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K's Room Odds & Ends

1991年のアメリカがらくた旅行記



 24、5才の頃に、友人と二人でアメリカに旅行に出掛けた事がある。

 アメリカ旅行などとはいっても、四泊六日のケチな観光旅行で、お決まりのロサンジェルス、ラスベガスといった大きな都市を回って来ただけの事だった。

 しかし、そんなわずかな期間の滞在でも、やはり外国の生活に触れてみれば、様々な慣習の違いに気づき、その違いに驚かされることがしばしばであった。

 ロサンジェルスの空港に到着して、タクシーに乗ろうと歩道でキョロキョロしていた。

 少し離れた場所にタクシー乗り場があり、こちらに頭を向けて何台かの車が客待ちをしていたので、僕はここまで来てくれるだろうと勝手に思い、先頭の車に向かって手を上げてみた。

 すると運転席のサングラスを掛けた若い運ちゃんは、窓から左手を空に向けて突き出し、何やら奇妙な動作を繰り返した。

 日本で相手を自分の方に呼ぶときには、招き猫のようなポーズで“おいで、おいで”と、手のひらをくねらせる。ところが、アメリカ式となると、車の“オーライ、オーライ”のポーズで、まるで物を自分の頭の後ろにでも放り投げるような仕種をするのである。

 「そんなの、あたり前だよ」と、皆さんは思われるかもしれない。しかし、実際に自分がそんな呼ばれ方をしてみると、「あいつは、いったい何をやってるんだ」と、そんな事をしている相手を訝る事は必至である。

 ちなみに、そのタクシーの運ちゃんは、すっかり日本人観光客にも慣れているらしく、僕らが躊躇している様子を見て取ると、“日本式の”おいで、おいでに、すばやく切り替えたのであった。そして、少し照れの入ったそのぎこちない仕種が妙に面白かった。

 

 ロサンジェルスについて最初の夜、真夜中にホテルのベッドで目を覚ました。

 飲みすぎたビールの影響で、強烈に喉が乾き、目が覚めてしまったのだ。

 最近では、日本の都心などでも水道水の水質が懸念されてきているが、海外で水道水をそのまま飲むなど言語道断、当たり前すぎてガイドブックにも記載されていないくらいである。

 しかし、その時、手元には何一つ飲料水がなく、ホテルの売店は閉まっていたし、かといって、真夜中にロサンジェルスの屋外へ出て、飲み物を探そうなどという気にはまさかなれない。

 朝まで我慢するしかないかと思うのだが、空腹はまだしも、喉が渇いたとき、人間はこれほど我慢出来ないものかとつくづく思い知らされた。のたうち苦しんだ挙げ句、減量中のボクサーのように、“一口だけなら、大丈夫だろう”と、甘い誘惑に駆られ、ホテルの洗面所の蛇口から出た、白濁した人生至上最高にまずい水を、コップに半分“えい、やー”と飲み干した。

 味はともかく、とりあえず目先の渇きはいえ、再びベッドに潜り込んだ。しかし、わずか数十分後、強烈な腹痛で目が覚めた。

 定石通り、水があたったのである。

 そして、海外旅行最初の夜は、ほとんどをバスルームで過ごす、散々な夜となってしまったのであった。昼間街で見掛ける“JORDAN”のTシャツに短パンと、皆一様に同じ格好をしたアメリカ人達が、なぜ、あれほど後生大事にペットボトルを抱えて歩いているのかを、痛いほど理解した瞬間でもあった。自動販売機もなく、水道水も飲めない場所では、飲み水の調達という事が、何を置いても最優先されるというわけである。

 

 ラスベガスの大通りを歩いていたとき、暴走族までは行かないのだろうが、大迫力のハーレーの軍団に出会った。

 ヘルメットも被らず、革のパンツで覆った長い足を突っ張って“ハーレー”を運転する彼らの姿は、まるでスクリーンの中そのままに、なんともアメリカらしくて格好良かった。

 僕は、日本にいるときに、400ccのバイクに乗っていた事があった。アメリカンタイプのバイクを購入し、皮ジャンに、ブーツできめて、アメリカかぶれそのままに颯爽と乗り回そうと思い描いていたのだ。しかし、実際にバイクで行動してみると、あまりにもイメージと違う日本でのバイクの不自由さに辟易して、結局のところは手放してしまったのだった。

 日本の都心では、当然カリフォルニアのようにたっぷりと車幅があるというわけにいかず、絶えず車に邪魔されながらくねくねと車体を揺らせて公道を走らなければならない。信号が多く、絶え間なく止まる事を余儀なくされる状態では、自力で立つ事の出来ないバイクはこの上なく運転に神経を使う。車からの排ガスをもろに受け、公害との戦いもある。ほとんど雨の降らないカリフォルニアに、やたら雨の多い日本、一年中温暖な地域と、冬がやたらと長い国など、オートバイという乗り物が生きていくためには、環境に決定的な隔たりがあり、やはりその地域地域に適した乗り物が存在するものだと改めて気が付いたわけである。

 そして、日本では、地下鉄が一番便利な乗り物なんだなあとつくづく思った次第であった。

 

 添乗員などいず、往復のチケットと、ホテルの予約をしただけの旅行では、食事をするにも、買い物をするにも、当然最低線の英会話力は必要となる。

 カリフォルニアでも観光地ならばともかく、町中の生活圏となると、英語が使えないアジア人というだけで、売店のおばちゃんなどにさえも相当蔑まれた目で見られてしまう。悪い言葉だが、どうやら、まともな教育も受けていない人種、くらいに思われてしまうようだ。

 日本国内で困っている観光者らしい外人を見たとき、大抵の日本人ならば、一生懸命に不器用な英語を使ってでも、何とかしてあげようなどと思うと思う。しかし、人種の混沌としたアメリカあたりでは、そんな輩はまずいないくらいに考えていた方が良いようだ。

 僕にしても、同行した友人にしても、英会話などとなると、中学校一年生の域を脱していない(そんな奴等が、どうしてプランも立てずに、海外など行ったんだと言われそうだが、何せこれ以上安いツアーはなかったのです)。

 相手から何か一方的に英語で捲くし立てられたりした時に、何を言われているのか分からずにオタオタしていると、相手はコリャ駄目だとばかりに、両手のひらを宙に掲げ、あきらめたように首を左右に振る。

 そんなシーンに出くわすたびに、“もっと簡単な言葉で言ってくれよお”と、怒りつつも、自分の語学力の無さを痛感させられ、がっくりと肩を落とす。日本人は10年以上も学校で勉強するのに、英語が喋れない。英語が使えない国は、先進国の中でも日本だけだ、などという言葉に本当に情けなさを感じる。

 そして、そんなふうに、現地で実際の英会話に苦しむ中、僕は日本人を英語が苦手な人種に育ててあげているある一つの元凶を発見した。

 それは、和製英語の存在である。

 ヒアリングの時、英会話レベルの低い僕は、相手の言っている言葉をまず日本語の単語に置き換えてから考える。その作業の際に、この和製英語がまったくもって邪魔をするのだ。

 あまりにも有名な例ではあるが、たとえば“White Shirts”と語り掛けられたとき、日本製英語の“ワイシャツ”に置き換える事は、実際問題至難の業である(もちろん、自分のレベルでの、話です)。

 レストランで水がほしいときに、“ウォーター”などと発音しても、まず伝わらない。そういう時は、“藁(ワラ)”と言え、などと誰かが言っていたが、まさに“ウォーター”よりは、“ワラ”の方が、“Water”には近いようだ。

 ハリウッドの目抜き通りのカフェで、ハンバーグを頼んだとき、テーブルに料理の皿を置いたウエイターが、いきなり“キャッチ・アップ”と、僕に向かって言った。

 “Catch Up?”そう聞き取った僕は、いったい何を“持ち上げろ”と、この人は言っているのだろうかと思い唖然とした。

“Pardon me ?”と、“Slowly please”と、散々使い込んだ言葉を連発して聞き取ると、何てことはない、付け合わせのポテトに、“ケチャップ”はいるのかと聞いていただけの事だった。

 トマトで作ったあの赤い液体は、それまで日本で、“ケチャップ”という呼び名だと思っていたのに、“キャッチャッパ”という、まったく違った名前の代物だと知って驚いたわけである。

 それでも、こんな風に同じ意味を持っている言葉ならば、まだ良いのだが、どこでどう違ったのか、言葉の意味自体が違ってしまっている和製英語も存在していたりする。そんな言葉に運悪く当たってしまった時などは、もう目も当てられない始末だった。

 “やはりこれからは英語が喋れなければ”“日本に帰ってから勉強するぞ!”と、その時は硬く心に記したりするのだが、時が経てばそんな思いもどこへやら、いつしか“日本人は、日本語だ”などと開き直って毎日を過ごし、これではいつまで経っても英語力の向上など望めない僕なのである。

 

 レンタカーを借りて、カリフォルニア中を走り回ってやろうと考えていた。しかし、地図での距離感を大幅に勘違いしていて、当然実質四日くらいの日取りでは、とてもそんな事が出来るわけはなかった。

 後から知った事だが、カリフォルニア州の大きさは、日本をその中に含んで手で振ると、カタカタと音のするくらいの大きさらしい。

 それでも帰国する日になってみれば、車に元々入っていたガソリンは十分に使いきり、返却するにあたっては、満タンに給油して返す必要があった。

 街道を走っていると、無人のガソリンスタンドがあり、セルフサービス式ならばガソリンが安いとガイドブックに書いてあったので、そこでガソリンを入れることにした。

 やけに広い敷地のガソリンスタンドに車を入れ、墓石のように並んでいる給油スタンドの中の一つに車を付けた。車を降り、給油用のノズルを掴んでみる。こんな事はやったことなかったが、特に難しい事もないだろうと高を括り、車の給油口の蓋を外し、ノズルを突っ込み、取り敢えずレバーを握ってみた。しかし、そううまくガソリンは出てこなかった。

 どこかにコインを入れる場所でもあるのかと思い、あれこれと辺りを探してみたが、どこにもそんな穴は見つからない。ガイドブックにも、ガソリンの入れ方までは書いてなかった。

 残念な事に、友人も僕もガソリンスタンドのバイトの経験などもなく、こうなるとまったくお手上げ状態で、こうなったら隣のブースに誰かがやってくるのを待って、そのやり方を真似しようと思い立った。

 

 ほどなく、やけに汚い日産のピックアップトラックが、勢いよく一つ向こうのブースに入ってきた。運転席からは、中年の黒人の男が威勢よく飛び降り、そして、ガソリンを入れるかと思いきや、すたこらと一目散に、少し遠いところの売店目指して歩き出してしまった。どうやら、コーヒーでも飲みに行くらしい。

 “なんだよ〜”とがっかりしながらも、何とか自力で給油する事もあきらめず、ノズルを手にあれこれと操りつづけた。

 その時だった。

 さっきの黒人の男が向かって行った売店で、何やら声が聞こえた。その声に振り向いてみると、売店の窓から店員の女性が、盛んに手のひらを“しゃくり上げて”、僕らに向かってこっちへ来いと繰り返している。

 何事だろう、何か不審者か、泥棒か何かと思われてしまったのだろうか?

 僕はとりあえず身の潔白を証明すべく、その売店へと向かって行った。

 売店の中は、日本間でいう六畳程の広さで、レジを囲んで置いてある品物の様子が、丁度日本のキオスクみたいだった。店の片隅に無造作にならべられた椅子では、さっきの黒人の男が何やらカップの飲み物を啜っていた。レジの向こうでは、僕らを呼んでいた女性が腰に手を当て、クチャクチャとガムを噛みながら、何やら語り掛けてきた。

 赤毛をアフロヘアに盛り上げ、でっぷりと太った女性は、おかしくなるほどのオーバーアクションで、僕に向かって盛んに何かを訴えたが、結局のところいったい何を言っているのか、僕にはさっぱり理解できなかった。

 やがて、何も反応のない僕の様子をおかしいと思ったのか、その女性はいったん言葉を切ると、「おまえは、英語が喋れるのか?」と、聞いてきた。

「少ししか分からない」そう答える僕に、彼女は両手の平を天に向け、この世の終わりのように首を振った。

 デブっちょの赤毛の女性は、それでも気を取り直したらしく、「オーケー」と自分を納得させるように一度言うと、細切れの英会話を、僕に向かって投げ掛け始めた。

 「お前は、ガソリンがほしいのか?」と彼女の問い。ちなみにこの“ガソリン”は、ガ・ソ・リ・ンではなく、“ギャッサウリン”である。

「イエス」と、僕は答える。

 それから彼女は、どのくらい必要なのかという事を僕に聞き、おおよその量を僕が言うと、それならば20ドルで十分だから、 最初にここで金を払えと言った。そして、こっちでガソリンが出るようスイッチを入れるから、車に戻って自分でガソリンを入れろというのである。その際のノズルの扱い方を彼女は事細かに僕に伝え、終わったらもう一度ここへ来て、余るなり、足りないなりした分の金額を清算しなさい、と、まあ、こういった事を言ったのだった。

 そして、“You can do it?”と、聞いてきた。

 “May be,I'll try”と答える僕に、「Good!」と大きなアクションで彼女は言い、初めてにっこりと笑顔を見せた。

 セルフのスタンドで、“ギャッサウリン”を入れる場合には、まず売店で欲しい量を申告し、あらかじめ料金を支払った後、自分で勝手に給油し、後で清算する

 何ともアメリカらしいこのシステム、日本に帰ってきて数年後、このシステムが日本にも導入された事を聞いた事があったが、どうも日本の風土には今いち根付かなかったらしい。

 これもまた、その地域地域に適合した、一つのシステムといえるのだろうと思い、あの頃を懐かしんでいる今日この頃であった。

(01.01.18)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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