スペイン・ポルトガル旅行       1997/05/08〜05/17
平成9年5月8日
 親父に鯰田駅まで送ってもらい6:55発の列車にて出発。出札口に財布を忘れ一瞬焦ったが列車の進入前に気が付き事なきを得た。地下鉄乗り継ぎにて福岡空港着。エージェントカウンターにて航空券、ホテル券、ユーロパスをもらう。確認後チェックイン、いよいよ海外旅行へ出発だ。
 本屋に寄り本を1冊と荷物のロック用に番号カギを購入。朝食がまだなのでレストランに行き軽く朝食を食べる。出国手続き終了後ビジネスクラスの待合い室にてコーヒーを飲みながら新聞を読んで待つ。木曜日の福岡発はビジネスクラスが付いていないで前方の席が確保してある。
 ソウル金浦空港着。そのままチューリッヒ行きの待合い室へ行く。1時間半ほどの待ち時間で、本を読み、外を眺めながら待っていた。18番搭乗ゲートには11時45分発のデンバサール行きのガルーダインドネシア航空機が止まっていたが12時過ぎに出発して行った。
 12:15になって搭乗機が牽引されてきたが左外側のエンジンカバーが開いたままでやってきたので一瞬いやな予感がした。しかしながらパイロットが機体を一回りして飛行機へ上がっていったので何もないのかなと思った。12時50分になって飛行機材のメインテナンスの為出発が2時間遅れ、14:30になるとのアナウンスがあった。
 これは参った。チューリッヒでの乗り継ぎ時間は1時間45分しかないのでこれではどうしても間に合わない。早速案内所へ行き、なんとか英語で2時間遅れるとマドリッドへの便に乗り継げない事を説明する。「アナウンスは2時間遅れるとあったが、自分たちには1時間遅れの予定と連絡があっている。だとすれば間に合うだろう。もし間に合わなかったらチューリッヒの空港で大韓航空の職員へ訴えてもらいたい」との話になった。
 実際にちょうど1時間遅れの13時50分飛行機は動き出した。北京、ウランバートル、モスクワ経由でチューリッヒ空港へ。このルートは昨年のローマへのルートと全く同じであった。予定より1時間25分遅れで到着し、18:55に機内からターミナルに出た。直ぐに乗り継ぎカウンターへ走る。預けた荷物がないのなら乗り継ぎが出来るとのことで搭乗券を発券してもらい、マドリッド行の搭乗口へ急ぐ。搭乗待合い室の危険物検査口が混んでおりいらいらさせられた。さすがにひやりとしたが19時10分に搭乗、15分には飛行機は動き出した。
 飛行機は空いており39Aの席と窓側であった。離陸すると直ぐにアルプスが見えだした。幸いに天気も良くしばらくの間、アイガー、ユングフラウそしてマッターホルンなどなどを見ることが出来た。やがて雲のうえの飛行となった。ピレネー山脈の雪景色が一部見えたのみでマドリッドが近くになりやっと雲の下に出た。
 21時25分着陸するがまだ明るさが残っていた。入国審査は何事もないが実に無愛想であった。手荷物検査もなく無事に始めての訪問国スペインへ入国した。 早速両替所に行き、1万円を交換、10997ペセタであった。アエロブス(空港バス)にて市内へ、370ペセタだった。空港から市内までは近く直ぐに市街地となったが街は結構明るく、人出の多い通りを抜けコロン広場の地下のバスターミナルに到着する。
 いったん外に出るが地下鉄の駅がなかなか見つからず手間取った。此処から地下鉄の駅までの地下道が物騒とのことだったが何事もなく地下鉄を乗り継ぎプリンシペピオ駅にたどり着いた。駅構内の案内が不十分で出口が良く判らなかった。
 今回の旅行で唯一予約をしているホテルフロリダノルテは駅前にあった。チェックイン後、まずシャワーを浴び、洗濯も済ませ、日本へ電話をするが、23:30、日本時間は6:30なり。そして直ぐに寝てしまった。 5月9日  AM5:30には目が覚めた。これ幸いにチャマルティン駅に行くこととし、6時過ぎにチェックアウト、朝食は食べさせてもらえなかった。地下鉄乗り継ぎにてチャマルティン駅へ行くが乗換駅の構造が悪く、延々と歩かされた。
 混雑を心配した駅の予約所はさすがにがらがらで直ぐにTALGO61,サンタンデール行きの予約が出来、ユーロパスのバリデートも行えた。まだ、旅行シーズンでは無いらしく予約所は込んでなかった。 その後カフェにてパンとコーヒーで300ペセタの朝食を済ませる。ホームに降りてみると列車はすでに入線しておりゆっくり写真を撮影できたがそれでも時間が余って仕方がないので、駅前、駅構内をうろうろして時間をつぶした。
 9:00定刻に出発。マドリッドは始めての訪問の地ではあったが昨夜遅くに到着し、もうこの時間にはマドリッドを離れる。普通の人にはとても理解してもらえない旅行だろう。いよいよスペイン、ポルトガルの列車の旅へ出発である。
 タルゴの乗り心地は揺れ方が少々変わって、ゆらゆらしている感じがある。車内ではビデオで映画の放映が2本続けてあったがスペイン人は映画が好きなのであろうか。列車は中央高地越えに向かって走り出した。進行方向遥か彼方の山々には雪が残っているのが見える。スペインのイメージとして暑く乾燥した平原を想像していたので雪山が見えたのには驚いた。
 山越えにかかり後方を振り返ると地平線まで続く平原が見渡せやはり平原の国であったことを確認できた。しかし、徐々に高度を上げ、緑も多い山間を縫うように走り、遠くまで山が続き、雪の残った山も見えるなど、なんとなくスペインのイメージとは違って感じる。ただ、森がほとんど見られなかった。山を越えると再び乾燥した平原となり、井戸からの潅漑にて散水設備を整えた畑で小麦やじゃがいもを栽培していた。ペアのTALGO62とすれ違ったがほんの一瞬であった。
 パレンシアを過ぎると列車の進行方向に海岸山脈の山々が見えだしたが標高2700m程度の山々に雪が残っている。ビュフェが連結してあったので覗いてみたがサンドイッチ程度しかなかったのでパンとコーヒーを昼食に食べた。再び徐々に高度を上げて行き、やがて車窓の直ぐ横に残雪がみえだしたが車内にはいつのまにか暖房が入っていた。サミット過ぎると列車は急勾配をくねくねと下りだした。
 列車は定刻より5分ほどの遅れでレイノザ駅にすべり込んだが、駅到着の直前で車内灯が蛍光灯より白熱灯に切り変わった。これまでの停車時間は短かったのになかなか出発せず乗務員がプラットホームへ出たりしだした。白熱灯のままなのでこれはてっきり故障だと思いスペイン語で故障が「ROTO」と覚え、乗務員に尋ねると違う違うと言った感じで首をふった。
 しかし、機関車ではパンタグラフを上げたり下げたりしているし、運転士が駅舎に出たり入ったりしだした。先ほどの乗務員が戻ってきて私を指さしてにやっと笑いお前良くわかったなと言った感じで、架線を指さし、そして食べるまねをして手を振った。どうも架線から電気の取り込みが出来ないようになっているらしい。ホームで様子を見ていると中年の女性が列車がトラブルで動かないのは解っていますかと英語で尋ねてくれた。これはうれしかった。言葉の通じない地でこのように気を使ってくれるのは大変ありがたく、日本でそのようなことに出会ったら何か一言声をかけてあげなくてはとつくずく思う。
 車掌は携帯電話を持っており、しばしば連絡をしていた。車内を回ったときに列車を変更するのかそれともブスかと尋ねると「わからないがわかったらきちんと連絡する」と英語で説明していった。日程に余裕があるのであわてる必要がないのでこの状況をどうするのかなと思って観察していた。やがてアナウンスがあってその中で「ブス」と言っているのが聞こえたし、乗客が降りだしたので一緒に降りて駅舎へ入って行くと何か一生懸命説明があっていた。そして乗客に尋ねだしたがどうも行き先を確認しているようであった。車掌も私が居るのを確認していたし、先ほどの女性も気を配ってくれているようであった。
 停車後約40分で代行バスがやってきたが6両連結のTALGOに乗っていた乗客はバスは小型と大型の計2台に乗り切れる人数であった。荷物を積んでバスの乗客となったが、おかげで街の中を眺められることとなった。バスは町中の狭い道を走り出したが直ぐに街並みは終わりバイパスと思える道路を走り出した。やがて急勾配の下り坂となったが線路もS字カーブを描きながら見え隠れして走っていた。進行方向左側が崖の谷間となったがそれでもどんどんと下っていく。いつのまにか非常に高いところを走っていたのだ。
 海岸山脈を越えてきたが今までの景色と違い緑が多いのに気が付いた。道路の横の景色に林や草原が続いている。自動車専用道をどんどん飛ばして走った。サンタンデールの街となり、フェリーターミナルの案内標識もあった。サンタンデールは港町で大きなフェリーが泊まっているのが見えたし、車の輸入港らしくたくさんの新車がプールしてあるのも見えた。町中を走り目的地のサンタンデール駅には予定より約1時間遅れの15:40に到着できた。
 サンタンデールの街お金の両替を予定していたので慌てて銀行を探したが既にしまっていた。両替が出来ず、残り少なくなった現金の使用を考えて使わなくてはならなくなった。  ここからは今回の旅行目的の一つである、FEVEと言う狭軌のローカル鉄道に乗るのだ。駅はRENFEの駅と隣接しているおりオビエドまでの切符を購入し、日本へ電話する。
 私鉄のこの駅は思ったより大きくホームは6番ホームまであり、電車とディーゼルカーとが混在しており、列車は頻発していた。売店でパンとジュースを購入し列車に乗るがオビエド行きは2両のディーゼルカーでレールバスを思わせる大きさであった。定刻に出発、思いの外多くの乗客を乗せた列車は快速運転で電化区間は区間列車があるのかトレラベガまでは複線区間で全駅通過であった。途中の駅にはたくさんの乗客が待っているのが目に付いた。トレラベガにはセメント工場かと思われる大きな工場があり石炭を主とする貨物列車が多数止まっていた。
 その後はまさにローカル区間で緑豊かな山間や、谷間をくねくねと走ったがスペインのイメージとはかけ離れたもので北海道、あるいは昨年尋ねた南イタリアの山中のイメージであった。やがて海岸線にでるが、曇天のためか海の色は悪く、大きな波が打ち寄せていた。直ぐに海岸線から離れ、見えなくなったが海は何となく気分をほっとさせる。所々にやや大きめの駅があるが構内の線路が撤去されているのが目に付く。やはり車の影響があるのだろうと思われた。しかしローカルになり、列車の本数が少ないにもかかわらず利用者は結構多く、しかも短区間の利用が多いのには驚いた。しかし乗客の多くがお年寄り、学生が多いのは日本と同じだなと思った。
 順調に走っているように思えたが列車は10数分の遅れとなっていた。精一杯走っているようだが列車の遅れは回復しなかった。オビエドが近ずくと再び電化されており、再び快速運転となる。この周辺には鉱山がたくさんあり、その輸送のために南側の山の麓から北の海岸へ向かう路線が発達している。緑豊かで景色も十分楽しめたが、朝9時にマドリッドの駅を出発しRENFEで6時間少々、FEVEで約5時間少々の長い長い鉄道の旅は夕闇迫る、と言ってももうすぐ21時のオビエド到着でやっと終了。FEVEの駅前には何もなく、RENFEの駅を捜すが小雨のが降っており涼しさを通り過ぎて寒かった。
 RENFEの駅前通りがメインストリートで歩き始めると直ぐにホテル、ホテトルが目に付く。HOTEL FAVILAにチェックインする。スペイン語しか話せないおばさんと日本から準備していったスペイン語の会話メモに身ぶり手ぶりを交えて話した。何とかバス付で4700ペセタにてありつく。部屋は悪くなくグッドチョイスと思った。夜になるといっそう冷えてくる。半袖の着替えしか準備をしていなかったので長袖のシャツを購入しようと直ぐに町を歩くが幸いにも大きなスーパーが開いておりカードにて6750ペセタのシャツを無事に手に入れられた。サンタンデールでのお金の両替が出来ていなかったのでキャッシュが心細くカードを使う。ホテルに戻り1階のレストランで夕食を食べるがあまりさえてなかった。
 例によって、洗濯、入浴、そして就寝。
5月10日(土)
 5:50に目が覚めてしまった。列車は11:12発の予定なので時間はゆっくりである。日記を記入す。  7:30駅まで行ってみるがやはり列車は予定のものしかない。近郊区間は電車が頻発しているが長距離というか、区域外への列車はきわめて少ないようだ。出札口でここでも日本から準備していったスペイン語の会話集を見せ、本日のオビエドからレオンまでとレオンからVIGO迄の指定席を確保する。ついでにVIGOからポルト迄の指定席を購入しようと思ったが此処では発券してないとのことであった。
 銀行で両替後に朝食をと思い町中へ向かう。小さな街で見当をつけてドーム方向へ歩くが土曜日のためか人通りが少ない。ドームまで行き写真を撮りながら、銀行を探しながらホテルへ引き返す。銀行はあるのだが何処の銀行も開いていない。地元の人もドアを開けてみているが結局あきらめている。注意して見るとスペインの銀行は金曜日が14:30までで土曜日は休みとなっているようだ。  となると大変である。当然明日は日曜日で休みだし、食事代、飲み物代もない無いこととなる。大きなレストランはカードで食事が出来ても列車の中では食事も出来ないこととなる。カードキャッシングでキャッシュを手に入れなくては思い、24時間銀行、すなわちキャッシュディスペンサーへ取り組む。VISAのゴールドカードで試みるが暗証番号になると引っかかってしまいどうしてもキャッシングが出来ない。もう1枚のVISAカードでは問題なく10000ペセタのキャッシングが出来、ほっとする。こんな時に限ってダイナースやマスターカードを持ってきていないのだ。いくら現金で円を持っていても両替が出来ないことにはどうしようもない。
 いずれにせよキャッシングできたので朝食をゆっくりと済ませ、と言ってもスペインの朝食はコンチネンタルなのでパンとコーヒーのみであるがホテルへ戻る。残りの日記を記入、10:10早めにチェックアウト。VISAカードにて支払いを済ませるが+αの料金を取られた。
 駅ではホームにて人の流れをゆっくり観察をして時間をつぶす。定刻にやってきた列車はなんと2両連結のバルセロナ行きである。しかも2両とも座席指定である。これには驚いたが指定のないところが自由席となっている。指定席では反対側の席に先客がいるので写真を撮るには少々不便なので前方に両方とも空いている席を見つけ移動す。列車はオビエドを出発後、狭軌の路線と並行となり、鉱山や連続した街並みを川沿いに走るが快速運転で区間列車が走ると思われる区間はほとんど通過であった。石炭を積んだ貨物列車を見かける。
 徐々に高度を上げやがて家並が無くなり谷間も狭くなってきた。いよいよ谷が詰まってしまうとUターンをし、戻りながら高度をどんどん上げ、くねくねとカーブを描き、トンネルを抜けて行く。  さらにSカーブとトンネルを繰り返し、先ほど通ってきた線路が小さく見えるようになると再びUターンをし、更に登り、雪崩よけのトンネルも見られるようになった。遠くの山々にはたくさんの雪が残っている。ついには線路の横に雪が見える高度にまで登ってきた。線路の直ぐ横にドライブインがありビューポイントとなっているようだ。
 長いトンネルを抜けると雪が残っている高原となっていたが直ぐに小さな村があった。森林限界を超えたこんな高地での生活は大変だろうなと思った。こちら側は緩斜面が続き、ゆっくりと下って行ったがこちらにも鉱山の町があり、貨物列車が止まっていた。いつのまにか平野となり、山が遠くになり、レオンの町に着いた。
 レオンの駅で乗り継ぐが約1時間あるのでスペインの著明な建築家ガウディ作のカサ・デ・ロス・ボティーネスと言う建物とステンドグラスの美しさはスペインいちと言われるゴシック様式のカテドラルを見に行くこととする。タクシーでまずガウディ作の建物を見物、カテドラルまで歩く。さすがにステンドグラスは細かな細工のある作品で素晴らしいものであった。ちょうど結婚式があっていたのでよりいっそう思い出に残る教会となった。帰りはタクシー乗り場がわからず急いで歩いて戻った。時間があまりないので駅にあるピザハットにて昼食としたがメニューは当然わからないが見本が載っているので助かる。味は万国共通の様であった。ホームの売店で水とチョコレートを購入、アイスクリームを食べながら列車を待つ。ほぼ定刻にこれまたたった4両連結の急行列車がやってきた。
 前方の2両がビーゴ行きで、半車がスナックカーとなっているが座席指定をしているので安心して乗り込むとなんとおばはんの先客有り。まさに典型的なオバタリアンで言葉はわからないので指定席を指さして見せるが全く動じる風もない。他の乗客も空いている席があるだろう、と言った雰囲気である。座席指定がされていない席が自由席となるシステムなのだが、たとえ座席指定となっていてもどの席がどこからどこまでが指定席とは解らないようになっている。
 文句の言いようもないので空いた席にそっと座った。せっかく窓側の席が確保してあるので喜んでいたのだが。列車は平原を走るが所々で小さな峠を抜けて行く。川に沿って走り、ダムが各所にありダム湖の湖畔をしばしば走るが残念ながらほとんど景色が見られない。スナックカーに行き、コーヒーを飲んだりして時間をつぶす。窓側に座れないのがかえすがえすも残念なり。しかも、私の席に座っているおばたりあんはスペインでも強く、隣の席の人が席を立つと私はきついのよ?なんて言いながら横になってしまった。戻ってきた人もあきれて空いた席に腰掛けたが8人用のコンパートメントで4人+2人となってしまった。
 オウレンズで列車は2両となり、乗客も大きく入れ替わった。川幅も徐々に大きくなってきた。そうする内に対岸がポルトガルとなったが国境となる谷はごく小さな谷であり、あんな谷が国境となるのかと感心した。こちら側も対岸もブドウ畑で景色に差はないのだが向こう側は異国なのだ。  明日は戻ってくるポルトガルへの分岐駅を過ぎ、小さな峠を下ると海岸線にぶつかり、リアス式の海岸をしばらく走るとビーゴに到着した。まず、駅にて明朝の国際列車の座席指定を求めたが指定はないとのこと。オビエドの駅で指定券が購入できなかったはずだ。駅前に出るとビーゴの駅は少々変わったところにあり駅が表通りに面して無くどこから出ていったものか判らずめんくらった。
 「地球の歩き方」の地図を頼りに駅周辺を歩いてみるがおばさんの客引きが声を掛けてきたが無視した。幸いに駅近くにホステルを見つけることが出来、英語も通じるのでほっとする。朝食は付かないもののバス付で4500ペセタだったがクレジットカードが使えないとのこと。残りのキャッシュと相談するとOKが出た。
 チェックイン後、荷物を置くとフロントにて夕食のレストランをアドバイスを受け直ぐに町で出かける。まだ、明るさが残っており、市の中心街へ向かう。メインストリートから港方面へ回るが途中若者がたくさん集まってサッカーの試合をエキサイトして見ていた。暗くなってきていたし、裏通りであったため少々不気味ではあった。一回りしておすすめのレストランへ行く。甲殻類と貝の盛り合わせ(二人前とあまり差がなかった)とワインとパエリャを食べて3050ペセタ。これは今回の旅行で最高だと思う。大満足であった。ワインがフルボトル1本だったので少々飲み過ぎホテルに戻り直ぐに寝た。
5月11日(日)
 AM5:50隣の部屋の叫び声で目が覚めたがその後しばらくうとうとして6:30起床、シャワーを浴びる。日記を記入し、準備を整えて7:30チェックアウト。昨夜は雨模様だったらしく路面が濡れていた。 朝食が無かったので駅でパンとジュースを買って列車に乗り込む。4両のディーゼルカーで乗客はがらがらであった。窓は汚れで大変汚くティッシュで拭くとかえって汚くなってしまい、ガラス越しでは写真撮影が出来ない。
 定刻に出発、左側は海で養殖に使われていると思われる筏がたくさん浮かんでいる。海岸から南へ折れ峠越えにかかる。そして、Guillareiから逆行していよいよポルトガルとの国境の川へ向かう。徐行してミーニョ川を渡るといよいよポルトガルであるが両岸にある国境検問所にヨーロッパ連合の旗が掲げてあったのが印象的であった。
 ポルトガルに入り、川の左岸を走るが対岸はスペインとなっている。やがて河口近くとなり、大西洋が見られるようになり水平線を眺めることができたが曇天のため海の色はあまり良くなかった。ブイアナ・ド・カステロを過ぎると内陸を走るようになる。徐々に乗客は増えてくるもののまだまだ空席のあるままだった。電化区間にはいるとやがてポルト市内、そして有名なドンルイス1世橋を一瞬眺めた後トンネルを抜けるとポルトサンベント駅に10:45到着、定刻であった。
 ホテルは駅近くにと思い捜すと「地球の歩き方」に載っている凄い名前のペニスラホテルにチェックインする。エレベーターは旧式の古いホテルではあったが場所がよいのでこんなものでしょう。ポルトガルのお金がないので早速手に入れるために出かける。日曜日で当然銀行は開いていない。インフォメーションで尋ねるとやはりダメとのこと。
 カードキャッシングをしようと思い町中の自動支払機を捜すが操作方法がなかなかわからず苦労する。やっと操作方法がわかったがやはりVISAゴールカードの磁気テープがおかしくなっていたのだ。複数枚のカードを持っていて助かったがさすがにJCBカードは使用できなかった。1万エクスードを借金したがこれからはいろいろなカードを持ってくる必要があると思った。しかし、直後に自動の外貨交換機を見つけたのでさらに1万円を両替したが便利な機械があったものだ。
 お金を持てたので市内観光へ向かう。ポートは河岸の傾斜地にあるのでまず高いところに向かう。クレリゴス塔を経て旧市街のくねくねとした街並みの中を抜けてデューロ川の川岸へ下って行った。サン・フランシスコ教会、ポルサ宮を見ながらドンルイス1世橋のたもとにでた。対岸にたくさん見えるポートワインの工場街の写真を撮りながら歩いた。橋を渡りワイン工場をのぞく。日曜日でも見学させる工場があるとのことだったが少々歩いて捜すがわからなかった。なにせ広い工場地帯を当てもなく歩いて捜すのは少々無理のようであった。仕方がないので河岸の売店でサンドイッチとジュースで昼食を食べた。
          
           ポルト市内デューロ川と旧ワイン運搬船
 しばらくすると団体さんが大型バスでやってきた。工場の前に集合しだしたのでこれはひょっとして中に入れるのかもと思い付いて行くとうまく工場の中に入れた。工場のガードマンは見学をしないとワインの販売所には行けないと言った。時間がないのでどうしても販売所に行きたいと頼むとあきらめて販売所へ行かせてくれた。ところが日本へはもちろん発送はしないとのこと。あきらめてそのまま出てきた。
 再び歩いてホテルへ引き返したが途中カテドラルに寄ったがやはり傾斜地の上にあり景色もよかった。此処で日本人のグループを見かけたが私が日本人と気が付いたのか私を避けてしらんふりをしていた。海外で日本人同士はどうして直ぐ知らんぷりするのだろうか。ホテルに戻り、昼寝をしてシャワーを浴び、洗濯をしてから夕食へ出かける。出かけるときに朝食の時間を尋ねると7:30からとのこと。明日の出発が早いことを伝えると7:00ならパンとコーヒーを出せるとのことでお願いした。
 ホテルのフロントで教えてもらったレストランが「地球の歩き方」に載っているのと同じレストランであったのには驚いたが大きなレストランで地元の人がたくさん来ていた。ポルトガルの名物料理の一つウサギを半分頼んだが肉は堅めであまりおいしい料理とは思わなかった。ワインでよい気持ちとなり部屋にまっすぐ戻り直ぐ寝てしまった。夜半に寒さで目が覚めたので電気ヒーターのスイッチを入れた。
5月12日(月)
 AM6:30起床。寒くて目が覚めたが室内でも吐く息が白いのに驚いた。7時に降りて行き、パンとコーヒーの朝食を済ませさっそく駅へ行く。7:20ホームにはすでに列車が入線していたが牽引機はDLでしかも入れ替え用を思わせる中型の機関車であった。6両連結で半車の一等車が最後部につながっていた。駅のトンネルを抜けるとなんと霧、霧ではないか。さっそくスピードは出ないし、止まりながらの出だしとなった。しばらく昨日の路線を戻り、やがて右に折れ内陸へ向かって行った。街並みが切れると直ぐにブドウ畑が始まった。
 路線は単線となったが電化と線増工事が続き、新駅の設置工事もあっていた。駅毎に新興住宅地が広がっているし、プラットホームには通勤通学客がたくさん待っており、ラッシュがあるんだな、と何となく感心した。どんどん発展していることは間違いがない。しかしながら、遮断機のある踏切に踏切番がいて旗を振って列車を見送っていたのには驚くと共にやはりまだまだ人件費が安いのだなと思ってしまった。ポルトガルではさまざまな組合があり簡単には改善が出来ないようになっている、との事。
 やがて複線化と電化工事の区間も終わり峠を越えるようになり、いよいよ田舎となりブドウ畑がほとんどを占めていた。小さなサミットをトンネルで抜けるとまもなく大きな河岸に出たがDouro川であった。以後は右岸をどこまでもたどることになるが対岸はブドウ・ブドウの連続であった。川にはダムがありダム湖が延々と続き、列車は湖面沿いにどこまでも遡行して行く。 所々に開けた地域があり小さな集落が見られた。やがて広く谷が開けると中流の中心地Pesoda Re'gua に到着。
                 
          世界の車窓からにも出演した保存SL
駅構内は広く廃車されさび付いたたくさんのタンク式のSLが放置してあったが展示用に整備されたSLもありどこでもSLは記念品となっているのだなと思った。此の駅は狭軌の支線が分岐しており、気動車が新旧のタイプがとまっていた。乗客の乗り降りがあり発車。しばらく4線の併用軌道が続く川を渡ると狭軌の路線は北へと分岐して行った。
 列車は更に右岸を、対岸にブドウ畑を見ながら単調に走って行く。ごく希にオレンジや桃の畑が見られる。支流を橋で渡ると11:01定刻に乗換駅のTuaに到着。狭軌のDL機関車牽引の混合列車が止まっていた。1等車もつないでいるのはさすがにヨーロッパだなと思った。小さな駅で集落もほとんどなく鉄道の分岐のための駅のようで駅構内には売店もない。飲料水と何か食べ物を購入したいと思っていたので周りを見回すと小さな一杯飲み屋風の店を見つけミネラルウオーターとスナックを購入、いざとなればこれが昼食となるのだ。
 11時22分ほぼ定刻に発車。なかなか正確である。戻りながら先ほどの支流沿いに北へカーブ、さっそく峡谷の左岸を走り出した。徐々に高度を上げるが岩盤が露出した狭く、深い渓谷で斜面の所々にオリーブやブドウの畑が見られた。狭い峡谷で良くまあこんな谷に線路を引いたものだ感心させられる。対岸の谷の高いところに集落が見られたが例によって立派な教会の建物が目に付く。その後も狭い峡谷を延々とさかのぼって行くがちょっと開けた所に駅がある。周りに何も集落がない所にも駅がある。地図を見ると谷の上の方に部落があるらしいのがわかる。でも、車が置いてあるわではなく、さっさと歩く始めるのが見える。大変な所での生活で、昔の日本の生活を思い起こされる。
 Portoより乗り続ける事約5時間20分、目的地Mirandelaに到着。大きく開けた谷で新しいビルも建設されていて開発が進行している町でこんな山の中にと驚いた。此処からバスで2時間30分ほど奥に行くとこの地方での有名な観光地Branganchaに行けるのだ。バスに乗り継ぐグループも見られたが私は同じ道を引き返さなくてはならない。駅から新しいレールバスが更に奥地へ向かっていた。昔あった路線を再利用しているのだろうがどこまで続いているのかわからず時間もなので乗れなかった。
 帰りの列車の出発まで1時間少々。駅から町の中心方向へ歩く。川沿いに噴水もあり、バラがちょうど満開でなかなかシャレた公園があった。スナックでパンとコーヒーの昼食をとる。更に少々町中を歩き、教会の写真を撮り駅へ戻ったが、高原の町でなかなか良い印象を持てたがこんな不便な町は二度と訪れることは無いだろう。
 駅に戻ると乗ってきた列車がそのまま止まっており、車掌も同じ人であった。列車は少々遅れて出発。全く同じ道を戻って行くのだがばからしいことだとつくずく思う。下りはさすがに軽やかな感じで下って行く。
 Tuaからの列車は4両連結のディーゼルカーで半車の1等車もあった。左に川を見ながらただただ引き返すのみ。対抗列車が遅れたため徐々に遅れが進み20分遅れで20:30にPortoに戻った。疲れた疲れた。
 新しいレストランを探す気分にはなれず昨夜と同じレストランに行きステーキを頼み、希望とは違ったステーキを食べ、ワインを飲んですっかり良い気分となりホテルに戻った。
 明日はPortoを出発するのでポートワインを購入したいのでホテルのフロントの女性にいろいろと片言の英語で相談する。彼女曰く、大阪からの日本人がときどきいろいろな買い付けに来るし、飛行場に持って行けば送ってもらえるから大丈夫。良かったら英語の解り、手続きを手伝ってくれる運転手さんを紹介して上げるとのこと。お願いして部屋に戻り、洗濯をして寝る。
5月13日(火)
 6:00起床。日記を付け、荷物を整理し、7:30に朝食へ。コンチネンタルの朝食を済ませホテルフロントへ。10:00に運転手さんとの待ち合わせを約束する。チェックアウトし荷物はフロントに預けワイン購入へとワイン工場街まで向かう。写真を撮りながら歩いて行く、小さな朝市を見つけたが、港町らしく小魚をたくさん売っていた。坂の町であり、古い町のためか車の渋滞のひどいことひどいこと。
 ワインセラーはたくさんありどのメーカーがよいのか良く解らないのでホテルフロントの女性にメモを書いてもらった。有名なSanndamannを紹介されたが工場を尋ねるとオープンが10:00とのこと。とても間に合わないので歩いて回るとCalemの工場が9:30にオープンとなっていた。それでも時間がないのでオープンすると直ぐに受け付けの美人の女性に時間がない、どうしてもポートワインを一ダース買って帰りたいとお願いした。この女性はさすが看板娘らしく本当に美人であった。
 何とか売店に案内してもらったが今度は年代物はたくさん売れないとのこと。此処でもいやどうしても欲しい。日本で友人たちが待っているのだ、何とかお願いと交渉。やっと1977年ものを6本、1987年ものを6本を購入できた。1本毎に包装してもらい、段ボールに詰めてもらうが1ダースのワインの重いこと、重いこと。約4万円ぐらいであった。
 タクシーを呼んでもらいホテルに戻るとちょうど約束の運転手がやってきた。直ぐにワインを積み替え空港へ向かう。旧型のベンツで町中を出てバイパスに出ると飛ばすこと飛ばすこと120Km位で走る。足を踏ん張って乗っていたが運ちゃんは片言の英語で一生懸命に話しかけてくるので冷や冷やものであった。約20分で空港に到着。空港の貨物ターミナルに行き運送会社の窓口に行くとワインは木でパッケージをしてきてもらわないと引き受けられないとのこと。航空便で数カ所の乗せ換えをして日本へ運ぶのでわれる危険性があり段ボールではダメとのことであった。どうしようもなくワインをかかえてホテルへ戻る。戻り道はこのワインをどうしようと考え込んでしまった。往復のタクシー代は5000クルザードであった。
 ホテルに戻りさしあたってリスボンまでは運ばざるをえないし、最悪の場合は日本まで担ぐことを覚悟しホテルのロビーの陰で荷物を整理し、詰め直しをした。大きなスリーウェイバッグであったのが幸いし何とか一つの荷物に出来た。しかし重い重い、30Kg位あるのではと思った。時間がないので直ぐにホテルを出、駅に向かう。ぎりぎりでリスボン行きの接続列車に乗れた。Porto Campanha'では乗り換え時間が短く重い荷物を持ってよたよたしながら急いで乗り換え、12:10発の急行の乗客となった。発車すると直ぐにエッフェル塔を作ったエッフェルさん設計の歴史遺産となっているPorto de Dona Maria Pia 鉄橋を見ながらRio Douro川を渡る。ワイン工場街を眺めながらいよいよPortoともお別れである。
 南に向かって列車は急行らしく頑張って走るが車両の整備が悪くスピードが出ると妙な揺れがある。1等車はお客さんは少なかった。だんだん日差しが強くなり南に下っているのが感じられた。一息付くと昼食を食べてないことを思い出した。スナックカーに行くと食べ物はなくコーラで我慢させられた。ところが良くしたものでクリームの入ったクリーム入りのデーニッシュを売りに来たので喜んで買った。あまりの嬉しさか金額をメモし忘れた。
 ブドウ畑が減り、オリーブの畑が増えてきたように感じられた。大学の町で有名なCoimbraを過ぎると高原地帯となり、遠くに高い山が見えて来た。スペインとの路線の分岐駅Enteroncamentoを過ぎると平地に下ってきた。やがて大きな川沿いに走るようになる。これがリスボンの街を流れるRio Tejo川であった。1時間以上も川沿いに走り、徐々に川幅が広がり大きな船も航行するようになる。路盤改良工事が至るところで見られるようになるといよいよリスボンが近ずいてきた。長大な橋の建設工事があっていたがその下ではビルの建設ラッシュも見られた。その工事の中にEXPO98の看板が見えた。来年1998年にリスボンで博覧会が開催されるらしくその建設ラッシュであった。大阪万博を思い出し、ポルトガルがあの当時の日本なのだなと思った。列車が工事区間を徐行しながらゆっくりとリスボンのSanta Apolo'nia駅に到着したが改良工事が終わったらしく斬新なデザインの駅であった。
 ワインの入った重い荷物を持っているのでうろうろしてホテルを探すわけに行かないので「地球の歩き方」に載っているホテルリストから交通の便の良さそうなHotel Suico Atlanticoにタクシーで向かう。幸いに空室があり2泊の予定でチェックインするがテレビも付いて無く、風が強いとうるさい部屋であった。リスボン市内は傾斜地の街であるためにケーブルカーが2本走っているがその1本がホテルの横の路地にあったのには驚いた。このケーブルカーの車両は車内を水平にするために傾斜の低い方側が馬ずらとなっている車両であったが工事のため運行が残念ながら停止となっていた。  直ぐにシャワーを浴び、洗濯を済ませ、ひと休みをすると街へ出かけた。まず、3日間有効の電車バス乗り放題のチケットを1000$にて購入。Rossio広場から37番のバスにてサンジョルジェ城へ向かう。良く解らずに乗ったが市内電車の路線に沿って丘を登って行き、カテドラルの前を通り、終点がザンジェルマン城の入り口となっていた。ちょっと遅めだが夕暮れ時で市内の建物は日が陰っていたがテージョ川や対岸の街には日が射しておりなかなかの景色でゆっくりと景色を堪能した。
 帰りは歩くつもりでお城から下っていくと電車線路に出るがどこが停留所か判別が付かなかった。ちょうど中心街方面行きの市内電車がやって来てたまたま乗客があり停まったのでこれ幸いと乗車した。電車の停留所と入っても安全地帯があるわけでもなく、白線が引いているわけでもなく全く見当が着かなかった。この市内電車に乗るのと写真を撮るのが今回の旅行目的の一つであったのでうれしかった。行く先は良く解らなかったがともかく終点まで行こうと思い乗っていた。しかしながらまあ、良く揺れること。電車が単車の為もあるのだろうがたてよこ、上下に揺れる揺れる。やがていよいよ日が陰り写真も撮れなくなったがともかく終点まで行ってやろうと思い、翌日の写真撮影に良いポイントが無いかを見ながら乗っていた。
 途中で同一路線番号ながら乗り換え地点があり、そこで乗り換え更に西へと進み、最終地点まで行き、引き返した。帰りの電車に乗りしばらく走ると電車を途中で止め客席の座席を持ち上げた。そこにはブレーキ用の砂箱があり空っぽになっていた。新しい砂を運んできて補充するがどんどん減ってしまう。結局故障で、無線で連絡を取っていたが運行中止となり引き込み線へと車両を引き上げてしまった。残された私は次の電車まで待たされることとなったがブレーキ用の砂箱を見せてもらった事だし、ヨシとしよう。途中の乗り継ぎ点を経て戻った。
 リスボン市内の通りは狭く、いかにも古い町だと感じさせられたがそこをくねくねとうまい具合に対向車線まではみ出しながら路線が走っており、大変面白い構造になっている。すっかり遅くなったが夕食がまだだったのでホテル近くのイタリアンレストランが開いていたのでポルトガル国内でのみ売られているワインを飲み、スパゲッティを食べる。ワインは酸味のある軽い口当たりであったがフルボトルなのでさすがに半分ほどしか飲めなかった。スパゲッティの味も満足であったが店員が若者ばかりで話ばかりしており感じは良くなかった。1200+900$であった。
 ホテルに戻りワインを日本へ送る方法をいろいろと考え、NIPPONN EXPRESSの電話番号を調べてみるとさすが日本通運である。リスボン空港内に事務所があるのが解った。明朝電話をすることにして寝た。
5月14日(水)
 AM6:15起床。良眠出来た。日記の残りをつけ、出かける準備を終えて8:00に朝食に下りて行く。そのまま外出。今朝はまず、市内電車の25番に乗る予定である。バイシャ地区を抜け海岸通りにある電車の駅まで行く。此処はフェリーのターミナル前で通勤時間のためかたくさんの乗客がフェリーが着く度に降りてきて電車やバスあるいは徒歩で散って行く。25番の電車はなかなかこなかった。この路線はバイロアルト地区から西側へと行く路線で旧い建物が多い地区なので期待したが余り変化が無いため、昨日乗った28番の路線との交点があったので乗り換えてバイシャ地区へ戻ることとした。
 途中、バイロアルト地区で昨日目星をつけていたポイントで市内電車の写真を撮影した。その途中で昨夜調べたNIPPON EXPRESSへ電話をした。当然日本人の職員がいることを期待して電話したがポルトガルの職員に日本人はいないとのこと。片言の英語を駆使してワインを日本へ送りたい、その為にはパッケージもしてもらわなくてはならい事を伝え、了解を取った。お昼にワインをもって空港に行くことが約束できたのでほっと一安心であった。
                   
                          リスボン市内のケーブルカー
 ケーブルカーのもう1カ所がバイロアルト地区にある。いきつもどりつで歩き回ってやっと見つけたが、狭い通りにあったのでなかなか気が付かなかった。写真をたっぷりと撮りながらケーブルカーに乗り、下った。下ったところは電車通りで15番の電車にてバイシャ地区まで戻る。いったんホテルまで戻りワインをバッグに詰めタクシーにて空港へ向かう。空港ターミナルまで1000$であった。ターミナルからNIPPON EXPRESSに電話をして迎えに来てもらうこととなり、事務所に案内してもらった。
 ワインをパッケージして日本まで送ってもらうのにワインの重さが約19Kgあるので3万円強かかるとのこと。しかも日本円は使用でき無いとのことで銀行に行くと円の交換はしてないとのこと。何とかレートは悪いものの円で支払う様に交渉しやっと重い重いワインから逃れることが出来た。支店長さんに空港ターミナルまで送ってもらうが来年私は日本に研修のため行くことになっており楽しみにしていると話しをされた。
 ターミナルから空港バスで市内へ戻るのにバスを待っていると20台の若い女性が一人でしかも小さな荷物を一つ持ってやってきた。昨年は二人で来たが回り損ねたところを回りたくて一人で来たとのこと。久しぶりに日本語での話が出来た。話をしていると小峰夫妻著のポルトガルの風を読んでミーニョ地方を回るつもりとのこと。私も読んでいた本で話が弾んだ。市内に着くと彼女はホテルの予約をしてないので今から歩いて探すとのこと。こんな女性の一人旅もいるんだなと改めて感心した。  ところで市内までの空港バスのチケットはバスと市内電車が一日乗り放題のチケットとなっていた。片道料金では割が合わないのでこのようなシステムになっているのだろうが一部の外人さんが何度も確認をしていた。
 ホテルに戻り空になったバッグを置いてロカ岬に向かうこととする。カイス・ド・ソドレ駅まで歩き、15:10発のカスカイス行き電車に乗る。4月25日橋と言うテージョ川の河口にかかる大きな大きな橋の下をくぐり、川の右岸をすすむ。途中の町々はリスボンの新興住宅街になっていた。カスカイスはヨーロッパ最西端の鉄道の駅で「世界の車窓」にも出てきた駅である。駅前の左手へ回り込んだところのバス停にて16:05発を確認。その後に17:05発があることを確認した。通勤時間のためかバスは満員の乗客を乗せロカ岬に向かう。
 乗客がだんだんと減っていくと共にバスは郊外を走るようになり、徐々に高度を上げて行き、後方にカスカイスの街、そして大西洋が眼下に望めるようになってきた。峠を越えたようになり国道から今度は岬へ向かってドンドン下り、ロカの部落を抜けさらに岬の先端へと進む。ロカ岬のバス停をおりたところが観光案内所となっており、ここでギリシャ文字で氏名を記入したロカ岬訪問記念の証明書を売っている。このようなみやげのたぐいはあまり買わないのだがさすがにこの証明書は購入してしまった。
 ロカ岬の最先端までは徒歩で約5分ほどであった。「ここに地果て、海始まる」との詩の一節を刻んだ石碑が建っていた。丁度外人さんのグループと一緒になったが風が強く身体が泳がされるほどで、キャアキャアとうるさかった。断崖絶壁に立っており海面からの高さは100m程はあるのでは感じるほどだった。海を見ると全く何も無くただただ水平線が続くのみで、本当にユーラシア大陸の西の果てに来たのだなと感じられた。しばらく強い風の中で写真を取りバス停に引き返す。おみやげ店兼レストランがあり中を覗くと観光客がうろうろしていたがポートワインを売っているのがさすがポルトガルの観光地店だなと思った。日本の二人連れの若い女性がいたがバスには乗ってなかったので尋ねるとカスカイスからタクシーで往復でやって来たとのこと。
 1時間後のバスでシントラへ向かう。国道からそれて村々へ寄りながらのバスの旅であった。昔の王城のあったシントラの市内観光は出来なかった。電車にてリスボン市内へ戻ったがこの沿線も新興住宅地の開発が盛んでアパートの建設ラッシュであった。18:30トンネルを抜けたところにあるロシオ駅に到着す。
 夕食には少々早いのでリスボン名物の一つサンジュスタのエレベーターに乗ろうと思い上部の乗り場をバイロアルトで探すが結局判らなかった。下の乗り場はすぐ判るのだが。バイロアルト地区で夕食を何処で食べようかと歩いて回った。お客の多いレストランに入ったがどうも有名なレストランに入ったらしく車で乗り付けてくるお客さんが次々にいた。後から日本人のグループがやってきたが奥の方に何か有名なものがあるらしくテーブルが奥の方にならないのかを何度も確認していた。有名なファド(ポルトガルの民謡?)を歌う店であったのかもしれないがガイドブックを持たずにうろうろしているために情報は全くなかった。
 英語のメニューがあったが内容を英語で尋ねてもウエイターに英語が通じないので十分吟味できず大変であった。何とか注文したが量も少なく味もさほどではなく、満足できなかったが海鮮のスープははおいしかった。例によってワインを飲んでいるので良い気持ちでホテルに戻るとなんと停電の真っ最中でローソクがフロントに立っていた。部屋はいよいよ真っ暗でしょうがないのでそのまますぐに寝た。帰る日も近くなり下着の数を数えると洗濯をしなくても良いので安心して眠れた。
5月15日(木)
 いよいよポルトガルを離れる日である。昨夜はシャワーも浴びずに寝たので早くおきなくてはいけないのに眼が覚めると7:40になっていた。慌ててシャワーを浴び、着替えを済ませ、荷物を積めて朝食へ降りて行く。8:35にはもう一度、朝の市街地と28番の市内電車の東側の始発地の写真を撮りたくサンジョルジョ城へ行く。勝手知った道でお城からの市街地と対岸、フェリーの行き交う様を写真に撮る。その後電車道まで下り、東へと線路をたどった。なかなか電車がこなかったがやっと来た電車の写真を撮りながら後を追う。ラッシュ時間で電車が止まり止まり進むので1台の電車を追いかけ、追い抜かれながら撮影できた。
                  
             隘路を行きリスボン市内電車

 この方面は古い住宅街で電車は狭い道を走っており、信号による交互通行になっているところもあった。朝日の当たり具合も良く大変満足できた。結局終点のサン・ブエセンテ・デ・フォーラ教会前まで歩いて行った。帰りは揺れる車内から撮影しながらホテルに戻った。
 11:15いよいよチェックアウト、15000$であった。空港バスにて空港へ向かう。無事にスイス航空のチューリッヒ行きにチェックインす。昼食は空港内のマクドナルドにて済ませた。余った$はポルトガル名物のクリスタルガラスの犬の置物になった。おそらく二度と来ることはないと思われるポルトガルではあるが出来ることなら「ポルトガルの風」に出てきたような田舎町をゆっくりと尋ねてみたいと思った。
 飛行機は順調にチューリッヒ空港に到着、列車にて中央駅までで、今回の旅行で初めてインフォメーションにて駅近くのHotel Limmathofを紹介してもらいさっそくホテルにチェックイン。料金はチェックイン時に100SFを取られた。やはりスイスのしかもチューリッヒのホテル代は高い。ホテル周囲を散歩し、夕食をなんとか済ませ、シャワーを浴び、日記をつけ眠る。明日はパリ経由で帰国だ。
5月16日(金)
 ホテルの部屋は川と反対のチューリッヒ大学のある丘に面しており、そこに行くケーブカーの路線が部屋の窓から見ることが出来た。写真を撮りたかったがタイミングが合わず結局撮影し損なった。  7:15発のEC 114Paris Est行きの列車に乗るため6:30には荷物を持って朝食へ降りていった。コンチネンタルの朝食を済ませ直ぐにホテルを出る。駅までは徒歩5分ぐらいで助かる。列車はすでに入線していたおり10数両の長い編成であった。1等車も数両有り優等列車であることが判る。列車は定刻に動き出した、広いチューリッヒの構内を同時刻発車の列車と平行しながらの出発であった。直ぐに郊外の風景となる。草原、林そして街並みを抜けて列車は快調に走る。スイスの風景はいつ見ても心を穏やかにしてくれる。景色を眺めながらぼんやりと過ごす。バーゼルのホームでユーロナイトの編成と並んで停まった。ちょうど座席車の中を覗くことが出来たがなかなか良くできているように思えた。
 ここからはフランスへ入国である。列車内を入国検査の係り員が回ってきたが女性の係員がひつっこくパスポートを見つめ、旅行先を尋ねたが横の男性の係員があきれ顔で見ていた。虫の居所でも悪かったのだろうか。いぜん訪れたフランスの鉄道博物館があるミュールーズを過ぎた。平原がどこまでも続き、小さな丘、谷を次々と過ぎていったが、フランスが農業国であることが実感させられる。途中からいつのまにか列車はDL牽引となっていたが列車は快調に飛ばしていた。
 TGVの制作工場のある駅をすぎたが2階建てのTGVとベルギー方面へのTGVで使用されるエンジ色の車両などを見ることが出来た。車内をミニバーと呼ばれるカートを押した車内販売がたびたび回ってきたがコーヒーや昼食となるサンドウィッチを買ったりした。手持ちのフランスフランが少ないこともあるが食堂車に出かけて行く気分とはならなかった。
 若干の遅れはあったが無事にオスト駅に到着。降りて驚いたが乗客の多いこと。プラットホームをあふれんばかりに乗客がいた。昨年はパリから旅行を開始したので2年つずけてのパリ訪問であるが今回は夜の飛行機出発までの乗り継ぎのためなのでパリに関する資料は何も持たなかった。19時頃までに空港に着けばよいので約5時間ほどの時間がある。ノード駅から空港行きの列車が出ているので荷物をノード駅に預けようと歩き出す。約10分ほどの距離であった。
 フランスのお金の手持ちが少ないので銀行、両替所を探すが見つからなかった。ノード駅構内にトーマスクックの両替所がありフランスフランを手に入れることが出来た。やはりどうしてもキャッシュがないことには身動きがとれない。重いバッグを預けたくてロッカールーム又は荷物の一時預かりを捜すがみつから無かった。結局荷物を持ったままでうろつくこととなった。
 エッフェル塔に登ったことがないので時間つぶしにちょうど良いだろうと思いエッフェル塔へ向かう。地下鉄に乗ろうとすると自動切符販売機になっている。降りる駅名も判らないし、ゾーン性になっているがそのゾーンも判らないし、使用方法がまるで判らない。販売機の前でうろうろしていると黒人がやってきてなんやかんや言って持っている小銭を出して見ろとゼスチャーをした。手に全部の小銭を広げるとその中から幾つかの小銭を取って切符を買ってくれたがどうもごまかされたような気がした。やはり何らかのガイドブックは入るなと思いながら地下鉄でエッフェル塔へ向かったがさすがに私で、迷うことなくきちんと乗り換えてエッフェル塔に近いビール・アッケイムにたどり着いた。徒歩約10分でエッフェル塔の下に到着、しかし荷物がじゃまである。
 今回はエッフェル塔の展望台に登るつもりなのでエレベーターに乗らなくてはならい。北側以外の塔の足に行列が出来ていたが南側の列の長さが短いのでその列に並んだ。直ぐに入場券が買えたが中に入って驚いた、なんと徒歩でエッフェル塔を登る入り口だった。さすがにびっくり、何せ荷物を持ったままなので少々考えたが元山岳部なので頑張ることとする。ジグザグに少しずつ登るが子供からおじいちゃんおばあちゃんまで歩いているので少々驚いた。エレベーターが上下するのが見えるので少々うらやましかった。さして追い抜かれることなく1段階から2段階目の展望台までスムースにのぼれたが足はガクガクとなった。
 上でジュースを飲み、ひと休みをして眼下のパリの写真を撮影。さすがに市内は良く見えた。更に一番上の展望台まで行けるのだがエレベーターに行列が出来ていたのであきらめた。  再び歩いて階段をくだり、地下鉄の駅まで歩き、今度は別の経路でノード駅まで戻った。ほかに買い物をしようにもガイドブックがないのであきらめ早めに空港に向かうこととした。
 列車でシャルル・ド・ゴール空港駅まで行くと駅は空港ビルとは連絡して無く、バスへ乗り継ぎ空港ターミナルへと向かうようになっていた。第2ターミナル経由で第1ターミナルへ、少々時間が早かったので地下のレストラン街でしばらく休憩をして時間をつぶした。
 大韓航空で早めにチェックインを済ませ出国手続きを済ませ14階にある特別待合い室へ行く。ここは飲み物が飲み放題であるし、ソファーで休むことが出来る。また、ファックスながら日本語の新聞も置いてあった。荷物を置いておみやげを買いに行く。どうしても少々のおみやげは必要である。時間になりKE902便にて21:20発、雲の切れ間にしばらく街の明かりが見えていたがやがて雷光が見られるようになった。その後雲の上に出たので天候は安定し、順調な飛行となった。
5月17日(土)
 眼が覚め外を見ると雲の上で、切れ間から見える地上も真っ白の地であった。飛行機の表示にてモンゴル上空を飛行しているのが解った。時間と共に大地が緑色となり、中国の上空を経て黄海から仁川の新しい空港の建設地が見えたらまもなくソウル、金浦空港であった。  
 約4時間の時間つぶしを済ませ、19:00福岡へ出発。20:15無事に帰国、今回の旅行もなんとか無事に終了。タクシーにて帰宅した。明日は一日ゆっくりして時差ボケをなくす予定である。