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K's Room Odds & Ends

ダブルエスプレッソ 6


 先日近くの中型スーパーで特価品のワイシャツを数枚購入した。値段はずいぶんと安かったが、以前では考えられないくらい、生地や縫製の実にしっかりしたものが手に入った。タグを見ればメイドインチャイナ。ご多分に漏れず昨今のデフレの恩恵(?)に授かっているわけである。

 で、いざこのワイシャツの包装を開き、実際に袖を通すまでに、毎度ながらなんともその煩わしさに四苦八苦することとなる。ワイシャツをお決まりの「あの形」に整えてある「部品」、これをを外すために大変な手間を要するのだ。開いても開いても箱の中からリボンの掛けられた一回り小さな箱でも出てくるように、次から次へとワイシャツを留めてある「部品」が出現して、その度に落胆を繰り返す事となるのである。

 サラリーマン諸氏の方なら、必ずや一度くらいそう思われた事があるはずだと思うのだが、高々シャツ一枚販売するために、こんなにも沢山の部品を付ける必要とは何なんだろうか。朝出掛けに新品を卸して着て行こうなどと甘く考えていると、思いも掛けず時間を浪費してあたふたする羽目となる。

  勤務先が近いこともあり、会社帰りによく超有名デパート「T」の食品売り場を利用している。パン屋で朝食用の山形パンを購入する時なども、やはりその包装には、ちょっとやり過ぎなんじゃないと思えて仕方がない。300円程度の山形パン、まず裸のパンを透明なビニールに入れてその口を可とう製のあるビニールで留める。次にそれを紙の袋に入れ、更にセロファンテープで止め、最後にあの有名な「T」デパートの手提げ袋に入れて渡されるのである。なんとも丁寧で、パン一つが実にリッチな気分にもなる。でも、やはり「ちょっとこれはやり過ぎだよなあ」の感は否めないのだ。

 ドイツなどではペットボトルを洗って中身の詰め換え品を買いに行くほど徹底してゴミを出さないらしい。万事がそんな調子のようで、一般の人達の資源の無駄を省くという気運がかなり強いようだ。まあ、いきなりこんな真似をしようとはなかなか思えないが、日本でもスーパーのレジ袋さえもお持ち下さいとアナウンスされる昨今、やはり地球人の一員としてエコにも協力せにゃなあと思ったりするのである。

 最近新橋の駅の近くを通りかかった時、実に唖然とする風景にぶつかった。それは、烏森口方向からJR新橋駅の興趣な駅舎を眺めた時、かつてその向こう側にあったはずの空が、突如現われた巨大なビル群の壁によって取って代わられていたからである。それはまるで、東京湾に上陸したゴジラか、世界を10日間で焼き払ってしまった「巨神兵」の出現のような衝撃に僕には感じられた(!)。

 そのビル群は「シオサイト」などと呼ばれるもので、旧国鉄の貨物駅の広大な跡地に、超高層ビルや超高層マンションなどが、この先十数棟が立ち並ぶ予定らしい。もっとも、こんな風に辺りの風景を一変させてしまうような大規模な開発は、都内近郊いたるところに出現していて、ビルの展望台などから外の風景を眺め回してみれば、まるで釣り堀に集まった釣竿のように、巨大なクレーンの姿をいたるところに見る事が出来る。この「シオサイト」そんな同時多発的な東京の巨大開発の中でも最大規模の物のようだ。

 で、僕は思うのだ、と、言うより誰もが思っているはずであろう、「いったい、こんなにたくさんの「空き室」が、これだけ景気が悪いと言われている今の日本に、本当に必要とされているのだろうか」と。

 今、 僕の勤務する日本橋でもご多分に漏れず、勤務する会社を取り囲むようにして新築マンションの建築工事が行われている。以前、それはわずか十年くらい前、この辺りは、正真正銘のビジネス街であり、とてもではないがマンションが建って、人が新たに移り住んでくるとは想像も出来なかった。しかし、今では都心のどんな場所であろうと、山手線の駅前や、銀座のど真ん中にも、ぬくぬくとマンションが立ち上がっていて、サラリーマンに充分に手の届くような値段で販売されているようだ。 毎日の新聞に織り込まれてくる分譲マンションの広告なども、もはや異常な量だといえる。

  結局のところは、建築業界も大きくなり過ぎてしまった体を支えるためには、無理矢理にでも新しい需要を創り出して行く他なく、もはや目の前の利潤だけを追求する自転車操業に陥ってしまっているような実状があるらしい。しかし、一体こんな事で、本当に日本の経済は大丈夫なのだろうかと、その規模が余りにも大きいだけに、漠然とした危惧を感じずに入られない。なにかとんでもない問題を先送りにしている危険は孕んでいないのだろうか。
 まあ、なんだかんだ僻みっぽい事を言ってはいるが、人波の経済水準にも達していない我が家では、到底マンションなど買う余裕はない。賃貸だろうが、何だろうが住めれば良い程度のお気楽者なので、後二十年くらいしたら、今売り出されている「億ション」を、中古で思いっきり安く買ってやるぞ!、などと意気込んだりしているわけなのである。

  東京ディズニーランドに今まで三回程行った事がある。三回も行っておきながら何なんだが、自分で行きたいと思って行った事はない(笑)。僕はどうも基本的ああいった作られた環境というのが苦手で、チケットを買ってゲートをくぐる瞬間に何とも言えない閉塞勘に教われて、一刻も早くそこから逃げ出したくなってしまうのだ。園内に入ったら入ったで、何の乗り物に乗っても「凝った作りだなあ」とか、パレードなどを見ても「ああ、こんな風にみんなをその気にさせるんだなあ」などと感心するだけで、一向にその場所に同調して行けない。与えられた環境にうまく馴染めない、ディズニーランドはあまりにもその規模が巨大なだけに、尚更僕のそんな反抗心をむくむくと刺激してしまうのである。

 まあ、僕みたいなのは極めて特殊な例だとは思うが(笑)、極端にこういった環境にに「傾向」してしまう人もどうかと思う。

 東京駅で以前ミッキーマウスと白雪姫に出会った。もちろん本物であるわけではなく、そういった特殊メーク(?)をした一般の人、それも割と年齢の高い二十代の女の子の二人連れを見たのである。それはまあだいぶ以前の話で、地下鉄サリン事件からまだわずかしか時を経てなく、僕がその二人連れを見た瞬間に思いかんだ事は、「ああ、あの集団と同じだあ」であったのである。

 もちろん、ディズニーランドを純粋に好きな人に対して、某宗教団体の信者と同じ性質だなどと言ってるわけではないので誤解しないで頂きたい。しかし、ミッキーマウスと白雪姫を見た瞬間、日本で行われたワールドカップの時、やはり東京駅で顔に国旗をプリントした陽気なアイルランド人サポーターを見た時とは、まったく異なる印象を受けてしまったのだ。

 何かを好きになってそれと共に生きる事と、何かと一体となってそこに浸ったまま生きていく事とはまったく意味が違う。自立のうまく出来ている人ならば「共存」しながら程よくやっていけるが、何かに「依存」しなければうまく生きていけない人は、物事を考える基準がすべてそこからとなってしまうため「恐い」と僕は言いたいのだ。

 まあ、しかし、相手がディズニーランドならば実に可愛いものであり、当の本人達から見れば大きなお世話以外の何物でもないに違いない。偉そうな事を言っても僕自信もある程度なんかに「依存」しながら生きてるような気もする。人間はやはり一人では弱いものだし、そういった意味では「宗教」も不可欠なのだろうとも思う。

 あの地下鉄の事件を機に「宗教」について様々に語られるようになり、否応なくその事を考えさせられずにはいられなくなった。そんな中で、誰が言ったのか、何かの雑誌に載っていたのかも憶えていないのだが、一つだけ自分の中に引っ掛かった言葉があった。それは「宗教のバイブルを信仰するのは良い、しかし、人を信仰してはいけない、なぜなら人は変化してしまうからだ」と、そんな様な事だった。

 まあ、相変わらず一体何の話だか分からなくなってしまったが(笑)、あの時東京駅で出会ったミッキーマウスと白雪姫の女の子達が、うまく社会と「共存」しながら日々を過ごして行ければいいけどなあと思わずにはいられない。

  昨今では、あまりにも病的な物に依存し、倒錯したその行動の末に、考えられないような事件となって報道されているような事が多々ある。まあ、結局のところは何をやろうが人に迷惑を掛けなければいいわけなのだが、そのためにはみんな自分自身にしっかり責任を持ちましょうよ、などとと言ってみたい今日この頃の僕なのである。

(02.08.31)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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