カンニング


パソコンではゲームで遊ばない俺だったのだが、最近になって 「四川省」 というゲームにはまっている。麻雀牌を使ったパズルゲームで、非常に単純なルールとシンプルなゲーム性が手軽なのでついついやってしまう。クリアした時のタイムが短ければ短いほど好成績ということになるわけだが、なかなかどうして好成績は簡単には出せないのであった。
このゲームには「手詰まり」という物が存在する。これ以上はゲームの進行が不可能だという状態になった時に画面上に「手詰まりです」と表示されて自動的にゲームオーバーになってしまうのだ。ゲームオーバーにもかかわらずこの表示が出ると俺は少しばかりほっとしてしまう。やはり手詰まりだったかと。
このゲームでは条件を満たした牌同士をペアで取り除いていって、全部なくなればクリアなのだが、条件を満たしている牌を自分で見つけるのがなかなか難しいのだ。画面に「手詰まり」と表示されないということは、まだどこかに取れる条件の牌が残っているハズなのだ。それにもかかわらず自分で探せ出すことが出来ないのは、イライラするものだ。
どうしても取れる牌を自分で見つけることができない場合は、「サーチ」というコマンドが用意されていて、これを実行する事により、現時点での取れる牌を教えてもらうことが出来る。解答を見た時点で、タイムアタックの権利は無くなってしまうのだが、なかなかどうして、一生懸命考えたにもかかわらず、取れる牌を見付けられなかった時には「どこに取れる牌が残っているというんだ」という気持ちが非常に大きく働いて、答えを見たい衝動に駆られるのだ。たいていゲームの続行は諦めて解答を実際に見てしまう。「あー、こんな所にまだあったのか」と。それだけの感想である。

学生のころ、問題集なんかをやっていて、ちょっと考えてみて答えが分からなかった時、問題集の後ろの方に付いている模範解答を見ては、「あー、こんなに簡単な事だったのか」などと、自分で解いてもいないくせに、解答を見ただけで自分がその問題を解いてしまった事にして、次のステップに進んでしまうことをしばしばやっていたのを思い出した。
解答を知ることにより、まるで自分が達成したかの用に気持ちをすり替えてしまう。実際に自分で解いたわけではないのだから、自分の力にはなっていないにも関らず、だ。それだけの行為で満足してしまうのだ。

どんなに時間がかかろうとも、四川省で諦めずに最後まで自分の力でやり抜くことが出来た時、あの時の自分を超えることが出来るだろうか。

2000.5.25.




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