの子どもである孫たちにもよくしてくれました。つぎつぎと手編みのセーターを用意してくれ、しかもどれもに手の込んだ素晴らしい編み込みが施されていました。近所の人びとに誉められ、私も子どももうれしく、誇らしかった記憶が今も鮮明に残っています。
時折みぞれ混じりの時雨が通り過ぎ、凍れる通夜でした。
仏さんと我が家へ帰る
(2005年1月13日 木曜日 晴)
告別式は無事終わり、お骨は長男である夫に抱かれてメゾン水無瀬にやってきました。葬儀社の人が手際よくリビングに祭壇を設えて帰りました。
これからは私が死ぬまで、仏さんとお付き合いしていくのですから「よろしくお願いします」と我が家での最初のお線香をあげました。
何となくホッとして気が緩み、急に疲れを感じます。背中がバンバンに硬くなっています。〜長い二日間が終わりました〜
どんど焼きで元気をもらいました
(2005年1月14日 金曜日 曇)
気分一新にと、午後から桜井地区の田んぼで行われる「どんど焼き」を見に行きます。戦前に行われていた行事ですが、4年前に「島本竹工房」のみなさんによって復活しました。私は毎年自宅のしめ飾りを焼いてもらう為持参します。
「どんど焼き」とは正月元旦に門松やしめ縄を飾って迎えた年神さまを送る行事です。正月飾りや書初めなどを燃やし、人びとは燃え上がる炎に無病息災、五穀豊穣、家内安全を祈ります。そして「年神さまはその煙に乗って帰るそうな・・・めでたし、めでたし」(当日配布されたチラシより)と伝えられています。
人の数がどんどん増えて田んぼの中の道は一杯になりました。何故か町長、助役、町長公室長、同理事までもが来ています。国会議員も一人マメに顔を出しています。
青竹を支柱にして藁で高く組まれたどんどのモニュメントに火が放たれます。巨大な火柱と舞う火の粉、竹がポンポン弾ける音にどよめきが起りました。
火柱が瞬く間に崩れ落ちると、いよいよお餅の出番です。1メートルくらいに切った割リ竹の先にお餅をはさんで、残り火の周りを取り囲み、餅をかざします。火に近ずけ過ぎ真っ黒にこげた餅、灰まみれになってしまった餅、いろいろあってみんなの顔が笑っています。
ホッコリ暖まった後、役場に行きます。たった2日間でしたが、いろいろ溜まってしまいました。悔しかったのは、情報公開の異議申立日が1日期限オーバーで受け付けられず、再度一から請求をやり直ししなければならなかったことです。
帰り道、澤嶋さんの事務所に寄ってお茶をご馳走になりました。
JR新駅の西側予定地付近
桜井の田んぼに作られた「どんど」と燃え盛る巨大な「どんど」の火柱
残り火を囲んで餅を焼く
「継続は力なり」
(2005年1月15日 土曜日 曇)
向日市議の飛鳥井佳子さんから私と長男宛に手紙がきました。飛鳥井さんとは20数年来の友人です。私たちに草の根市民の平和運動はかくあるべきと教えてくれた人でもあります。
彼女に最初に会った日のことは今も鮮明に覚えています。自宅の前で、数ヶ月の赤ちゃんを抱きジョンレノンの「イマジン」を歌いながらハンガーストライキをしていました。
当時米ソの核戦争の危機は「3分前」と言われ、その時計は進みつつありました。また原子力発電における「核の平和利用」の言葉のまやかしが暴かれ始めたころでもありました。
飛鳥井さんの運動は子どもたちが理解でき、子どもたちの自発性を引き出し、子どもたちがが自主的に活動出来るものでした。
子どもたちの中から「アメリカの大統領に直接会って手紙を渡そう」の声があがり、飛鳥井さんは、なんとそれを実現させてしまいました。大統領には会えなかったけれど、ホワイトハウスを訪れ、またペンタゴン(国防総省)では高官に面会が出来ました。
「子ども平和大使」としてワシントン、シカゴ、ボストン、ロスアンジェルスと各地で平和行進を行い、平和運動・環境保護団体の人々と交流し、子どもたちは一生の宝をお土産に帰ってきました。
当時の子どもたちは皆30歳前後になりました。長男を含めて自分たちの生活を送るのに、多分精一杯の日々でしょう。でも平和を願う意識をどこかで、なんらかの行動につなげる姿勢を持ち続けているはずです。
飛鳥井さんは、その後も休むことなく平和行進を継続しています。私たちへの手紙は「子ども平和大使」20周年を記念して、かつての 「大使」たちに行進参加を呼びかけたものでした。
飛鳥井さんの活動から、 「継続は力なり」をしみじみと感じます。そして私自身 「運動」の原点を懐かしさと共に確認をしています。
元「青年の家」除去工事でノコギリが降ってきた!
(2005年1月16日 日曜日 曇)
1月10日のホームページで、工事についての不安要素が多々あることと住民への説明責任が十分に果たされていない事から、私は「工事は一旦中止すべき」と書きました。
その後短期間の間に、アスベストなどの有害物質の有無に対する疑義のほかにも様々な心配事が次々と出てきました。
害虫駆除の為の有毒薬剤散布とその周知のあり方、焼却炉撤去時の近辺土質調査(ダイオキシン汚染の可能性があるかも)の必要性等々を含めて、工事の根本を揺るがす杜撰な出来事が起こりました。
隣接する第一幼稚園の保護者間で「ノコギリ事件」と称される”事件”です。保護者から頂いたメールでは、1月14日、園児が遊んでいる最中、園庭にノコギリが降ってきたと言うのです。
目撃した人と町側の話は噛み合わないところもありますが、一歩間違えば園児の命にかかわる事件となりかねませんでした。
塀を乗り越えて園に侵入し、ノコギリを取っていった工事請負労働者の非はもとより、根本的な安全管理対策の見直しが迫られています。
さらには保護者の通報を受けた幼稚園‐教育委員会‐都市整備課‐工事業者の対応はまったく不適切であったとも聞いています。
私は新駅設置に反対するものではありませんが、幼い子どもたちをはじめ多くの住民が長期に渡って安全・安心に係る大きな影響を受ける工事です。万全の対策のもと、説明責任を十二分に果たしながら進めていくのは当たり前のことです。
先ずは住民が求めている説明会を即、開くべきです。
議会関係の会議が次の日程で行われます。
* 議員定数等検討特別委員会・・・1月18日(火)2時から
* 建設水道常任委員会・・・・・・1月25日(火)10時から
島本町法定外公共物管理条例の審査
* 議員全員協議会・・・・・・・・1月27日(木)10時から
JR新駅関係の覚書変更、新年度議会費予算
場所はいずれも役場3階 委員会室
何事も無く一日が終わる幸せ
(2005年1月17日 月曜日 曇)
震災の被害状況を伝えるテレビの前で私は何日間も泣きました。テレビのニュースキャスターも滂沱の涙を流していました。しばらくすると、大災害の映像を見ているだけで、なすすべもない非力な自分が腹立たしくなって、また泣きました。
二週間後、被災地を訪れました。しかし水を運ぶ力もない、役立つ専門の職も持たない、長期にわたって滞在もできない私のような者は、まだまだ訪れてはいけないと深く反省しました。役に立つどころか、反対に迷惑になることが分りました。
私は自分の仕事(当時は2期目の議員を勤めていました)をしっかり果たして、仕事で頂いたお金を被災地に送ることを決めました。それが私の出来る最良の支援だと思いました。そして毎月の送金を6年間、私は議員を辞するまで続けました。私の行為はささやかな自己満足に過ぎなかったかもしれませんが、被災地と私を結ぶ一本の糸にはなったのではないかと思っています。
午後2時、慌てて飛んでいった会議の傍聴は、日を勘違いしていました。折角役場に来たので、各課の文書処理簿を見て情報のチェックをしてから帰りました。
夜次男が帰ってきて、また当時の話になりました。息子は自転車に詳しいので、芦屋の教会横で修理のボランティァをしました。多くの人びとに喜んでもらったことは忘れられないと言いました。
温かいご飯を食べながら会話を楽しむことが出来る、そんな何事も無く過ぎる時の大切さを今夜はかみしめています。
元「青年の家」除去工事、今度はパネルが降ってきた!
(2005年1月18日 火曜日 晴)
なんという事でしょう。4日前にノコギリが降って来たばかりなのに。第一幼稚園の保護者から、怒りのメールが飛び込んできました。「今日は、懲りずにパネルが(多分たたみ一畳分くらい)未だ、園児が帰宅しきっていない園庭に2枚落下してきました。」という内容です。
これはもう偶然に起きた事ではなくて、工事を請け負う側の安全管理に対する体制的な欠陥から引き起こされた事故、いや事件です。
さすがの町も連続して起きた重大な過失に対して、翌日19日の工事の中断と、保護者が要求していた説明会の開催を20日に行わざるを得なくなりました。
この際徹底的に工事管理の中身を見直すためには、1日だけの工事中断だけではダメです。保護者の納得は到底得られないでしょう。工事業者の子請、孫請等の精査も必要です。
町は説明会を通過儀礼のアリバイ作りにしてはなりません。真摯に事実と向き合い、住民の納得と理解が得られるまで工事の再開を行うべきではありません。
説明会での質問へのアドバイスと 「頑張って」のエールを保護者の方にメールしました。
午後2時から第2回議員定数等検討特別委員会の傍聴をします。冒頭に特別委員会の結論を出すタイムリミットを3月議会の議会運営委員会、つまり2月17日の前にするとの合意がなされました。4月には選挙が行われるというのに大丈夫なんですか?と私は思いました。
委員会での検討項目の論議に入りましたが、住民の声を聞く為にアンケートの実施云々の意見が、何故か議員削減派も加わって進められ、次回の検討課題になりました。
私は現在一住民であるし、常々「住民の声」を聞くべしと主張してきてはいますが、特別委員会がこの期に及んで一から「住民の意見を」というのは、余にも綺麗ごと過ぎて理想論過ぎて少ししらけちゃいました。
1年も2年も前なら議会改革に関するアンケートもいいかもしれないと思いますが、それでも議員の定数にかかわっては民意がどこまで正確に反映されるのか、疑問です。
私は議員の数を減らすか、そのままかは“議会”が住民に決めてもらう事ではないと思っているのです。一人ひとりの議員が日頃の活動をとうして住民の声を集め、真摯に耳を傾け、結論付けておくべきものなのではないでしょうか。そしてその結論を正々堂々住民に訴えかけて更なる理解を得る、つまりは議員の数は「あんたが決める事」なんでしょ!といいたいのです。
でも私はこれからも特別委員会を注視していくし、傍聴もちゃんとしていきます。しらけちゃって放り出してしまえば、いつまでたっても住民は「住民の声を大切に」と言う心地よい響きに惑わされていく気がするのです。
デザートにメロンパンはやっぱり重かった
(2005年1月19日 水曜日 晴)
昼食後、胸がムカムカしてしんどい。どうもニシンの酢漬けと食事の後のメロンパンがおなかの中で、それぞれの自己主張を始めたようです。
いつもの私ならなにを食べ合わせても平気なのに。寒かったお通夜が今頃になって堪え始めたのかもしれません。
とにかく少し眠る事にします。夜中に吐いて、少し楽になりました。楽になったので、ちょっとだけメールの確認をと思い開いたところ、第一幼稚園の保護者の方から、明日の説明会での具体的な質問内容が書かれていました。
2人の小さな子どもがいながら、本当によく頑張っておられます。説明会が開かれる明日(もう今日になっていました)の朝までには返事を返しておいてあげなくてはと思い、パソコンに向いました。午前3時送信して、後2〜3時間は眠れるとベッドに戻りました。
素敵な朗読グループの仲間たち
(2005年1月20日 木曜日 晴)
まだ体に力が入らなくてシャンとしません。短時間の保育サポートがつらく感じます。けれど今日はどうしても朗読グループの集まりに出かけなければなりません。義母の死去で、一週間延期してもらっていましたし、吹き込みの内容を打ち合わせた後の新年会では、いちおう幹事ということにもなっていますので。
朗読グループ「みなせ」は視覚障害をもつ人へ、オリジナルのテープ雑誌「そよかぜ」を年4回お届けしている小さなボランティアグループです。もう15年間くらい活動しています。
「町内の情報」や「町内の話題」ではミニ取材もして、身近な出来事を分りやすい内容でお届けしています。他には健康や食べ物、商品の情報、催しのお知らせ、テレビ等では伝えないチョットおもしろい世相の話題等をA面にみんなで分担して吹き込みます。B面は当番の一人が担当し小説などを入れます。
私は今のグループの前身時代から係っていましたので、広報しまもとや社協の広報紙も吹き込んでいました。長い間やっているのに一向に上手にならず困ったものですが、グループの皆さんの人柄にひかれて、今日までなんとかついてこれたと感謝しています。
一人ひとり人生の波を乗り越えながら、清々しく生きている彼女たちの姿に最年長の私が、いつも励まされています。ずっとずっと大切にしたい友人たちです。
町への信頼を取戻すことは出来なかった説明会
(2005年1月21日 金曜日 晴)
昨日行われた第一幼稚園での、元「青年の家」除去工事に係る説明会の様子が気になります。とりあえず園長先生、学校教育課長、都市環境部次長に電話を入れます。彼らは当然都合の悪い事は言いませんから、外枠的なことのみ訊いておきます。
出席者は84人で保護者の半数が出席し、行政側は都市環境部部長、次長、課長、教育委員会は学校教育課長、係長が出席、進行は園長が行いました。録音は採っていませんが、後日説明会の報告は起案(文書が作成され決裁を経る)されます。
ノコギリおよびパネル落下に対し、出席職員全員が起立し謝罪しました。15人の質問者があり、2時間余を費やしました。本日欠席の保護者には園長からの便りで報告するとのことです。
懸念されているアスベストは浴室に使用されていましたが、撤去され今は存在しないとか。(ヒェーッ!そんなん知らんかったよー。)工事履歴等の調査書を1週間後に提出することを約束しました。
私が聞いたのはざっとこのような内容でしたが、最も肝心な工事をストップさせる要求にたいしては「今日から再開しています。」と都市環境部次長は当然のごとく答えました。
その後、保護者の方から報告をもらいましたが、全員の感想でないにしろ、とても保護者が納得できる内容ではなかったようです。
僅か数メートルしか離れていない幼稚園にかかわり、工事車両の運行以外は全く視野に入れずに除去工事の安全性を疑うことなく進めた、そのことを町みずからが明らかにしたことは大変重大な意味を持ちます。
本当にこんなまま工事が進んでいっていいのですか?保護者の自発性を差し置いて、私が飛び出していくわけには行きません。(私ならあんな事もこんな事もやっちやうぞ!)
とりあえずは1月27日の議員全員協議会でしっかりと議員たちから町行政に糾してもらいたいと思います。子どもの安全を守るための安全強化については、与党も野党もないでしょうから。
おわびと訂正・・・・1月20日
* 朗読グループ「水無瀬」を「みなせ」に。
* テープ雑誌「曾よかぜ」を「そよかぜ」に。
お坊さんにはあまり質問するもんじゃないのかしら?
(2005年1月22日 土曜日 晴)
10時にお坊さんが来ます。今日はお義母さんの「ふた七日」のお経を上げていただきます。今まで仏事に伺う事はあっても、招く側に立つ事は無かったのでウロウロする事ばかりです。バタバタと片付けて、祭壇の前にお坊さん用のキンキラキンの分厚い座布団を出して「ホッ」、準備完了です。
お経が終わったと思い慌てて(お茶、お茶)と立ちかけると「奥さんもどうぞお座りになったままで」とお坊さんに制されてしまいました。私たちよりも数歳若いお坊さんで、気さくで親しみやすい人です。ついつい私の癖が出て、質問を重ねてしまいました。
法要のあと昼食は、身内ばかりなのでベトナム料理のレストランに行きました。年末年始のタイ旅行をおばあちゃんの容態で自粛したので、タイに行くといつも楽しみにしているベトナム料理が食べられませんでした。それでは「日本で食べるぞ」と近場のアジアンレストランを見つけておいたのです。(私のお腹はまだ少し不安定でゴロゴロいっていたのですが)
とても雰囲気のよい店内の設えと、サービスも丁寧で、お料理もおいしく、日本のお値段には見合った献立でしたが、タイのお店が無性に恋しくなってしまいました。
食事のあと私は抜けて、教育基本法の改悪をさせない学習会に行く予定でしたが、そうもいかずズルズルおつきあいをして、結局サボってしまいました。
祭事に費やす時間なんか微々たるものであって、自分の時間のやりくりが下手だけなだとは分っているのに、いつもしてきた事、例えば今日のように集会に行くこととかがスルスル抜け落ちていくのにはまだ慣れず、なんか辛い気分です。
帰ると、交野市の議員栗原俊子さんから議員活動通信とやさしい気持ち溢れる達筆の手紙が届いていました。「ホームページの訪問が1500人になったね」と喜んでくださっていて、うれしかったです。
町有地の賃貸料安すぎませんか?
(2005年1月23日 日曜日 晴)
ボーッとしているのに、ゆったりした心でいるわけでもない。セカセカしているのに、なーんにも進んでいない。そんな状態が続いています。あれもこれも、やらなければならないことを数え出すと両手の指で足らなくなってしまう。ちょっとイライラの日曜日です。
こんな状態はまだ体調がもと通りになっていない証拠かもしれない。昨日のベトナム料理はやっぱり重たかったかと、いやしんぼの自分に今頃落ち込んでいます。
午後からの「緑と水を守る会」の総会も欠席します。歩け、歩けの日頃の活動にはご無沙汰なので、せめて年に一度の総会には「出なきゃ」と予定していたのにと、不甲斐ない自分にさらに落ち込み急降下です。
木曜日までに吹き込んで朗読テープを仕上げなければならないため、ゴロゴロしながらも何冊かの本を手にとってみます。短編推理小説やエッセイ集の中から何篇かを選びました。明日下読みをしてから一つに決めることにして、次は溜まっている町の文書を一つでも二つでも片付けようと、目を通します。
新年度予算要求書の後段開示分の中で、町有地賃貸料のあまりの安さと賃貸契約の改善が見られないことに驚きました。
阪急駅前の“一等地”を某タクシー会社に1平方メートルあたり5,064円で、某協会には広瀬二丁目の宅地を2,420円で、Y住宅管理組合には若山台二丁目の土地を192円で貸しています。それぞれの経緯もあるのでしょうが、住民からみると納得がいきません。
また、職員駐車場徴収金は月1台4,000円で、「安いなー」と思います。町は民間から駐車場敷地を月50万円で借りていますが、徴収金はその半分にも足りません。財政が厳しいのですから細かなことでも 「入るを図り」、歳入の精査は厳しく行われるべきです。
ポカポカでノンビリで元気になりました
(2005年1月24日 月曜日 晴)
朝刊で茨木市議選の結果を見ます。市民派の桂睦子さんがトップ当選し、桂さんと共に立った新人の小林美智子さんも当選。よかった、おめでとう!
投票率は過去最低で44.96%でした。低いなー。この数字は評価できませんが、そんな中で政党や労働組合の組織に支えられること無く、市民派が頑張ったことは本当にうれしい事です。
北摂では、次の選挙は島本町です。島本の市民派の力が試されるのは春、4月です。
週の初めなので、町のホームページで会議の日程を確認します。なんと、議会関係の日程が新しく入っているではありませんか。私が1月8日付けのこの日記で「議会の情報提供は遅れている」と言ったことが、もしかして効いたのかもしれません。
ただ、折角載せたのに1月27日10時からの議員全員協議会のお知らせが抜けているのは残念です。(全員協議会の傍聴は、結構私が頑張って実現したのですよ。)
今日はポカポカと暖かく、小さな庭の掃除をしたり買い物に出たりして、役場に行かないノンビリデーの一日にしました。農業委員会の傍聴もパスしてしまいました。ゆーっくりしたからか何となく元気になった気分がします。
夕方からは朗読テープに吹き込む「みみずくの日々好日」より数編を音読してみます。黙読で気に入った章も音読するとしっくりこなかったりで、なかなかうまくいきません。結局本番は「一気にやろう」と、またまた一日延ばしにしてしまいました。
委員会傍聴
(2005年1月25日 火曜日 晴)
10時から建設水道常任委員会を傍聴します。「法定外公共物管理条例」を新しく制定するための委員会審査です。
法定外公共物とは、主に里道、水路などをさします。これらは国が所有管理しており日常的に私たちの生活に係るものではありませんが、土地を「さわる」時(建物を建設したり、土地を売買する時など)に、里道等があると、いろいろ手続きが必要でした。
地方分権一括法により、法定外公共物の管理が市町村に移管されることになったため、島本町として条例が定められる事になりました。今後、この条例に基づいて町の事務が行われるのですが、当然のことながら利害に係る責務も発生し、事務量の増大とともに「やっていけるのか、大丈夫なのか」との質疑がありました。
建設水道常任委員会は委員長を除くと、僅か3名の委員数なので、慎重審議をしたとしても割合短時間で済み、今日もお昼前に全員賛成で可決し、終了しました。
余談ですが、私は当委員会が他の委員会に比べて委員数が少なく、バランスを欠いていることに異議がありましたが、その声を受け止め改善する議会ではありませんでした。
お昼を澤嶋さん、平野さんと一緒に食べ、そのあと文化情報コーナーで次世代育成支援対策推進計画「島本町子育て支援プラン」(素案)を閲覧し、コピーしました。(内容のお知らせについては後日に譲ります)
当計画は現在住民福祉審議会で大詰めの審議がなされていますが、同時進行で計画の資料を住民が入手出来るようになっています。(勿論他の会議も同様です)
チョット前までは会議の日程すら分らず、傍聴もかなわず、傍聴できても資料なしでした。資料を得るには情報公開請求をして、15日間待って初めて手にする事が出来たのでした。
これら一連の改善については、私の頑張りが大きいんだよーと思っています。断られても待ちぼうけしても、何度も何度も会議の場所へ足を運びました。
何事も口だけではアカン、「うどん屋の釜やったらアカン」(湯、つまり言うばっかりやったらアカン)と私は父から厳しく教えられてきましたから。余計な事申しましたが、時折父のこの言葉を思い出して怠けそうになる私を奮い立たせています。
一日中家にこもっていました
(2005年1月26日 水曜日 晴)
明日の朗読ボランティアテープの吹込みの準備で、今日は家にいます。私の担当は「町内の情報」と「終わりの言葉」と「B面」を自由に使った吹き込みです。
「情報」はJR新駅事業のこれまでの簡単な流れと、現在第一幼稚園保護者が危惧している「青年の家」除去工事のことを合わせてお知らせする記事を書きました。テープの終わりにBGMとともに入れる記事は、その時々の担当者が思いを込めて語りかけるミニエッセー風のもので、みんなが力を入れる文章です。(テープの初めにも挨拶を兼ねた文章を入れます)
先ごろ亡くなった義母の“三七日”の読経のなかで「倶会一処」(「くえいっしょ」と読みます)という言葉を耳にしました。まったくどんな宗教にも縁のない私にとっては、今回B面で朗読する五木さんの本によって興味を持った文言でした。
〜真宗の信仰では、命つきるとき人はみな阿弥陀仏の懐に抱かれて、浄土に迎えられるという。「一処」とは、ひとつの場所。「倶会」は、共に浄土に往生し、先に逝った人びとと再会すると言う意味だろう。〜と五木さんは「マウイ島の倶会一処」で記しています。
五木さんは、かつてマウイ島を旅行した時、日本からの移民者の無数の墓碑が砂浜に放置されているのを見ました。墓碑の「南無阿弥陀仏」と共に書かれていた文字が「倶会一処」でした。
時を経て五木さんの実弟がなくなった時、弔電のなかにこの言葉があり、以降五木さんは親しい人とのお別れの際に「倶会一処、トモニ浄土二マミエン」とつぶやいているそうです。
やれやれ、失敗を繰り返しながら録音を全部終えた時にはもう夕方になっていました。
数ヶ所駆け巡って、今日は忙しかった
(2005年1月27日 木曜日 晴)
10時からメンバーが会しての朗読吹き込みがふれあいセンターであるのですが、我が儘を言って同時刻に開会の議員全員協議会傍聴にいかせてもらう事にしました。
したがって、私が担当の最初の記事である「町内の情報」は、Iさんが引き受けてくれる事に。自分が書いた記事ではないので、Iさんは読みにくかったと思います。すみませんとありがとうをつぶやきながら、全協の傍聴席へ。
傍聴者は私と第一幼稚園の保護者のかた2人でした。冒頭から変な約束事を議長が言い出しました。曰く「元青年の家除去工事に係る報告に対しては、質疑無しでお願いする」と。
市民派議員、共産党議員は当然ながら大反発します。議長、理事者(町長はじめ町職員)の誤算は与党議員複数からも「質問封じはおかしい」との意見が出たことでした。仕方なく「時間の範囲で」と議長がバツの悪さを言い訳して始まりました。
実は、幼稚園保護者たちから与党議員たちへ訴えの電話があったのでした。除去工事のしょっぱなにノコギリやパネルが園に振ってきたのですから、与党の議員も「質問はまかりならん」と同調するわけには行かなかったのでしょう。
「ノコギリもパネル落下も事故ではない。ましてや事件でもない。事象に過ぎない」「ノコギリ等工具の放り投げはよくやる事」等々、冒頭の反省の言葉が空虚に響いてしまう担当者の発言が飛び出します。
さらには、私たちが最も危惧しているアスベストの存在については、今にいたっても「分らない」状況です。青年の家建設当初にアスベストがどこにどのような状況で使用されていたのか、その後の工事履歴における撤去の具体的な内容はどうなのかが示されない事には、全く安心・安全な工事は望めないのです。
アスベストは本当に怖い物質なのだ、との認識が町には十分にないとしか考えられない対応です。目に見えず、拡散し、吸い込めば30年も40年も経ってから癌が発覚するのです。もしも誤った対応をとれば、とんでもない事になる、そのために厳しい法規制と具体の対策が定められているのです。町の危機管理意識が問われている事に気づいていないのでしょうか。
「あるのか、無いのか」の資料公開を明確にするまで、解体工事は凍結すべきです。新駅を造るなとは言っていません。なぜ、住民に説明責任を果たさず不安を与えたままで工事を強行するのか、全く理解できません。私はすごく怒っています。
同様の気持ちで糾した議員に「ないと確信して解体工事をしていても、隠れた所にアスベストが存在している場合もあるんだ。その時にちゃんと処理をすればいいではないか」との内容の答弁が返ってくる始末です。
いずれにしても、アスベストの問題は新駅設置事業の根幹を揺るがす事態に発展する可能性もあるだけに、町は徹底した情報公開を行い、住民の不安を完全に払拭することが第一義の務めです。
私はここまでで会議を退席、私の“出番”を待ってもらっている朗読の場へと急ぎました。
テープ作りの吹き込みが終わって、2時からの人権啓発施策審議会の傍聴をします。審議会の第一部会では、町の男女共同参画推進条例の審議が行われています。住民の意見募集がされて、今日はそれらの意見を審議会の素案にどう取り入れるかが論議されました。
私たち「男女平等条例を考える会」も意見を提出していたので、いつにもまして関心を持って傍聴に臨みました。
30分も待たされた挙句、待たせた説明もおわびもなく、会議が始まりました。住民からの意見で多数が提起した内容は、殆ど条例に反映されることなく終わりそうです。
まだ審議が終結していないので、これからの委員方の奮起を願うばかりですが、折角府内でも早い条例制定が、その中身で評価されないとすれば、こんな残念な事はありません。
「産む意思決定」にかかわる意見で、あまりにも委員方と私たちの意見が異なっていたため思わず隣の澤嶋さんと一言交わしたところ、事務局の町職員が寄って来て注意をしました。私は「すみません」と謝り、次の言葉を続けてしまいました。
「(落胆の意をこめて)ため息ならいいですか?」。驚いた事に、職員は「はい」と言ったのです。私は笑っていいのか、悲しんでいいのか本当のため息をついてしまいました。
選挙まであと約2ヶ月です
(2005年1月28日 金曜日 晴)
朝刊に島本町の選挙日程が載っています。
4月12日(火)・・・告示 4月17日(日)・・・投票日 です。
あと70日くらいで選挙が始まるんだと思うと、身の引き締まる思いがします。たくさんの人びとが関心を持って欲しいなと思います。島本の選挙民の高い意識を、投票率や投票結果に示してもらいたいと願っています。
町長選挙は私には関係ないのですが、いまのところ出馬を表明しているのは現町長だけです。議員選挙のほうは、いろいろ情報も飛びかっていますが、議員の数が現状のままであろうが、削減されようが多分選挙はあるでしょう。「無風」はよくないですから、私はホッとしています。
10時から議員定数等検討特別委員会があり傍聴したいところですが、同じ時間で保育サポーターのリーダー会議に出席(代理)するため諦めます。
会議では、いつまでも社会福祉協議会のお世話になれないため、自主的な運営を目指すための準備会的な会を作る必要性の合意が出席者間で確認されました。サポーター登録をしている全員に、意思確認の集会をもつお知らせを出すことにしました。
子育て支援のメ二ューは沢山あったほうがいいし、その中から個々人に合ったサービスを選ぶ事が出来れば、子育て不安の軽減に繋がるのではないかと思います。
保育サポーターは有償のサポートですが、依頼者との個別契約ですから小回りの効く対応がメリットといえるでしょうか。
次世代育成支援対策推進法に基づく行動計画が当町でも「島本子育て支援プラン」として、現在住民福祉審議会にて「素案」の検討が終盤を迎えています。「プラン」の中で、家庭における子育て支援として「保育サポーター制度」が登場しています。町として「安心で利用しやすい保育サポーターの活用を促進する」と述べられています。
お昼は議員控え室で平野・澤嶋議員の来客としてお茶を頂きながら、検討委員会の内容を聞きました。検討は進んでおらず、次回に住民意見を聞くいくつかの方法を話し合うようです。
これは検討したという形だけの特別委員会に「なる」というか「する」というか、期待薄の予感がします。
私が控え室におじゃまをしていると、次々議員が座り込んで話をしていってくれます。みなさんいろいろと情報収集をマメにしておられるように感じました。
「いいじゃないですか。現職なんだから4年間の実績をドーンと出して、有権者に問えるんだから」と私は伝えておきました。
花苗を買って春を待ちます
(2005年1月29日 土曜日 晴)
お昼前に義母の法要を済ませます。お天気がいいので、次男の車で花を植える大きな素焼きのポットと花苗を買いに出かけます。
ミニコミ紙で見た長岡京市のお店へ、地図を頼りに着きました。閑静な住宅街の一角に花々が溢れる個性的な住宅兼お店がありました。
アンティークの小物が鉢やかごに使われて、とてもセンスのよいアレンジメントに仕上がっています。40歳くらいの女性オーナーは感じのよい人で、いろいろと教えてくれました。小学生の女の子が二人「お母さん、ただいま」と帰ってきて、彼女の子どもだと分りました。
花屋さんは重労働といいますし、商売は売れる日も売れない日もあり、すべてお客さん次第、家庭との両立も子育て最中で大変だろうなと思いました。
「花が好きですから。このお花にどの器が似合うのかなと考えたり、工夫したりするのが楽しくて」とサラッと答える彼女に、私は応援の気持ちを込めて「ありがとう、また来ますね」と伝えました。オマケもしてもらってうれしかったし。
夕食は三重から長男が帰ってきたので、野菜不足を補う献立にしました。今日は平々凡々穏やかで心静かな良い一日でした。
第一中学校の壁画
(2005年1月30日 日曜日 晴)
朝7時から、昨日買った花の苗を小さな花壇に植え込みます。全部終わらない間に、腰が痛くなってきました。無理はしないで「明日のお楽しみに」と今日の作業はやめることにしました。
以前の私なら、どうでもいいことでも完結するまでは頑張っちやうタイプでしたが、今は「明日があるさ明日がある〜♪」「ケセラセラ〜」の気分が勝ります。力の入れ方の緩急が、この歳になってやっと分るようになったということでしょうか。
出張先へ戻る長男を送りがてら駅まできて、帰りはお天気につられて回り道をしました。第一中学校のプール側校門横のブロック塀に、元気で楽しい「壁画」を発見!
描かれている絵に見覚えがあります。反核・平和・人権フェスティバルの案内ビラに毎年イラストを描いて下さっている知人(一中の先生)の作品です。きっと、ペイントは生徒のみんなで行ったのでしょうか、とてもカラフルで綺麗です。
絵のテーマは「平和」でしょう。世界の子どもたちが手をつないでいる絵、長崎の平和の像、「PEACE」の文字等が描かれています。
毎日壁画を見ている子どもたちや、ご近所の皆さんの評判はどうなのでしょう?きっと好評なのでしょうね。
家に帰って夫に話したところ、いつの間にかデジカメに収めてきてくれました。
皆さんも一度、実物をご覧になってはいかがですか。
除去工事の「報告書」は出たけれど
(2005年1月31日 月曜日 晴)
「元『青年の家』除去工事に伴うアスベストに関する検討」と題する報告書が、やっと出てきました。町が、除去工事の実施設計をした設計事務所に作らせた報告書です。
青年の家に隣接している第一幼稚園の保護者からあがった要求の第一段階である「アスベストの有無を確認する」に対する回答は、この報告書により形としては叶えられたことになります。
回答の中身を分りやすく言えば「元青年の家の建築物には、法の適用を受ける吹きつけ石綿(=アスベスト)は使用されていない。しかし、法の規制がない非飛散性のアスベスト含有建材に類するアスベストはある」となります。
そして、報告書は「ある」の内容とその処理については次のように述べています。本建築物には「カラーベスト、フレキシブルボード、ビニアスタイル、石綿スレートがある。これらアスベスト含有建材は通常の産業廃棄物処理が可能である。しかし、撤去の際は細かく粉砕されないように手作業解体とする」。
ここで「ああ、良かった」となるのか、ならないかが次に出てくる問題です。「これでよかったでしょう」と言いたいのは町のほうでしょう。しかし、私は一住民として「良くないな」と思っているのです。
まず、この報告書は除去工事の実施設計書と共に最初から用意されるべきものでした。ノコギリやパネルが降ったりして大問題になってから、保護者の追求に渋々答えた中身の一つとして作成されたことは、町がいかにアスベストを問題視していなかったかを物語るものです。
法の規制がかかる吹付けアスベストが存在しないから安心だとは決してならないことは、町自らが、非飛散性とは言いますが、細かく砕いて飛び散ると危険だから「手作業解体とする」としている事からも分ります。
また、1985年に浴室の非飛散性アスベスト撤去工事をしていますが、危険なものでなければ、撤去する必要は無かったはずです。
今、当事者である幼稚園の保護者がこれら現存しているアスベストについて、どのような要求をされているのかが見えません。したがって、本件に少し係りを持った住民として「進むのか、止まるのか、はたまた忘れたほうがいいのか」考えてしまいます。
いずれにしても、こうしている間も解体工事はどんどん進んでいます。
「〜たら」の話になりますが、私ならなんとかして工事を進めない為に、子どもの手を引き、もう片方の手でノコギリでも掲げて現場に立つだろうと思います。マア、そこまではしなくても、関心を寄せる人々をコーディネイトし、ことの展開、結末へのストーリーが描ける人を見つけることはするでしよう。(そうじゃなきゃ小さな声はいつまでたっても、小さいままで終っちゃう)
長い期間大きな工事が続く新駅設置事業のスタートに立つ今回の除去工事は、今後住民サイドに立った事業展開がなされるか否かの大事なポイントだったと思います。
「ノコギリ放り投げ事件」「パネル落下事件」と立て続けで、町にあれだけのマイナス点が生じたにも係わらず、スルスルと工事が進行していったのはなんとも悔しい事です。
「報告書」を見ながら、ついついこんな事を考えてしまいました。