仕事柄よく公衆トイレを利用する。
仕事柄というのは、よく昼間公園で寝ているからとかいう事ではなく、外をほっつき歩く事の多い仕事だからという意味である。何だかあまりクリーンな話題でなく申し訳ないのだが、どうしても公衆トイレについて気にかかっている事があるのだ(う〜ん)。
公園のトイレや、駅のトイレなど、公衆のトイレといっても様々な物があるが、そんなものをすべてひっくるめて皆一様に思う事は、あまりにも「ガードが甘い」という事である。
何の話かといえば、早い話が「外から丸見えだよ!」と、僕は言いたいのである。
女子トイレには体験上入った事がないので言及は控えるが、男子トイレの丸見え度といったら、「嘘だろう!」と、叫びたくなるようなものがある。小便器に向けて構えた男の後ろ姿には、人権はないのかと思わずにいられないようなトイレに度々遭遇するのだ。
京浜東北線南浦和駅のホームにトイレがある。
上りのプラットフォ−ムの最先端の階段を降り、低くなった場所にそのトイレは設置されている。このトイレも、外部とは驚くほどフリーで、女子トイレは男子トイレの先にあるため、通行する女性がちらっと一瞥するだけで、男性の全容が人目で見て取れる。そして、驚くべき事には、ホームへ入線してくる下り列車からも丸見えで、窓の外を眺めている列車の乗客は、停車しようと徐行運転に入った車内から、トイレの中の様子をまんべんなく眺める事となるのである。
防犯的な意味合いもあろうとは思うのだが、やはり公衆トイレの目隠しにはもう少し気を遣っていただきたいと思う、今日この頃なのである。
“あけおめ”という言葉を、正月になると耳にするようになった。
「あけまして、おめでとう」の略のようで、どちらかというと、十代の女性がよく使う事が多い言葉らしい(おじさんには、良く分かりません!)。
僕は文部省のお偉い方でも、日本の口語研究家でもないけど、この言葉を聞くと、いても立ってもいられなくなり、もう喉元を掻きむしりたいくらいの嫌悪感を感じて身悶えしてしまう程なのである。
「せめて、どこかを逆さにでもしろよ」と言いたくなるほどの、ただ単に言葉を短くしただけという創造力のなさ。
旧ぜんとした慣習的な言葉に反抗する意味や、自分達の時代を主張するがための「崩し」であるはずの若者言葉であるならば、古臭いその言葉をそのまま使うしかないボキャブラリーのなさ。
そして、何よりも僕が気に入らないのは、その言葉の持つ「音」の響きなのである。
「あけおめ、あけおめ」と、何回か言ってみていただきたい。僕は、これならば、爪で黒板を掻きむしられた音の方が、余程マシだとさえ思えてしまうのである。
みなさんは単順に、気持ち悪くならないでしょうか? それとも、所詮はただの「おじさん」の、愚痴なのかなあ…とほほ。
ある日、仕事の帰りに、宇都宮から東京へ向う新幹線に乗った。
宇都宮駅のホームで新幹線を待っていると、制服を着た警官や、あきらかに私服と分かるそれらの人達が、あたりをウロウロしていて、駅長や、それに付随するらしい地位の人達が、白い詰襟の制服を着こみ、入線して来る列車を直立不動で待ち構えていた。
あたりの物々しい気配に、「これは誰か、お偉いさんが乗ってるんだな」と、僕は見当をつけた。
走り出した車内は鮨詰め満員だった。指定席がこんな状態はおかしいと思い、検札に回ってきた車掌に、なぜこんなに混んでいるのか、理由を尋ねてみた。すると、グリーン車が三両貸切になっているとの答えが帰ってきた。
グリーン車三両が貸切!これは、いよいよ凄いお偉いさんが乗っているに違いない。「いったい誰が、乗ってるんですか?」と、僕はさらに聞いてみた。
車掌さんは何故かにやりと笑うと、「それは、教えられないんですよ」と、言った。
教えてもらえないとなると、ますます知りたくなるのが人の常。買い込んだ夕刊紙に隅から隅まで目を通し、要人の訪日を探してもみたが、それらしい記事はどこにも見当たらなかった。
小山、大宮と、通過する駅のホームには、宇都宮駅と同様、駅長以下白の詰襟を着こんだ面々が、最敬礼で列車を出迎えている。走っている列車の窓から空へ目を移してみれば、ヘリコプターが二機、新幹線に併走して飛んでいた。
いったい、なんなんだ?!僕が悶々とする気分のまま、やがて列車は終点の東京駅へ到着した。
こうなったら何が何でもそのお偉いさんを見てやろうと硬く心に決めた僕は、まだ走行中の車内を乗車口まで急ぎ、まだ開く前の扉の前にどっかりと陣取った。
列車が停車し、扉が開く、すると何故かそこにはJRの職員が構えていて、降りるのを、少々お待ち下さいと両手を拡げて僕の行く手を阻んだ。
いったい何を待たなきゃいけないのだと、僕は憤慨し、どう文句を言おうかと考えていた時、目の前のホームで歓声が上がるのが聞こえた。
そして、その直ぐ目の前を、天皇陛下と、美智子様が物々しいお付きの人に囲まれながら歩いていた。それは、まるで、披露宴での新郎新婦の入場のように、信じられないほどゆっくりとした足取りだった。
ポカンと口を空け、呆気に取られ立ち尽くした僕は、この時生まれて始めて、神々しいという言葉の意味と、オーラとは何なのかということを、身をもって知ることとなったのであった。
にっこりと微笑みながら、手を振る美智子様と目が合った時、僕は情けない顔のままで自然と手を降り返していたのだった。
昨年行われたシドニーオリンピックの女子マラソン、高橋尚子がゴールテープを切るシーンをテレビが映し出す度に思う事がある(もう昨年の話なのだ・・・)。
僕は以前、女子マラソン大予想として、一位にルーマニアのリディア・シモン、そして、二位を高橋尚子、三位が市橋有里というような事を書いた。実際のレース中、先頭集団から高橋が飛び出し、その後に、シモンと、市橋が追う形になった時には、こりゃすごい事になったと興奮したものだった。
まあ、僕の予想などはどうでもいいのだが、途中先頭争いから市橋が脱落、最後にシモンと、高橋の一騎打ちとなり、高橋がシモンを振り切ってゴールテープを切った。途中、サングラスを投げ捨ててスパートした高橋の後を、シモンは一向にペースが上がる事なく見送った。その距離は瞬く間に広がり、誰もがシモンには余力がなく、競技場に飛び込んできた高橋の圧勝と見たはずだ。
そして、高橋が両手を上げてゴールする皆さんもご承知のこのシーン。しかし、この時の二位に入ってきたシモンと、高橋の距離に注目していただきたいのである。
その時の差わずか8秒、距離にして50メートル程度でしかなかったのである。
もちろん勝負である以上、結果がすべて、例えどんな展開であろうが、最終的に誰よりも早くテープを切った高橋の勝ちである事は揺るぎない。しかし、もしも、あとトラックが一周多く残っていたら、果たして高橋は逃げ切る事が出来たであろうかと、僕は意地悪な事を考えずにいられない。
あの時、シモンのストライドの力強さ、ピッチの速さは、バテバテでゴールテープを切った高橋を確実に圧倒していた。後にシモンは、言い訳はしたくないと前置きした上で、高橋を低く評価しすぎていたと、あのスパートの時、必ず落ちてくると読んでいたと語っている。
「どんなに苦しくても、死ぬ事意外に恐い事などない」ぞっとするような事を語っていたレース前の彼女を思い出す。そして、高橋が歓喜のテープを切る瞬間のあの映像を見る度に、まるでターミネーターのように高橋のすぐ背後に追走していたシモンの姿に僕は目は奪われ、金メダルを取り損ねたその「強さ」には、ただただ驚愕させられるのである。
(01.02.10)