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K's Room Odds & Ends

ダブルエスプレッソ 7


 桜の花見というのがどうしても好きになれない。もちろん桜の花は単純に奇麗だと思うし、厳しい寒さから開放されるこの時季、外を歩くのは何とも気分のいいものだとも思う。しかし、桜並木の下へ行くと決まって目に留まる、屋外生活者のようにビニールシートを敷いて、大勢で酒を飲んでいる、あの悪習としか思えない行為が何とも嫌なのである。まあ、何かと理由を付け、適当に集まっては酔っ払って大騒ぎする日本特有の文化、この時季外で酒を飲んでみたい気持ちも分からないではない。しかし、のんびりと花を眺めて散策したい人にとっては、あの行為は迷惑以外の何物でもない。コンロ持参煙もうもうでバーベキューをやっていたり、中にはカラオケ持参で歌を唄っていたりと、歩くのさえままならない迷惑千万な行為がなんとも目に余ってしまう。

 アメリカのワシントンに日本から贈られた桜の並木があるらしい。春になると満開の桜並木の下を散策する地元の人達の様子がニュースの映像などで紹介されたりする。しかし、その光景は何ともお洒落でスマートであり、真っ赤な顔をしたサラリーマンのおやじがぐだを巻いている姿とはあまりにも対照的で、もうちょっと日本人しっかりせにゃなあなどとさえ思えてしまうのである。

 まあ、その点梅はいい(笑)。やはり三月という寒い時季もあるだろうが、梅を見ながらござを敷いているような連中を見る事はまずない。なんともまだ寒いのは嫌だが、桜の騒々しい季節になる前に、のんびりと梅の散策でもしてみたいと思う。

 2003年の冬、日本列島の冷え込みは事の他厳しかった。ちらほらと咲き始めた梅の木を眺め、この凍死しそうな寒さもあともう一息と、わずかな希望を見出しているこの頃の僕なのである。

 芸能レポーターという職業がある。正確にはそういう名称、そして、職業として認知できるものなのかどうかもよく分からないが、職業で人を差別してはいけませんと教えられてきた僕ではあっても、何ともあの仕事だけはこのうえなく下衆であり、軽蔑する対象となってしまう(ああ、しかし歳を取ると怒ってばかりだあ)。

 相手が芸能人、有名人だからといって、誰と誰が交際してるとか、結婚したとか、はたまた不倫したとか、盗撮したとか(・・・)、そんな物は本人の勝手であって(一部勝手でないものもあるが(笑))、他人がとやかく言う筋合いのものではないはずである。人の都合を根掘り葉掘り掘り下げて、適当に視聴者が興味を惹きそうな脚色を加えながら、一つの記事として不特定多数に向けてに公表してしまう。そんな行為が許されるのだったら、隣の家の風呂でも覗く事の方が、よほど可愛いものだとさえ思えてしまうのである。

 平日の朝の7時前後、出勤前のバタバタした時間帯、朝刊のダイジェスト版のような、ニュース、天気予報と、実に便利この上ない番組が各局で放送されている。「おはよう○○」とか、「ズームイン○○」とかいったタイトルの番組の事である。しかし、そんな番組の中、政治や経済、国際問題などといったニュースの合間に、芸能人のスキャンダルが必ずと言っていいほど流される。しかも、キャスターなどと呼称を付けられた背広にネクタイのおじさんが、私は大変な人格者なんですと言わんばかりに、時には自分の子供ほどの年齢の人達のプライベートを、あからさまに、そして、まったく正当なニュースのように解説してみせるのである。本来であればこの人達、その職業故に、世を忍ぶ立場でさえあろうとも僕は思うのだ。

 まあ、しかし、結局のところ、こういったニュースを欲している一般人がいるからこそ成立している職業なわけでもある。これだけ平和で、同時に閉塞感のある世の中、刺激的なスキャンダルに飛び付く人達の心情も分からないではない。けれども、結局のところ人の事をあれこれと関心を持つ前に、自分の人生を充実させま、こんな職業が成り立たないような世の中を作りましょうよなどと、大それた事も言ってみたい僕なのである。

 先日朝日新聞のコラムで面白い文章を発見した。それは、そのコラムの作者が、見ず知らずの個人のホームページを開いた時の事、そこに「日記」なるタイトルのコーナーを発見、何気にそこをクリックしてみると、唐突に「○月○日、今日は天成庵で蕎麦」とだけ書かれた文章が現れたそうだ。そこには、どこどこの天成庵であるとか、昼飯だったのか夜食だったのか、そしてその蕎麦は一体うまかったのかなどといった注釈はまるでなく、ただ一言「今日は天成庵で蕎麦」なのである。

 作者は何とも気になり、次の日もそのページを覗いてみた。

 すると今度は、「朝日堂で立ち読み」とだけ記されていたそうである。作者はこのスタイルに愕然とし(・・・)、そして、考える。日頃、文章の体裁を整え、読み手にどう受け取られるかに心血を注いでいる作者にとって、この衝撃は計り知れないものだったようだ。そして、苦悩の末、一つの答えを導き出す。それは、今の時代のホームページに、突き詰めたテーマを不特定多数の社会に向けて提示していくような堅苦しい義務や使命はもはやなく、「今日は天成庵で蕎麦」程度の、なんの意味もない「メモ」を日々載せ続けてみても、それはそれでひとつのスタイルとして、立派に確立しているのではないかということであった。で、なんなのか・・・この作者の取り上げたことが僕にはけっこう興味深かった。

 Webの世界に星の数ほどもある、「しょうもないHP」。まあ、僕のHPももちろんそんな中に含まれるわけであるが(笑)、一応どんな形であれそれらを「定義付けた」という点で、すごく意義のあるコメントだと僕は思ったのだ。

 以前村上春樹の小説の読者から、文章中に誤りがあるとして本人宛にそれを指摘する文章が届いたという。確かそれは、「ノルウェーの森」の文掌中、「僕」と「直子」が市ヶ谷のあたりを歩くシーンで、その距離に対してあまりにも歩く時間が短すぎるとかそんな内容だったようだ(違ったかな?)。その指摘に対して作者はだいたいこんな事を答えていた。「小説はフィクションであるから、時間が逆回りしようが、太陽が西から昇ろうが、そんな事は書き手の勝手なのだ」と。

 ぜんぜん話が繋がらなくなってしまったような気がするが(笑)、要は一個人が自分の好きで書いている文章、その内容を人にああだこうだ言われる筋合いはなく、お金を取っているわけでもないし、別に誰に何を言われたわけではないのだが(笑)、そんな文章を読んで、挫折しかけそうなこのコーナーも、もうひとふんばり頑張ってみようかと心新たにした今日この頃なのであった(笑)。

(03.03.08)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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