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K's Room Odds & Ends

京浜急行三崎口駅にて


 会社の同僚で、京浜急行を日々の通勤に利用している男がいる。彼の家が京急蒲田の駅の近くにあり、日本橋にある会社に通勤することから、都営線の日本橋駅に乗り入れるこの線を利用しているというわけだ。

 で、そんな彼はどちらかと言えば付き合いが良い方で、夜の席にもよく顔を出す。しかし、それに反して酒は極端に弱く、飲み始めるや否やあっという間に顔が紅潮し、まだろくにつまみも揃わない内からこっくりこっくりとやり出すような始末なのである。そんなわけだから、電車になど乗れば即座に眠り込んでしまい、車掌に起こされて気がつくとぜんぜん知らない駅だった、などという事が良くあるらしい。

 ここからはある一日の、正確には二日間にまたがる出来事を彼が僕に語ったものである。その時の彼との話のやり取りを本人の許可なく(笑)、一切の脚色を交えずに忠実に再現してみたい。

 「気がついたら三崎口駅だったんですよねえ」と彼は言った。

 “三崎口?”

 非常に聞きなれた駅名だったが、僕は一瞬それがどの辺りにある駅だったかすぐにはピンと来なかった。

 「知りません?京急の終点の駅」

  顎の辺りをさすって、昨日の夜の席の疲れを感じさせながら彼は言った。

 三崎口という駅は知っていたが、三浦半島の先端にあるその駅名と、彼の言うその駅とが、僕の中ではうまく結びつかなかった。だいたい三崎口と言えば、三浦海岸のまだ先である。それでも、夏の海水浴か何かで以前駅に降りた事があるのを思い出した。

 「ええっ?」僕はだいぶ遅れてリアクションを取ることとなった。

 「僕もびっくりしましたよお、電車の中で車掌に起こされて」

 「それって、昨日の夜のことでしょう?帰りの電車とかあったのお?」

 「ないっすよ」彼は相変わらず、表情も変えずに言い放った。「降りてくださーいとか言うんですよね、その車掌。しょうがないんでホームに降りて、ベンチに座って、さてどうしようかと思っていたら、ホームの電気がパパパパって消えていくんですよお、信じられないでしょう!もう、真っ暗ですよ。ははは」

 僕は彼が実際にそこまで行った事が信じられなかったが、確かにこの男なら有り得るなと思い直した。

 「で、どうしたの?」

 「しょうがないんで取り敢えず改札出ましたよお。知ってます?三崎口って。何にもないんですよ。サウナとか、ビジネスホテルとか泊まろうと思ったけど、駅前がもう、まっ暗」

 彼はこの“まっ”の部分を妙にためて言って、はははと笑った。どこまで行っても他人事のように話すのが僕にも妙におかしかった。

 「で、どうしたのよ」

  「駅前に交番があったんですよ。周りで家の明かりはそれだけなんですよ」

 僕もぼんやりと以前行った事のある駅前の記憶を辿ってみた。たしか駅前には数件の店のようなものが並んでいて、あとはやたらと広くどこまでも続く畑の風景ばかりだった気がする。

 「ああ、なんとなく分かるよ。でも、タクシーに乗って帰って来たんじゃ、とんでもないだろう?」

 「タクシーなんか乗れませんよお!ぜんぜん金も持ってなかったし。取り敢えずその交番で泊めてくれないかなと思って近づいて行ってみたんですよ。でも電気が点いてるのに鍵が掛かっていて誰もいないんですよね、本当に他は何の明かりもないし、しょうがないからその交番の前に座ってたら、寝ちゃったんですよ」

 六月の生暖かい日が続いていた頃だったので、そこでそのままこの男は寝たんだろうかと僕は思った。

 「それで、少ししたら突然、「お前は誰だ!」って言われたんですよ。びっくりしましたよお、お巡りさんが来たんですよ、ライトとか顔にピカッて当てられて、すっげー眩しいんですよ、見回りでも行ってたんでしょうねえ、きっと」

 彼は突然明かりが照らされた様子を、大袈裟な手振りで表現して見せた。

  「そりゃお巡りさんだってびっくりするだろう、交番の前に誰か寝てたんじゃあ」

 「そうですよねえ」彼は否定するでもなく何度か頷いた。

 「それでどうしたの?」

 僕は何だか“不思議の物語”をおばあさんから聞く子供のような気分でその先を待った。

 「それで、電車に乗り過ごしたって言ったら、身分証明を見せろって言うんですよ、そのお巡りさん。でも、何にも持ってなかったんで、名刺を見せたんですよね。そしたら、「しっかりした会社に勤めてるんだから、こんな事していちゃだめでしょう!」なんて言って、怒るんですよね」

 もうそんな事を彼が言ってる時点で、僕はおかしくて仕方がなかった。

 「どうしたらいいでしょうかって僕が言ったら、取り敢えず中に入れてくれて、ここに座って待ってなさいって言うんですよ。それで無線でなんか連絡してて・・。しばらくしたらパトカーが来たんです。で、その車に乗せられたんです。パトカーですよ、パトカー。乗った事あります?」

 「救急車ならあるけどねえ、パトカーはないよ」本当は乗った事があったが(笑)、話がややこしくなりそうだったので取り敢えず僕はそう答えた。

 「もう一人先に乗ってた人がいたんですよ、おじさんで。やっぱり電車を乗り過ごした人みたいで。僕が「ああ、どうも」とか言いながらパトカーに乗ったら、どこからですか?とか聞いてくるんですよ。そしたらその人は、千葉からだったんですよ、千葉ですよ、千葉、メチャ遠いですよねえ」

 「確かにねえ、今は電車も乗り入れが複雑になってるから、京急も成田辺りを平気で走ってるんだよなあ、君より更に上手がいたわけだ」

 「そうなんですよ、びっくりですよね。でも、そんなふうに話して盛り上がってたら、パトカーを運転してたお巡りさんに「静かにしろ!」とか言って怒られましたよ、ははは」

 僕も一緒になってこれには笑った。

 「いったいこれからどこに行くんでしょうね?なんて、そのおじさん小さい声で言うんですよ、なんか楽しそうなんですよねえ。それで、結構車で走って。どこかの大きな警察署に連れていかれましたよ」

 「警察署?」

 「何か、衣笠とか、何とか」

 「ああっ、あるね、衣笠って場所、横横道路の下り口のあるところだよ」

 「ああ、そうなんですか・・。それで一階のホールに入れられて、ベンチがいっぱい並んでたんで、免許所を作る場所ですよ、あそこは。毛布を一枚渡されて、ここで寝なさいって言われたんですよねえ。」

 「で、そこで寝たわけ?」

 「寝ましたよ。でも良く寝れなかったっすよお」

 「そりゃそうだろう」

 「もう一人のおじさんがすんごい鼾なんですよ、ブタの鳴き声みたいで、ブオーブオーとかいっちゃって、もううるさくて」そう言いながら彼は豪快に笑った。

 眠れなかった理由が、環境ではなく鼾だったのか思い、この男の屈託のない笑顔に僕も一緒に笑ってしまった。

 「それって、昨日の夜の事だよねえ」

 「そうですよ、今朝なんか6時頃起こされましたよ、婦警さんに。「もうみんな出勤してきますから帰って下さい」って、叩くんですよ。警察って早いんですよね、もういっぱい警官が集まっていて、みんな顔が恐いんですよ、やくざみたいな顔しててジロとか睨まれちゃって、でも一緒に寝てたおじさんも凄いですよ、歯ブラシありませんかとか聞いてましたよ、ははは」

 「なんか冗談みたいな話だよね。で、帰りも送ってもらえたの、パトカーに」

 そういう僕に彼は思いっきり頭を振ると、「帰りは勝手に帰りなさいってな、感じですわ。しょうがないんで、取り敢えず外に出てみたんですけど、右も左も分からないんですよ。通りすがりの人に聞いてみると、一番近い駅まで、バスで30分は掛かるよって言われて、なんか不思議そうに教えてくれましたよ。で、そのバスなんですけど、運賃が、乗った分だけどんどん増えていくんですよね。運賃表を見ながら、いったい幾らまで上がるんだろうと思ってドキドキでしたよ」

 都会生まれの彼は、そんなバスのシステムに驚いた様子だった。そして、最後に「でも、まさか警察に泊まれるとは思ってもみませんでした。」と、言ったのである。

 飄々と悪びれずにそう言ってのける同僚に、「俺も、まさか仲間に、警察に泊まる奴がいるとは、思いもしなかったよ」と言ってみた。彼は、いったいこの人は何を言ってるんだろうと言うように、しばらく僕の顔を見つめて考えていたようだが、僕のニヤニヤとした顔に、はははと豪快に笑い出したのだった。

 彼はこの後も実に様々な出来事を僕に披露し続けてくれている。千葉の八千代台でのビジネスホテルでの出来事や、羽田空港での職員とのトラブルなど、終電にまつわるエピソードが一向に後を絶たないのだ。そして、そのどれもこれもが豪快で、笑える話で、いずれまたそんな話の数々をこの場所に紹介してみたいと思う今日この頃なのである。

(03.02.14)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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