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K's Room Odds & Ends

ダブルエスプレッソ3


 カラスが大嫌いである。嫌いなどと生易しいものではなく、正直もう死ぬほど気に入らない。

 人が気持ち良く眠っている早朝に、屋根の上でだみ声を撒き散らすカラス。塀の上に止り、人が通っても見下すようにびくりともしないカラス。ゴミを漁りそこら中に残飯を撒き散らすカラス。時には人を襲ったりするというのだから言語道断であり、もうとにかくその一挙手一投足に、僕は我慢がならない。

 何をそんなに力んでるんだと笑われそうだが、一度忌み嫌い出したら最後、四六時中頭からその事が離れられない、我ながらなんとも執着的な性格なのだ(笑)。

 ここ近年で、東京都内のカラスの個体数が急激に増加したという。原因は人間がむやみに撒き散らすゴミのようで、結局の所自分もその原因の一端を担ってしまったようである。カラスは元々は山で生活する類の生き物であるらしい。その棲家である山を切り開き、街中に餌をばら撒き、新しい住環境の提案をしてしまったのは、紛れもなく人間だといえるのだろう。

 まあ、しかし、発端はどうあれ、僕はあのカラスの存在自体なんとも我慢できないのだ。

 東京都の石原都知事は、就任してからそのカラス対策に本格的に乗り出している。もちろん多大な都民からの苦情に基づくものであり、巣の撤去や、ゴミの夜間回収など、具体的な作戦で、その成果を見出そうとしている。しかし、何の世界でもやはりそうかと唸らずにはいられないのだが、このカラスに対しての「穏健派」というのが存在するらしい。いわゆるカラスいじめは可哀相とか、生き物の命をなんだと思ってるんだなどと言う連中である。信じられない事なのだが、カラスを「飼っている」とか、「毎朝餌をあげている」などという人達すらいるという。

 僕などは頑としてこのカラス騒動に関しては都知事支援派なのだが、好き勝手叫んでいれば良い僕とは違い、知事にしてみれば、こんなにも相反する意見を取りまとめていかなければならないのだから、なんとも気の毒な限りである。

 そんなこんなではあるが、先日中野の辺りを走っていた中央線の車窓から、驚くような光景を目撃した。カラスがビルの屋上でネズミを捕らえる瞬間を偶然目にしたのである。そのダイナミックなシーンに驚くとともに、「なあんだ、カラスも少しは役に立つじゃん」「そうか、元々はこんな食物連鎖の中に生きているんだよなあ」などと、少しだけ見直した僕なのである。

 しかし、何がどうあっても、カラスは大嫌いである。

 

 浜田麻里という歌手がいる。

 アシタマ!と、小気味の良い声で叫んでいるモダンチョキチョキズのボーカルの「濱田マリ」の事ではない。

 一昔前、「ハマダマリ」と言えば、「ヘビメタの女王」なる、今となってはダササこの上ないキャッチフレーズで一世を風靡した、女性ボーカリストのことであったのだ。1980年頃の話である。

 ヘビーメタルなる言葉がまだ目新しく、ましてや女性シンガーなどとなると、メジャーと呼べるようなシンガーがほとんど見当たらなかった時代、唯一あらゆる意味で合格点の実力歌手として彼女は登場した。音楽の特異なジャンルの中としては充分に見栄えのするルックス、その独自なメーク、衣装、そして、ハイトーンを駆使した歌唱力、総合的に見ても彼女はそのコンセプト的に充分だったと思う(現在の彼女は、ほとんど活動らしい活動をせず、海外に住んでいるらしい)。

 突然彼女を取り上げておきながら何なのだが、僕はこの当時の彼女の曲をまったくといっていい程知らない。CMのバックに流れていたり、歌番組で歌っていたりしたのを小耳に挟んだ程度だったので、正確には全然その記憶がないのだ。そもそもは、ヘビーメタルなどの分野にはまるで興味がなかった。あんなださいコスチュームで、ハイトーンばかりを強調した暴力的な曲のどこが良いんだと思っていた口だったのである。

 それから十年余りが経ち(ううう・・)、ふとある時に彼女の曲を耳にした。

 それが何の歌だったかも覚えてはいないが、その時歌っていた彼女の歌声にはもはや「ヘビメタの女王」なるコンセプトはどこにもなく、激しいバッキングの中で穏やかに流れる歌声は、まさに僕の好きな音楽のツボに突如としてすっぽりと収まってしまったのだった。確実にメロディーを刻むゆとりのある歌唱力。作詞、作曲までも自身で手掛けるその実力。そして、何よりもクリアーで「デジタル」な声質。

 僕は極めて個人的に「デジタル」な声を持つシンガーと提議している歌手が三人ほどいる。一人がこの浜田麻里、そして、もう一人がカーペンターズの故カレン・カーペンターそして、最後の一人が、ブラックビスケッツの(・・・)ビビアンである。

 「おいおい」と言われるのが目に見えていそうだが、何がなんでもこの三人は、僕の中で「デジタル」の声を持つシンガーなのである。

 この誇大妄想的な「デジタル」なる言葉の裏付けは何なんだという事はひとまず置いといて(・・・)、この浜田麻里の中であらゆる意味で最高の出来のアルバムとして「Anti Heroin」を皆さんにご紹介したい。もし機会があれば冷やかしにでもお聞きいただきた、少しでも僕の言ってる事を分かっていただければと願うのである。

 

 三十を半ばも越えた今、何かにつけ「死」を考えるようになった。

 またしても、「げげっ、何言ってるんだよ!」と、言われてしまいそうだが(笑)、日々悩み苦しみ、もう生きているのも嫌だから、自分からこの道を閉ざそうかという話ではない。ある日、四十歳目前という自分自身に気付き、「あらら、なんか結構歳食ってきたなあ」と思い当たって考えたのである。自分の人生を仮に八十年と仮定した時に、あと生きていられても四、五十年、あまり暗い話になってしまうのも嫌だけど、百年後には、紛れもなく、もはや自分はこの世の中に存在していないではないか。この現実を改めてまじまじと自覚したという事なのである。

 良くてもあと四、五十年である。たったの四、五十年である。まじっすか!!と叫びたい。もちろん多少は長く生きるかもしれないが、よくよく考えてみれば、この瞬間に消え去ってしまう可能性すらあるのである。まともにバドミントンが出来る時間などあと二十年あるかないか・・・。何と生きているという事は儚く、悦ばしく、そして、もったいない事なのだろうか(・・・)。

 星は生まれてから、100億年の寿命だという、ハーレー彗星も76年に一度しか巡ってこないらしい、そんな事を考えた時、人の一生など、長い年表の中の塵にもならない。この世の中すら、まともにカウントされ出してから、2002年しか経っていない、更にその中で自分の生きていた時間の占める何十年の割合とは・・・。

 まあ、人生が何たるかなどということは、どこかの哲学者にでも任せておけば良いのだが、こうなったら限られた時間をどれほど有意義に生きられるかと考えなければ損だと思いだしたのである。元々その辺りは楽観的ではあるのだが、どんな出来事でも、ほんの一瞬の瞬きでしかないと思い始めた時、もう些細なトラブルなどには構ってる暇はないと考えるようなになった。悩みや苦しみも、怒りや喜びも、途方もない宇宙の流れから見たら(・・・)、カウントすら出来ない誤差程度のものでしかないのである。

 何だかまた一人で力んでしまっているが(笑)、前にも書いたけれど、ルーマニアのマラソン選手リディア・シモンが言っていた、「死ぬ以外に苦しい事などない」。極論ではあるが、「死ぬ事を考えれば出来ない事はない」という考え方は、実に同感であり励まされる。自覚の仕方こそどうあれ、死があるからこそ、人間は懸命に生きようとする。

 昨今、幼きして自ら命を絶つような事件をよく新聞の片隅などで見かける。そんな時に、僕は良くこの言葉を思い出している。悩み、苦しむ事を永遠と感じるのか、一瞬と感じるのか、どんな苦しみであれ、そんなもの全て投げ捨てる事だって出来るのに!そんなふうに、叫んでしまう僕なのである(ううっ、熱血モードで終わってしまったあ!!)。

(01.12.22)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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