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K's Room Odds & Ends

ダブルエスプレッソ 8


 最近カバー曲をよく耳にする。よくは分からないが、カバーとは、誰かが歌っていた(演奏していた)曲を改めて別の人が歌う(演奏する)事を言うようである。大抵の場合は、かつてヒットした曲を改めて歌い直したり、海外で売れた曲に日本語の歌詞を付けたりしているようで、当然ながら一度ヒットした曲をやり直す訳なのだから、再びヒットという確率も高いのだろうと思う。

 「贈る言葉」という曲がある。1980年頃にヒットした武田鉄矢率いる海援隊の歌ったバラードソングである。

 この曲のハードロックバージョン(?)というのを最近耳にした。もちろん海援隊がリメイクしたわけではなく、興味もないので誰が歌っているのかも知らない。そして、この曲のレベル、例えてみれば、下手なバンドが練習の合間の暇つぶしに歌っちゃった、あるいは、学生が泥酔して街角で歌っちゃった程度の完成度でしかない。

 「いちご白書をもう一度」と言う曲がある。ユーミンの作詞作曲で、かつてばんばひろふみ率いるバンバンが歌いヒットした曲である。これを誰かが同じ曲調でカバーしていた。曲の出だしを聞いた瞬間は、「なんだよ、ただ同じように歌うだけか」と、そう思った。しかし、それも束の間、突如として“合いの手”が入る。そして、これがなんとラップなのである。

 「いつか〜君と行った〜」と、まさにバンバンそのままに歌い始めた直後、オー、イツカキミトイッタ!みたいな別の人の声が入るのだ。これも、まるでカラオケボックスで誰かが仲間の歌に茶々を入れている程度の代物でしかない。

 まあ、バシバシと勝手な意見を言わせていただき、少々聞きずらい部分もあろうかとは思うが、このカバー曲というもの、作りて側からすれば、第三者が作った物を真似るわけで、どこか卑屈な部分もあり、失敗した場合にはチョー恥ずかしー物であるはずである。そんな性質の物であれば、慎重にオリジナルとは別の意味での完成を踏まえ、満を持して世に発表する。まあ、少々大袈裟ではあるが、そのくらいの責任は背負って当然だと僕は考えるのだ。

 しかし、最近は世の中の軽薄さをもろに受けてか、こんな堅苦しい考えなどどこ吹く風、“一発当たればこっちの物”的な「ばくちソング」として製作されたような物が余りにも多く、安易に世の歌謡界に氾濫している気がしてならないのである。

 少し前ではあるが、野口五郎氏が、全米で爆発的なヒットとなったサンタナの「スムース」と言う曲をカバーしていた。はっきり言ってこれも酷かった。ご存知の方もいるとは思うが、どう酷いのかはぜひ機会があればお聞きいただきたいほどである。ある意味ではまったく泣かず飛ばずだったようなので、野口五郎という品位ある偉大な歌手の名声を汚さなくて良かったようではあるが(・・・)、僕の極めて個人的な見解として、この隠れた名作には「史上最低カバー賞」を授与したいと考えている今日この頃なのである。

  少し前になるが、若者を中心に日本語の意識調査みたいなものが行なわれた。それによると、コンビニやファミレスのレジで良く聞く「一万円“から”お預かりします」や、「今日は会社を休ま“させて”いただきます」といった言い回しに、特に違和感を感じないと答えた若者がかなりの割合を占めたということだった。僕自信、当然若者の部類には入らないわけではあるが(・・・)、そんな言葉も、「もうここまで日常的に使われていれば、それはそれで良いんじゃない」程度の認識でしかない。しかし、そんな中でも実は気になって仕方のない言葉が一つある。それは、食事をする店などで良く聞く、「なります」という言葉づかいである。

 ラーメン屋でチャーシューメンを注文したとする。

 店員の女性が出来上がったラーメンを運んでくる。そして、テーブルへ置くなり一言、「チャーシューメンになります」

 “なります?”

 そんな時の僕は、居ても立ってもいられず、「本当になる(成る)んだな?」と、意地悪にも聞き返してしまいたい衝動に駆られるのだ。

 このシーンで、まあ、普通に使うべき言葉としては、「チャーシューメン、おまちどうさまです」や、「チャーシューメンでございます」でいいと思う。しかし、それを「なります(成ります)」って・・・・

 例えば、何か小さな種のようなものをお皿の上にちょこんと載せ、ウエイトレスがそれを客の目の前のテーブルに置く。何が起きたんだと、キョトンとする客の目の前で、「チャーシューメンになります!」とウエイトレスが言うや否や、突然その種が白い煙と共に小爆発を起こし、あら不思議、次の瞬間には、満々と湯気をたたえるどんぶり一杯のチャーシューメンに変身する。こんなマジックが展開されるのであれば、この場合の言葉として「なります」は、何ら文句もない。ウルトラセブンの持つ、怪獣カプセルが目の前に置かれ、「ウインダムになります」と、言われるのであれば、こんなにワクワクすることもない(・・・)。

 まあ、訳の分からない事を言ってはいるが、この「成ります」では、「成らない」のだから、結局のところ、嘘を言ってるようなもので、何とも釈然とせず、せめてチャーシューメンくらいは、何も考えずに食べさせてくれよと言いたい今日この頃の僕なのである。

 携帯電話は実に便利である。ある程度の制約の中でなら、いつでもどこでも誰とでも喋れ、メールも送れて写真も撮れる(この“れる”にも気になる方が多いとか・・・)。インターネットに繋がる機種であれば、ニュースも見れるし、地図や時刻表の検索も出来る。これで、洗濯が出来たり、掃除が出来たりするなら、もう、申し分ない(・・・)。

 しかし、ダイヤル式電話世代最後の生き残りとしては、この携帯に、やっぱりちょっとなあ、と思うことにも多々遭遇するのである。

 深夜の地下鉄のホーム。最終電車まで列車が後1,2本という時刻、ポッカリと空いた電車待ちのそんな時、辺りは“携帯凝視人”で溢れかえる事となる。あっちのホームもその向こうのホームも誰とも会話するでもなく、携帯画面を睨み、ひたすら親指だけを動かす人々で埋め尽くされているのである。そこには老若男女の隔たりもなく、自力でやっと立っている程度の泥酔者さえも含まれる。そして、暇そうな駅員がチラッとポケットから取り出しているのを、僕は見たことがある(おいおい、まずいだろう)!そんな状態は、まるで家族が互いに背を向けて、それぞれ一人一台のテレビにでも向かっているようなもので、なんか変だなあと感じながら、そんな時僕は妙な寂しさを憶えるのである。

 街中いたるところで鳴り響いているあの着信音にも、本当に何とかならないものかと思う。本当のことを言えば、音楽を鳴らしていること自体おいおいと思っているのだが、明らかな選曲ミスをしている場合なども多々見受け(聞き受け)られ、そんな時には関係のないこっちが恥ずかしくなったりする。それは大抵の場合、良いお年のお父さんの事であり、ミッキーマウスのテーマや、ゴジラのテーマなどを設定するのは本当に辞めてもらいたいものである。そして、着メロの次は、着ウタですかあ? と、なると、お父さんの選択曲はいったい・・・

 ずっと以前の話、世にあった携帯電話といえば、主に兵士が使うものであった。戦場で使われることが主な目的で(・・・)、大型のハンドバックのような鉄製の電話機を肩から提げた通信兵が、前線で敵の奇襲攻撃を受けている最中、飛び交う砲弾の下、本部へ応援の要請を通報するための手段であったのだ。そして、その際のダイヤルに相当する部分は当然プッシュボタンなどではなく、手動式の鉛筆削りに付いているような回転式のレバーであったのだ。で、いったい何が言いたいのかといえば、要は携帯電話とは本来はそれほど特殊な用途で使用される物だったと言ってみたいのである。

 現代の日本では、徴兵されることもない小学生でも携帯電話を手にしている。携帯電話がないと、友達のメーリングリストに入れず、仲間はずれにされるとさえ言う。まあ、良いのか悪いのかもよく分からないけど、携帯電話の普及で、ますます電話が嫌いになった事だけは確かなこの頃の僕なのであった。

(03.07.18)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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