この海の向こう








誰もいない海。
砂浜を一人歩く。夕暮れ時が徐々に、空を鮮やかな橙へと染めていく。

さくさくと砂を踏みしだく音に、ふいに、ピシッと小さな音が加わる。
ジョーは立ち止まると、今、自分が踏みつけたばかりの小さな小枝を見下ろした。

「ねぇ、ほら見て、綺麗な貝」
そう言って足元にしゃがみ、貝を拾い上げたフランソワーズ。
そうしてあの亜麻色の髪がふわりと風になびくのをじっと見下ろしたのはいつのことだったろう。
もう随分前のような気もするし、ついこの間のような気もする。

ジョーは顔を上げ、沈みかけた金色の夕陽と海とを見渡した。
生ぬるい海風が、ジョーの長い前髪をふわりと揺らしていく。




日本を出てもう数ヶ月が経っていた。
海外遠征に明け暮れる日々。マシンの調整、テスト走行、そしてまた調整、そしてトレーニング…。考える間もなく毎日毎日が過ぎていく。特にこのところは、マシンが安定せず、いい結果が出せていないせいか、どこか焦りを感じる日々が続いていた。そんな毎日の中でも、ふっと合間に訪れるこんなオフの日には、こうして海辺にあるチームの別荘で一人の時間を過ごすのが習慣になっていた。

「海が見える以外、何もないところだよ。砂浜があるといっても、崖の下でとてもビーチとは言えないようなものだし」
そこがいいんだよ、と言って笑うジョーに、チームのメンバーは首をかしげたものだった。

別荘から数分歩くと切り立った崖になっており、そのすぐ脇に下の海岸へと抜ける階段がある。昼間でも人気はほとんどない。
その崖に立って遠くの海を見渡すと、まるでギルモア邸に帰ってきたかのような錯覚さえ起こす。それは、どこか懐かしく心を落ち着かせる風景だった。

この空も、この海も、君へと続いている……


故郷を思うというのはこういう感覚なのかもしれない。

ふと思いついた故郷という言葉に、ジョーはどこか気恥ずかしいような気持ちになり、口元に笑みを浮かべた。

故郷だなんて……

自分の言葉に可笑しくなりながらも、それでもやはりあの家が、そしてあの家に待つ家族にも似た存在こそが、間違いなく自分の故郷であり、還るべき場所なのだということを、数ヶ月たった今、ジョーは改めて実感していた。




波打ち際を歩く。
振り返ると、歩く傍から波が足跡を消していく。

よくこうして振り返っては、彼女に手を差し伸べた。
ふぅふぅ息を切らせながらジョーを追いかけてきては、また息をつく間もなく喋り続けて、息を切らす。

そんなに息を切らしてまで喋らなくてもいいのに。

いつか、ジョーがそう真面目な顔をして言うと、フランソワーズは一瞬ぽかんという顔をした後、「やだ、息を切らしてなんていないわよ」とコロコロと笑ってまた話を続けた。

バレエ教室の話をしたかと思えば、いつのまにか新しく近所に出来たカフェの話をしていたり、表情と同じに話題もくるくる変わる。そんな彼女の話に耳を傾けながら、人気のない海岸を2人散歩するのが、ジョーにとってはなによりも大切な時間だった。


フランソワーズに会いたいな。


ふとしたその思いは、唐突に自分の中で膨れ上がっていき、時として収集がつかなくなる。

彼女の笑顔が見たい
声が聞きたい
思いきり抱きしめたい
そして…

こうしてこんなところでぼんやりしているなら、電話の一本でもしてくれればいいのにと、きっと彼女なら頬を膨らませて言うに違いない。彼女のぷーっと膨らませた両頬を思い浮かべて、ジョーは思わず吹き出しそうになる。




ふいに、ピシッと小さな音が後ろの方でした。

珍しいな、と思いながら、顔を後ろにそらす。そして、その目が信じられないものを見たかのように大きく見開いた。


「……フラン…ソワーズ…?」


フランソワーズがそこに立っていた。
夕陽を背に浴びて金色に輝く髪に右手をやり、海風にそよぐベージュのワンピースの裾をそっと左手で押さえている。

「来ちゃった……」

そう言うと、彼女は風に揺れる小さな花のような、そしてどこか困ったような笑顔を浮かべた。




「あのね、安い航空券があったのよ」

本当にびっくりするくらい安いの。それでギルモア博士はそんな安くて大丈夫か?って言うんだけど、私は大丈夫大丈夫って。そうしたらね、その席、壁際でリクライニングもあまりきかなくって大変っ。おまけにお手洗いのすぐ隣だから人がひっきりなしに通ってうるさいの。長時間フライトでさすがに疲れちゃったわ。


一歩一歩、ジョーへと近づきながら、フランソワーズは喋り続ける。


私はもしジョーに会えなくっても観光してレースだけ見て帰ってこようかと思ってたんだけど、博士がわざわざジョーのマネージャーさんに電話してくださって。そうしたらその日はちょうどオフで別荘にいるはずですよって言うからびっくりしちゃったわ。ねぇ、ほんとに偶然よね。


ジョーはその場に立ち尽くしたまま、軽やかに歩いてくるフランソワーズをじっと見つめる。


それでね、マネージャーさんはジョーに伝えましょうかって仰ってくださったみたいなんだけど、私はいいですからって。だって内緒で来て、ジョーをびっくりさせたかったんですもの。でもここってけっこう空港から遠いのね。暗くなる前に着けなかったどうしようってちょっと心配しちゃったわ。

「ね、びっくりしたでしょ?ジョー」


ジョーの目の前まで来ると、そう言ってフランソワーズは得意げな笑みを浮かべ、下から覗き込むようにして首をかしげた。
蒼色の瞳が輝く。


「……うん……びっくりした」

フランソワーズを見つめたまま、ようやくジョーが口を開く。
そんな彼の様子に満足したのか、フランソワーズはまるでふわりと花がほころぶような、満面の笑みを零した。


心の底から、どうしようもなく愛しさがこみ上げてくる。
考える前に体が動いていた。ぐいと彼女の腕を引き寄せると、ジョーはその華奢な体を思い切り抱きしめた。甘い香りがふわりと広がる。その亜麻色の髪に顔を埋め、かき抱く腕にさらに力をこめる。するとフランソワーズもまた、おずおずとジョーの背中に腕をまわした。ジョーが大きく息をつく。
その広い胸に顔を埋めながら、フランソワーズが小さく呟いた。

「ごめんね、急に来たりして…」

ジョーは彼女を抱きしめたまま、何も言わずに首を振る。

「なんだか急に会いたくなっちゃって。そうしたら我慢できなくなっちゃって…。ほんとにごめんなさい…」


フランソワーズの柔らかな髪に口付けて、何度も何度も撫ぜる。
そしてジョーは苦しげに吐息を漏らした。

「……僕も…会いたかった…ずっと……ずっとこうして君を抱きしめたいって思ってた…」

「え?」

普段寡黙な恋人の思いもよらない言葉に、フランソワーズは思わず顔を上げた。
茶色の優しい瞳が覗き込む。そのあまりに真っ直ぐな瞳に捉えられ、体が動かない。と、徐々にジョーの顔が近づいてきて、彼女の唇にそっと触れた。
久しぶりに触れたジョーの柔らかな唇。焦れったいほどにゆっくり、ゆっくりと繰り返し重ねられていく。フランソワーズはそっと瞳を閉じた。まるで初めてキスを交わしたときのような甘い痺れに、頭がぼーっとなる。

このまま時が止まればいいのに。

ぼんやりとする頭の片隅で、フランソワーズはそう思った。




どれだけの間、そうして抱擁していたのだろう。
気がつくと辺りはすっかり薄暗くなっていた。

彼女の細い腕が思いがけず冷んやりとしていることに気づくと、ジョーはやっとその体を離して、フランソワーズを見下ろした。

「ごめん、だいぶ冷えてきたね。戻ろうか?」

はにかむようにして、フランソワーズがコクンと頷く。


「ねぇ、この辺りなんだかギルモア博士のお家にそっくりね。遠くへ来たはずなのに、なんだかまたあそこへ戻ってきちゃったみたい」

帰り道、彼女の話はまた止まらない。横で身振り手振りを交えながらあれこれと喋りつづけるフランソワーズの様子をジョーの優しい瞳が見守る。

「もう、ジョーったらまたこうして一人で散歩をしているのね。だったらその間に電話の一本でもくれればいいのに」

そう言って両頬をぷーっと膨らませる。その様子に、ジョーは今度は笑いを抑えきれずに声を出して笑った。

それでも彼女の話は止まらない。


上へと昇る階段のところまで来ると、ジョーは立ち止まり、後ろを振り返った。
そして手を差し伸べる。

フランソワーズのお喋りがふっと止まる。彼女はにっこり笑うと、ジョーの手をとった。
そしてしっかりとその手を握り締めた。


波間の向こうにはもう、一番星が輝き始めていた。




Fin.




大変大変勝手ながら、namakoさん宅にあるmayoさんの名作「それは優しく風のように」という作品の設定を一部お借りして、それでもってnamakoさん宅のジョーとフランを勝手に頭の中で動かして、妄想を繰り広げてしまいました。すみません〜〜(>_<)。うーん、自分では遠恋ものには手を出さないつもりだったんですけどね…。ただ、フランに「来ちゃった…」の一言を言わせたかっただけなんですが、どうも途中から壊れ気味で、なぜかこんな話に…。重ね重ねすみません〜。またこんなものを人様に押し付けていいものやら…。
こんな駄文で申し訳ないばかりですが、お読み頂ましてありがとうございました。(ぺこり)
July.31, 2004  あこ




あこさん〜〜
とっても素敵なジョーとフランソワーズをありがとうございました。
うちのジョーとフランを使っていただいたとのお言葉、ありがとうございます。でもこの二人はうちのなんかよりもっとピュアでかわいいと思います〜。
純粋でラブ度の高い作品が、こういうジョーとフランに飢えていた心に染み込む人は多かったはずです!わたくしもそのひとりです、もちろん。
あこさんの書かれるお話は、最近ラブ度数が高くなるとどうしても背中が痒くて書けないわたくしにとって見習いたいものです。遠距離の切ない気持ちを表現されるのがお上手なのは、あこさんならではvですね。また妄想したら是非下さい(笑)。飢えてますので(純愛に)。

namakochan