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K's Room Odds & Ends

デジカメ隊はゆくdigi-came

-気ままに撮った街の風景をご紹介しています-

2003年東京国際女子マラソン -それでも高橋は早かった- 03.11.16


 2003年の東京国際女子マラソン、当日の日曜日は気持ち悪いくらい暑かった。前日は10℃の前半まで冷え込んだ雨模様だったのに、この日は朝から晴れ上がり、都心では結果として25℃にも迫る気温となった。11月中旬としてはちょっと異常である。

 そして、素人でも分かる事がある、これじゃマラソンはきつい。

 その日の朝刊は朗かにやり過ぎと思えるほど、この日レースに出場する高橋尚子の写真がちりばめられていた。高橋といえばもう誰もが知っている通り、デビュー戦以外のマラソンレースで全勝、シドーニーオリンピックで金メダル、翌ベルリンマラソンでは世界最高記録を叩き出すなど、誰もが期待し、そして望んだ結果をいとも簡単に達成し、昨今の日本のスポーツ界で唯一ともいえる百点満点連発のスーパーヒロインである。否が負うにも注目度は高く、このレースでの沿道の過熱振りは容易に想像がつき、こりゃ相当早く行かないとまともに見れないなと、思いついた。

 僕自身、まともに意識してマラソンを見ようなどと思った事はなく、今回がその初めての体験となる。以前はたまたまコースの最寄りに住んでいた事があり、その時は中継のテレビを見ながらそろそろ来るなあなどと確認し、ひょこひょことサンダルを突っかけて沿道まで歩いて行ったりしたが、今でもコースがある区内に住んではいるとはいえ、そんなウルトラ贅沢な訳にはいかない。そこで、ある程度まともな観戦の計画を練る為、インターネットでコース、予想タイムなどを引き出してみることとした。

 この大会のコースには折り返しがあり、往路、復路とも同じ道を辿る。どうせ見るなら往復をキチンと見て、レースを二度楽しみたい、そう考えついた僕は折り返し地点である平和島から、やや品川よりのポイントを選ぶ事とした。ここなら適度な時間差で先頭が折り返して来て、自宅からも割と近い場所である。

 しながわ水族館の入口でもあるその場所へ辿り着いたのは先頭の予想通過時間のおよそ45分くらい前だった。当然ながらコースとなっている第一京浜の車の往来もまだ激しく、普通に生活する人通りもある。しかし、その中でちょうど給水ポイントでもあるこの場所では、ブレザーを着込み帽子を被った関係者らがどこかせわしなく動き回り、警備に当たる警官の姿があちらこちらに目に付き、給水台や交通整備のパイロン等も沿道の至る所に目に付いた。沿道での観衆達もわずかな時間の経過の間に続々と増加し続けていて、それは、ふと気が付くと恐ろしい勢いで増殖し続ける顕微鏡の中のウイルスのようだった。

 

 

<信号は手動操作>

 

 沿道の歩道の上無造作に置かれたダンボールの中に、クリスマスプレゼントのような小物がぎっしりと詰まっていた。よく見てみると、それは選手達がレース中に飲む為に用意した給水用のボトルだった。そして、試しに一本飲んでみようかと思うくらい、それは安易に歩道の上に置いてあったので僕はびっくりした。

 そう言えば当然この中には高橋のドリンクもあるはずだと思い付いた。せっかくの機会なので、すぐ横に突っ立っていた関係者のおじさんにその事を聞いてみた。

 「これは、選手達のドリンクですよね」

 僕の問い掛けに、おじさんは露骨に嫌な顔を見せ、そうだよとだけ答えた。

 

 

 “おじさん”と書いたが、実際にはほとんど“おじいさん”に近い。なぜか分からないが、この給水所附近列挙していたブレザーに帽子に腕章をした関係者達は、軒並み高齢者だった。

 「“高橋尚子の”も、この中にあるんですか」

 この問い掛けは、このおじさんにとって最も嫌な質問の一つのようだった。そして、一拍の間の後、明後日の方を見ながら「あるよ」とおじさんは答えた。

 へーと感嘆の声を出し、ダンボールを見下ろしたままその場を離れない僕に、「31番というのがあって、それが高橋のだよ」と、教えてくれた。

 ただそう言った後、おじさんはダンボールと僕の間に自分の体を割り込ませ、教えてやったんだから、さっさと離れろと背中で言っていた。

 ダンボールにはざっと30本くらいのボトルがぎっしりと詰まっていて、その中のいくつかには様々な派手な目印が施してあり、その内のどれかが高橋のだろうとは見当が付いた。しかし、31番という文字は確認できず、結局のところはどれなのかは分からなかった(後で分かったけど、赤くて長い手提げを付けた二本組のボトルがそうです)。

 じゃあ写真だけなどと言い、僕は図々しくシャッターを切った。おじさんがジロリと見たので、「どうも」とだけ挨拶して、僕はその場を離れた。

 

 その日は、紛れも無く初夏だった。

 沿道に陣取り、今か今かとマラソンの列の先頭を待っていると、Tシャツの上にデニムのブルゾンを着込んだだけの軽装なのに、日の光をまともに浴びた背中がやたらと暑い。ラジオも持って来てはいないので、実際既に始まっている肝心のレースの様子は皆目検討もつかない。それでも、沿道にいる人達の間で自然発生的に情報交換が始まり、高橋と外人が(笑)トップで併走しているというのだけはわかった。道路上に給水の台が出され、さっきの段ボールに詰まっていたボトルが、関係者によって手際よく並び始めたその頃、メガホンを持った関係者が、“先頭集団は現在品川プリンス前を通過、トップは高橋!”とおもむろに叫び、あたりの観衆からどっとどよめきと拍手が湧き起こった。

   

   

 やがて大変な勢いで往来のあった車の流れがピタッと止まった。頭一つ飛び出せる特技のある僕は、爪先を目一杯伸ばして、蜃気楼に霞む第一京浜の先、ぎっしりと埋まった観衆が作るカーブが道を隠している辺りに目を凝らした。最前列に陣取った僕の背中を自分が見えないとばかりに誰か押す奴がいる。その時、上空にヘリコプターの音が響いた。そして、まさにそれを合図に、マラソンの列を先導する車の姿が視界に入った。

 「来た!」

 たぶんその辺りでは真っ先に僕は叫んでいた。

 

 

 先導の乗用車が、洗練された街宣車のようなテレビ中継の巨大なバスを引き連れて姿を現す。中継車の上のデジタルタイマーが、1:06:から下の桁をめまぐるしく回転させ、まるでこの世のカウントダウンのようにその姿を誇示続ける。先導の赤色灯を回した二台の白バイの後、目の錯覚かと疑うばかりに小さく細く、二人のランナーの姿が目に入ってきた。

 

 

 実はここからの記憶は僕の中で四つのショットしかない。これは、旧型のデジタルカメラで写真を撮ろうと精力を傾けていた為で、超スローで次の撮影のスタンバイをするモニター越しの映像しか結局のところ僕は見ていないのだ。

 この最初に姿を現した瞬間に一枚目。シャッターを押して、すばやく次を用意しようとモニターを覗いていると、この旧型の(とは言っても三年前製)のデジカメ君、ご丁寧にも次の動作に移る間のんびりと今撮った映像をモニターに表示させている。そして、このカメラの動きに僕はメチャメチャ焦る事となった。

 

 

 デジカメが次の撮影準備が整った瞬間に二枚目。もう構図も何もあったもんじゃない。高橋と、アレムはなんと給水所間近まで迫っていたのだ。わずか数秒、マラソンランナーの速さは想像以上であった。そして、この二枚目の写真がモニターにフラッシュバックされた瞬間、高橋の姿が看板に隠れ撮れていない事に気付いた。ここで僕の心臓はバクバクと音を立て出した。

 「ああ、だめだあ!まともな写真が撮れん!」そう思った瞬間、デジカメ君は三枚目のスタンバイ完了。物凄いテンポの足音が響き、その時、なんと高橋とアレムは僕の目の前にいた。そして、モニターのど真ん中に人影が入るのが分かり、もうただ反射神経任せに僕はシャッターを切った。

 “撮れたぁ!“

 物凄い手応えがあった。フラッシュバックを映し出しているモニター、その中央に奇跡的に高橋が収まり、アレムがその後に続いていた。

 

 

 次の瞬間コースの前方に目を凝らすと、高橋は既に彼方遠くに走り去り、米粒大の細い体と、なぜかか細い肘が目に留まり、僕は後続のいないレースの中堂々と車道に出て四枚目のシャッターを切った。

 

 

 結局のところ肉眼で高橋を見たのはこの後ろ姿だけである。“生高橋“を一目見て歓喜に沸く観衆の中、一体何だったんだと僕は呆然と立ち尽くしていた。

 

<折り返し後、スパートをかける高橋>

 

 その後かなりの時間を空けて続々と後続が続いてきた。当然ながら同時に走り出したはずなのに、この差は一体何だろうと考えさせられ、改めて高橋尚子という選手の速さを身をもって感じることとなった。テレビや新聞の報道などではなかなか実感しにくいが、これだけの人数を従えて圧倒的な速さで走り去っていくのである。順位付けのわずかな違いこそあれ、上位入賞するというだけでもうそれは凄い記録である。

  

<アトランタ五輪金メダリストのロバ> 

 

<テレビクルーも命懸け?!> 

 

<33番は三位に入賞した嶋原>

 

 

<「ゆう君」もはりきって応援(笑)!>

 

 この日はほぼ同じコースを使って、同時に市民マラソンも開催されていた。そんな選手の中には、往年の名選手である浅井選手や谷川真理などの姿もあった。年配の女性や、やがては遅れて走り出した男性の姿も現われ、あっという間に沿道は往復するマラソンランナーに埋め尽くされる事となった。給水係の年配の関係者達は、たまにボトルを落としたり、あたふたと何か取り違えたりはしているものの(!)、手際よく作業をこなし、受け取るランナーの中には「ありがとうございます」と、絶え絶えに声を掛ける人もいる。沿道の観衆も、もう一体誰だか分からないながらも、拍手と声援を繰り返し、「ゆう君」もつられて拍手をしたりしている(笑)。一つのイベントに参加している一体感がに高揚し、思った以上に充実感のある一時となった。

 

 

<往年の名選手浅井>

 

 “本当であれば”、今回のレースはど素人でも予想がつくほど簡単な展開だったはずである。例年の通りアメリカの高地ボルダーで血の滲むような練習を行ってきた高橋が、めぼしいライバルもいない中先頭集団を引っ張り、あわよくばほぼ完全独走で大会を制覇する。“高橋であれば”自己新(日本新)、ちょっと調子が良ければ世界新のおまけも付き、アテネオリンピック出場を楽々当確とし、最高の笑顔で国立競技場のゴールテープを切る。日本のスポーツ界が歓喜に包まれ、翌日のスポーツ紙各紙はデカデカと一面でその高橋の栄誉を世に知らしめ、オリンピック二連覇をほぼ手中にしたと煽り立てる。シナリオは完成し、その準備は90パーセント以上出来上がっていた。後は万に一つのアクシデントが起こらぬよう、観衆は天にでも祈ってさえいれば良かったはずなのだったが・・・

 ご存知の通り、この日高橋は終盤に追い抜かれて二位。記録もとてもオリンピック出場当確とはいかない平凡なタイムであった。そして、この日の高橋の失速、それは唯一世界に誇れるアスリートを失った日本国民全体の失速であったかのようだった。

 その夜、内容はぜんぜん覚えていないが、爆睡する僕の夢の中に確かに高橋が出てきた。そして、翌日のかったるい月曜の朝、目を覚ました時、なぜか自分自身が試合に負けた翌日のような、少しの悔しさと虚無感、そして少しの焦燥感がごちゃ混ぜになった何とも言えない胸騒ぎを感じたのである。昨日、あの沿道で、そこまで思い入れを持ってこのマラソンを、そして高橋尚子を観戦したつもりは露程もなかったはずだった。でも、あの時、高橋の必至の走りを間近に見て、知らぬ間に自分も高橋と一緒に走っていたんだなあと改めて気付かされたのである(ぬあんちゃってえ!)。

 

 

(終)



 

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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