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K's Room Odds & Ends

マネー お金ばかり追求しているとカネゴンになりますよ。



 だいぶ前に、某公社が民営化する際、「絶対安全」、「最優良」という評判で、鳴り物入りで市場に上場された「株」があった。

 しかし、何のきっかけだったのか、その株が大暴落を起こし、当然ながらその株を購入していた人達が、多額の損失を被ったという出来事があった。

 当時のテレビニュースで、その株に退職金の全てを注ぎ込んだという人や、預貯金を全て切り崩して購入したというような人達がインタビューを受けていて、たいへんな剣幕で怒っているシーンを見た事がある。

 その人達の言い分は「絶対に安全と言われた」とか、「これからの生活をどうしてくれるんだ」とか、「だまされた」とか言った事のようだったと思う。

 最近の新聞紙面で、これと同じような内容の記事を読んだ。

 預貯金の利率に期待できず、株では先行きが見込めないという近年では、「社債」というのがその代役として取り沙汰されているらしい。僕は経済の事を語るなどと言うより、ぜんぜん知識がないのだが、「社債」とは会社が自社の信用を元に、一般から借金をするためにばらまく紙面を指すようである(違ってたらごめんなさい)。一体誰が決めるのか、そこには判断の基準とされる格付けなるものがあり、企業が「優良」であればAAA、やや「良」であればBBBなどと、それ相応の評価も付くらしい。

 そんな中で、つい先日、その社債を発行し、その評価が「良」よりも「優良」に近いとされていたはずの某大手スーパー「M」が、突如として倒産した。当然、「借金」であった社債は全て踏み倒され、購入者の手元には一銭の元金も返済されないという出来事が起きたようだ。

 その出来事を取り上げた新聞紙面の中に、あの株の暴落の時と同じように、「絶対に安全と言われた」とか、「これからの生活をどうしてくれるんだ」とか、「だまされた」という人達が再び現われていたのである。

 確かに、無け無しの退職金をはたき呆然とする人や、年金暮らしの人が預貯金を全て失ったなどと聞けば、その身上には心から同情する。人間の欲望というのは実に薄い皮に覆われているものでしかないと僕は思うので、魔が差すとか、目が眩むといった事は当然誰にでも起こりうる。

 しかし、ちょっと待てよと、言いたい。

 そんな事を差し引いても、僕はどうもこの人達の言う言葉には、なんとも釈然としないのを感じるのである。

 僕自身は前にも言ったとおり、経済の世界などにはとんと疎く、利回りがどうの、運用がどうのといわれても何の事やら計算してみるのも面倒くさい。所詮生活費以外の余分な金も持っていないし、ただの貧乏人でしかないのだから(爆笑)、財テクや、投資等とは全く無縁である。しかし、それは、「金は増えないもの」と、はなっから考えているからでもあるのだ。

 偉そうな事は言っているが、もちろん金はないよりあったほうが良いに決まってる。ただ、「どんなシステムの投資であれ、元金が保証されていないものは、ギャンブルでしかない」と、僕は硬く心に信じている。ギャンブルである以上、注ぎ込んだだけ全てを水に流す事だって、当然あると思うのである。

 大金を失って、落胆しているそんな人達には申し訳ないとは思うのだが、少々きつい事を言わせてもらえれば、どう取り繕おうと、だまされたと声を上げるのはお門違いであり、八つ当たりしているとしか僕には聞こえないのである。

 お金を増やす事に心血を注いでいる人達を見ると、貧乏人の僕はどうにも嫌悪感を感じてしまう。金銭でその欲望や、幸福感を満たそうとすれば、当然はっきりとした数字や、形でその価値観を図る事になるわけだから、すべてが他人との比較になり、その欲求はどこまで行って終わりのないスパイラルとなってしまう筈である。

 そんなものを人生の生き甲斐にするのは何とも淋しいと思うのである。

 

 仏教の教えを紹介した、「ひろさちや」さんの著書の中にこんな一説があった。

 何を突然仏教だと言われそうだが、結構面白いお話なので、しばしお付き合いを頂きたい(・・・)。

 ある農民がお釈迦様に言ったという。

 「家が狭くてたまりません、もっと広い家をいただけないでしょう」

 すると釈迦は、「それならば、部屋の中へ牛を1頭入れなさい」と、言う。

 農民は言われたとおり、自分の部屋に牛を1頭入れる。

 翌日も1頭、次の日もまた1頭牛を部屋に入れ続ける。

 当然更に部屋が狭くなった農民はお釈迦様に、「更に部屋が狭くなりました。もう寝る場所ありません」と嘆く。するとお釈迦様は、「それならば、部屋の中の牛をすべて外に出しなさい」と、言う。

 言われたとおり牛をすべて外に出した農民は、「お釈迦様、ありがとうございました、部屋が大変広くなりました」と言ったというのである。

 

 牛を部屋に入れる奴はいないし、ましてや、寝床がなくなるまで入れ続ける人もいないだろう。しかし、この話は、人間の価値観が、いかに煩悩によって左右され、何ともその基準が曖昧な物であるのかを表わすには、実に分かり易い話だと思うのである。

 どんなに沢山のお金を手にしてみても、あの世までそれを持っていく事など出来ない。三途の川を渡る時には、着ている物まで全てを脱ぎ捨てなければならないらしい。そうであるなら、経済社会に盛んに貢献するよりは、お金とは程々に付き合うにとどまり、短い人生を何にも囚われこるとなく、「幸せ」に生きていきたいものだと思うのである(うう、今回は何か変だ!)。

 何だか、いままでのお茶らけムードから一転、ずいぶんとまじめ腐った事を語ってしまったが(・・・)、要は、そんなこんなで、我が家の家計には日々の生計をしのぐ銀行の預貯金と、ブタさんの貯金箱でも間に合うくらいの積立預金しかない(笑)。

 僕は、ギャンブルもやらないし、宝くじさえ買わない。最近やってみたtotoも、サッカー自体がつまらなくなってしまうため辞めてしまった。

 こうなると、全くもってお金が増えるような見込もない。おまけに、これ以上の出世も望めないし、世は不景気だし、会社も危ないし、何より、自分は仕事をやる気もないのだから(笑)、先行き我が家の経済が明るくなる見込はまったくもってない(爆笑)。

 ただ、取り敢えず今の所は仕事があり、給料も入ってきて、これといって大きな買い物をしたい訳でもないので、需要と、供給のバランスは何とか保ち、生活には困らずにやっていけている。

 こんな現状に十分に満足しているのだから、財テクも、運用も当面興味の対象とはなりそうもなく、興味がないのだから黙っていれば良いのだけれど、またしてもあれやこれやと頑固一徹に叫びまくっている、今日この頃の僕なのである。

(01.10.13)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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