匿名の苦情


職場にて、匿名の苦情を受けた。
電話のその声は、とても神経質そうな雰囲気を帯びた中年の女性のものだった。

「今日お宅で買った黒豚を調理したらとても臭かったのよ。」というセリフで始まったその電話による苦情の訴えは、約14分間に及んだ。

俺は、某スーパーの精肉部門を担当する仕事をしている。俺の勤める会社では現在の大手チェーンストアでは少数派となりつつあるインストア・マーチャンダイジングを基本とした戦略を採っており、店の中で商品を加工して陳列・販売している。最近の主流は外部に委託した工場にて加工・パッキングされた商品をただ発注・陳列しているそれに比べて、より担当者は職人に近い要素を求められる違いがある。
それだけに担当者は商品の品質、加工技術、鮮度管理には非常に気を使わなければならないし、実際にそうしている。

商品が傷んでいたというありがちな苦情とは、今回は少し様子が違った。
苦情と言っても、そうそうある物ではないが、その種類は幾つかに分類する事が出来る。

1.商品の品質に関するもの。
2.商品の価格に誤りがあるもの。
3.接客を主とするサービスレベルに関するもの。

大きく分けて、この3つなのだが、今回のそれは1.の品質に関するものであった。ただしその匿名の主は「痛んでいた訳ではない」と明言した。
品質に関する苦情という物は、生鮮品においては「腐っていた」とか「嫌な臭いがした」とかそういう苦情しか受けた事がない俺にとっては、今回はどう対処して良いかまったく判らなかったのだ。・・・そう、本当にまったく判らなかったのだ。

「パックを開けた時はまったく臭わなかったのに、調理をしたら酸化が進んだような臭いというか、アンモニア臭というか、そう言う臭いがしたのよ。とても耐えられないんだけど!」と匿名の主は訴えかける。
「他の安売りスーパーの肉でもこんな臭いのする肉は無いわ。お宅の肉では今までにも幾度かこういう事があったの。これは何故かしら?」

俺はお客様の購入日、購入された商品の加工日、購入された商品の状況、などを丁寧に聞き取りつつも、お客様自身がその商品の品質や鮮度に特に問題はなかったことを認めてくれている事を確認した上で、その商品の代替品をお客様の家までお届けする事を提案し、丁寧に申し上げたのだが、「なんであなたが私の家に来なくちゃならないのよ!たいへん失礼だとは思わないの!迷惑よ!!」と怒りをヒートアップさせてしまった。

クレームがあった時はその理由に問わず、お客様の所までこちらから伺って処理する事が俺の企業では大前提となっているのだが、匿名性を重視されるこの方には大変迷惑な申し出に受け取られてしまった模様である。

「お宅の肉を買った時はいつもこんな嫌な臭いがするのよ!」
(・・・さっき「幾度か」って言ってましたけど?)

加工方法や、鮮度管理について匿名の主に対する質疑に対して俺が応答の後、
「お宅の肉を買うと必ずこんな嫌な臭いがして耐えられないのよ!!」
(・・・「必ず」ですか??)

「まわりの人達もみんなお宅の肉が臭いって言っているのよ!!!」
(・・・「みんな」ですかぁ???)

誠意ある態度を示さなければならないという会社員的使命感と、俺の興味的本意から、その臭いを確認させていただきたい旨をそれはそれは丁寧に伝えたのだが、

「交換とか、返金とか、そんな事を要求している訳じゃないのよ!(×4)。非常に不愉快だわ!(×5)」

電話の向こうもこっちもお互いに不愉快な雰囲気である。

おさらいしてみよう。
鮮度に問題はなかった。
パックを開けた時には特に臭いはなかった。
調理をしたら嫌な臭いがした。

「幾度か → いつも → 必ず → みんな」 と表現が変わった。

大事なお客様の「苦情」というアピールに俺は答えられなかった。
こちらは名前を名乗って対応させていただいたが、お客様の情報は一切得られなかった。
電話は一方的に切られた。
俺はとても悔しい思いをしている。自信を持って販売している商品に対して、この匿名のお客様は非常に憤慨している。
俺はそのお客様の憤慨の理由も結局よく判らなかったし、怒りを収める事も出来なかった。

お客様は(多分)まだ怒り狂っている。
俺はその怒りの理由も、お客様の表現が徐々に誇大になっていった理由も根拠も判らずに、お客様の苦情に対して充分と思われるような対応が出来なかった事に対して、少々凹んでいる。

2003.7.3.




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