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K's Room Odds & Ends

時間という不思議な概念


 仕事でよく新幹線を利用している。「のぞみ」はもちろん、長野新幹線の「あさま」や、山形新幹線の「つばさ」にも乗った。別にいろいろな電車に乗れていいだろうとか、凄いだろうと言っている訳ではなく、結果的に仕事上“やむなく”乗っているだけであり、本人の気分としては、もうただただ「かったる〜い!」でしかない。本を読んでいれば良いだろうとか、寝てれば着くだろうなどという言い分もあろうが、実際本を読みたくない事だってあるし、眠くない事もあるわけである。

 秋田新幹線の「こまち」に乗り秋田まで行った時には、もう本当に“ここで降ろせ〜”と、叫びながらの道中であった。昼寝を二度してもまだ着かず、途中でスイッチバックして後ろ向きに走りだしたことに驚きながら、東京から4時間、監獄列車「こまち」で秋田に着いたのだ。どんなに快適な車内などといっても、四時間である。映画なら二本丸々見られるが、もちろん映画など流れていない。

 まあ、しかし、4時間列車に揺られるとはいえ、地元の人達にしてみれば、東京から直通の新幹線が通ったその恩恵や計り知れないであろうが、お願いだから新幹線なんか開通させないでくれと本気で思ったものであった。

 で、そうなのである。新幹線が“開通さえしていなければ”、秋田へのこの出張は存在しなかったのである。言換えれば、行けるような状態になってしまった為に、四時間もの間監禁状態を味合わされる羽目になったと言えるはずである。

 この「便利」とか「画期的」などといった言葉の裏には大変な落とし穴がある、僕は最近そんな事を考えてやまない。

 東京から新潟まで上越新幹線で二時間少々である。ずっと以前、例えば川端康成の「雪国」の頃の話で言えば、新潟といえば夜行列車で一昼夜とか、一泊時間を潰してから新潟入りといった道中であったらしい。それが今ではなんとも便利になり、時間だけを見れば日帰りで充分行き来の出来る圏内である。

 この二時間と少々、僕には途方もなく長く、それこそ何十時間分にも感じられて仕方がない。これは先にも書いたように、僕自身が電車に辟易しているという事に他ならないとは思うのだが、ただ単に退屈だからとか、嫌いだからとかいう個人の価値観だけではないような気がする。時間は二時間少々である。しかし、その間実際には300キロ以上の空間を移動している。何の根拠もない事なのだが、人は何百キロの道中を移動したなら移動した分だけしっかりとダメージを受けている、そんな風に僕は思えるのだ。時間とは一つの概念でしかなく、新幹線で二時間だからとか、寝ているうちに着いちゃうよとかいった事ではない何かがある。もちろん科学的な裏付けなどあるはずもないのだが、僕は固くそんな風に信じている。

 少々話は逸れたが、この東京ー大阪間、大きな採算が見込める超メジャー路線は、JRが進める「列島高速化」計画の最先端を走っている様子で、現在「のぞみ」で二時間半の道中が、二時間に、更にリニアモーターカーに至っては軽々一時間での移動が見込めるらしい。江戸時代ならば、莫大な経費と時間、そして多大な労力を費やし、「参勤交代」で地方の大名を徹底的に疲弊させたたこの距離も、今や映画を見始めても途中で止めなければならないほどの距離感へと移行してきたようだ。

 仕事で東京から大阪まで出張となる。以前であれば何も言わずとも「泊り掛け」でという事であったものが、二時間でという事になれば、「日帰り」でという感覚にも変わってくる。物凄く大雑把に考えれば、大きく時間を短縮できる分、倍の時間を仕事に費やす事が出来るようになるわけで、利益優先の企業にとってはこの上なく効率的な話であり、またまた安易な言い方をすれば、明日の分の商品を今日売る事が出来るという事になるわけだ。

 大変な平成の不況の中、既に行き着き、停滞してしまった感のある日本経済。本来の人々の欲求は満たされ、何一つ困っていない筈なのに誰もが更に何かを欲しがっている。供給者はありもしない需要を強引に生み出し、コストを徹底的に削ってなりふり構わず大量に生産、しかもそれを超高速のスピードで流通させ、経済全体を大変なスピード競争へと煽り立てる。ちょっと話は逸れるが、携帯電話の爆発的な普及で「担当者が捕まらない」などという言葉はなくなり、インターネットからは瞬時に資料が取り出せ、携帯の画面案内を見ていればもはや道に迷うことすらなくなった。

 結局の所、この“便利さ“という言葉に、人は尻を叩かれ捲くり、超高速でゴールの無い道を突き進んでいるとしか思えない。

 これじゃあ、もう余裕もゆとりもあったもんじゃない。

 人間がこんなにも速いスピードで動かねばならない理由は何だろう。そして、もう、こんなパワーゲームはやめようよ!と僕は言いたい。いいじゃん、みんなゆっくりやろうよ!と超怠け主義の僕は叫びたい。売ろう、回そうと躍起になるのではなく、必要な分だけを、必要なだけ売る。そんなふうに、考えられないものだろうか。そして、日本国民がこれを“いっせいのせ”で始めるのである。携帯も、ファックスも、特急電車も止め、みんなで少しずつの純益を分け合う。そうすれば、少々個人の生活レベルが下がったとしても、今よりはずっと豊かで明るい社会になるんじゃないかと、僕は考えたりしているのである。

 ひろさちやさんの文章で、面白い話があったので引用させていただく。

 ある日本の旅行者が、インドの魚市場を通りかかった時のこと。小さな台の上に魚を一匹だけ置き、そばに立っている三人の男の前を通りかかった。その旅行者は、何をやっているのですかと、三人の男に尋ねる。すると男達は、店番をやってると答える。

 「なぜ三人で店番をするのですか?」

 「三人でこの魚を捕ってきたからです」 

 「この魚は売れ残りか?」

 「いや、この一匹しか取ってこなかったのです」

 「なぜもっとたくさんの魚を捕ってこないのですか?」

 すると三人の男の中の1人が、「魚は海にたくさんいるよ、これが売れたらまた魚を捕りに行けばいい」と答えたと言う。

 今の日本の物価では、魚一匹売っただけでは到底その日を過ごしてはいけない。しかし、定置網でごっそりと取って来て、冷凍倉庫に山のように貯め込むのではなく、せめて一本釣りくらいにはしましょうよと言ってみたい、今日この頃の僕なのであった。

(03.11.30)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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